作家 小林真一のブログ パパゲーノの華麗な生活

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【 ウイーン我が夢の街 】

2012-10-23 18:44:16 | 02 華麗な生活

「ウイーン、ウイーン、我が街よ」と19世紀末から20世紀に
かけて、人々がウイーナーリートの一曲、ジーチンスキーの
リズムに乗って踊り、かつウイーンの森の山麓のブドウ畑で
得られる豊穣なワインに酔いしれた、そのウイーンは故郷を
持たぬボクのとっても、ツバイテハイマート(第二の故郷)と
呼んで差し支えないと思える街なのである。

ウイーンとの浅からぬ縁の始まりは、1968年に真冬の寒村
で若い学生たちと机を並べてドイツ語を学び、ハンブルグに
勤務となったボクが最初に訪れた街こそがウイーンであった。
オーストリア専売公社の購買担当理事であるアドラー博士は
ボクを暖かく迎え入れ、タバコのフイルターの原料である化学
繊維の一種アセテートの日本からの購入を決断して下さった。

多くの名門企業が危機に瀕し生命が絶えるのだが、それが運命
であるかに、求めて入社した総合商社も、社長を託するに足る
人材を欠いて栄光の社名をも失う。その行く道を本能的に悟った
ボクは、1979年に愛した会社を去ったのだが、その最後の任務
こそがウイーンに本拠を置く東欧支配人であった事実と、アドラー
博士のボクへの支援とは、決して無縁ではなかった。

オーストリア専売公社は国営企業であったから、ある時の政変で
政権が代わり、アドラー博士もその地位を追われた。
幸いにも自ら起した会社が軌道に乗って、ボクはサラリーマン時代
には経験し得なかった音楽の都ウイーンを満喫する幸福をも得た。

およそ40年近く毎年のように訪れた街、ウイーンは将にボクの第二
の故郷の如く、行く度に何かの新鮮な歓びを与えてくれた。

ところで本編の題にもした「ウイーン我が夢の街」だが、ボクの手元に
あるCDは、天才的な編曲能力を備えたピアニストにより、曲の途中
から、かの「メリーウイドウ」のハイライトのワルツに転移するのだ。

ジーチンスキーのリートだと思い込んでいる身に、突然レハールの曲
が飛び込み、ハンナとダニロの愛のワルツが奏でられ、最後はまた
「ウイーン、ウイーン」に戻って、この名演奏は終わる。




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