風の向くまま薫るまま

その日その時、感じたままに。

最後の武士(もののふ) 楢山佐渡 ~結び~

2015-06-11 12:38:27 | 幕末の盛岡藩




ここで、維新直後の、政府による地方統治について、簡単に紹介しましょう。

明治新政府は、旧幕府の直轄地を「府」と「県」に分け、旧大名領を「藩」とする、「府藩県三治制」を敷きました。

これは後に行われる「廃藩置県」への過渡期的な制度で、「版籍奉還」によって、「土地」と「国民」を天皇へお返しし、かつての大名は「藩知事」として中央から派遣されるというかたちをとったわけです。

藩は大名の「領地」ではなく、国より派遣された知事が「管轄」するものとされたのです。



先述したように盛岡藩には、領地没収、知行を減らされた上、白石へ転封という厳しい処分が下されました。

南部家当主となった南部利恭は、新たに白石藩知事に任命され、明治2年(1869)7月、白石に赴任します。

ところで、この転封に大きく反発したのが、旧盛岡藩領の人々でした。

盛岡御城下の一般庶民を中心として、南部の殿様の転封を反対する運動が起こります。領内をあげての署名嘆願書が政府に向けて提出されました。

南部氏が奥州の地に踏み入れたのは、源頼朝による、奥州平泉藤原氏討伐軍に加わってのことでした。

戦の功績が認められ、糠部5郡(三戸、八戸付近か)を領地として与えられ、爾来およそ700年に亘って、ほぼ同じ地域の領主として君臨し続けてきました。

これは非常に珍しいことで、これほど長く、同じ領域を統治し続けたのは、薩摩の島津氏と、この南部氏だけだそうです。

その為か、地元の人々には、「おらほの殿様は南部のお殿様しかいねえ!」という意識が根強くあったのです。

苛斂誅求に苦しめられた経験もあったはずなのに、それでもやっぱり南部の殿様がいい!この運動は政府を動かし、南部利恭は白石赴任よりわずか1ヶ月後の8月に、新たに盛岡藩知事に任命されることとなります。

ただしこれには、700万両を政府に献上するという条件が付いていました。しかしそんな大金を用意する術はありません。なんとかかき集めた5万両を政府に献上することで、政府側に了承してもらい、南部利恭は父祖の地盛岡の土を踏むこととなるのです。

しかし幕末以来の逼迫した財政を立て直すことが叶わず、明治3年(1870)、盛岡藩大参事・東次郎は廃藩を決断し、政府に申請します。

ここに盛岡藩は消滅し、盛岡県が誕生。盛岡県は曲折、集散を繰り返し、最終的に岩手県となる、というわけです。







上記にみられるように、盛岡藩領の人々は、一言で言えば「情の篤い」人々が多かった、と言えるでしょう。

かの楢山佐渡が、刑執行のため盛岡に帰ってきたとき、町の人々がこぞって沿道に集まり、佐渡の乗せられた駕籠を見送ったそうです。

皆一様に目を泣き腫らし、中には駕籠を追って駆けだす者もいたとか。警備の者たちも、あえてそれを止めなかったそうです。

誰一人として、負け戦の惨状を攻める者は無かった。皆、佐渡の心情を理解していたのでしょうか。



佐渡は盛岡・北山の報恩寺にて刑が執行されました。

刑が執行された時刻、報恩寺の周りを、泣きながら巡っている少年がおりました。

敬愛する楢山様の御姿を一目拝せぬものか。少年は泣き腫らした目で、いつまでもいつまでも、報恩寺の周りを巡っておりました。

この時少年の胸に、「薩長なにするものぞ!今に見よ!」という、奥州人特有の反骨精神が芽生えたのです。

少年の名は原敬、14歳。

後に、薩長閥に寄らない、日本最初の政党内閣を樹立した「平民宰相」原敬です。



原は盛岡藩の家老職の家に生まれました。佐渡と同様、上級武士の出です。

その気になれば、爵位も得られたはずでした。しかし、

「薩長の軽輩どもがこぞって欲しがり、それを得ることでバカみたいに偉ぶる姿はなんだ!見苦しい!、自分はあれと同じにはならぬ!あのような軽輩どもと一緒ににされてたまるか!」

盛岡藩の上級武士としての誇りと反骨精神が、あえて爵位を得ない「平民」としての道を選ばせました。

原の本願は唯一つ、盛岡藩の逆賊の汚名を雪ぐこと。

その為に粉骨砕身、己を捨て、只々御国のため、陛下のため、民草のために働く。

それだけが唯一、盛岡藩の逆賊の汚名を返上させる道。



維新後、旧盛岡藩から幾多の人材が各界に排出されました。

外交官であり、世界的ベストセラー「武士道」の著者、新渡戸稲造。

日本近代製鉄の父、大島高任。

東洋史の泰斗、那珂通世。

国際連盟事務次長、杉村陽太郎。

陸軍中将、東条秀教(東条英機の父)。

海軍大臣・内閣総理大臣、米内光政。

歌人、石川啄木。

農業家・童話作家、宮沢賢治。

その他その他。みな一様に、その胸の内に反骨の炎を燃やしながら生きた方々だと言えましょう。


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大正6年(1917)、9月8日。盛岡市北山の報恩寺にて、「戊辰戦争殉難者50年祭」が、厳かに執り行われました。

楢山佐渡を筆頭とする、戊辰戦争で亡くなった盛岡藩士たちの霊を弔う祭の、事実上の祭主は、当時政友会総裁だった原敬でした。

この祭のために原が用意した祭文の全文をここに明記させていただきます。



【同志相謀り旧南部藩戊辰戦争五十年祭本日を以て挙行せらる、顧みるに昔日も亦今日の如く国民誰か朝廷に弓を引く者あらんや、戊辰戦役は政見の異同のみ、当時勝てば官軍負くれば賊との俗謡あり、其真相を語るものなり、今や国民聖明の沢に浴し此事実天下に明らかなり、諸氏以て瞑すべし、余偶々郷に在り此祭典に列するの栄を荷ふ、乃ち赤誠を披歴して諸氏の霊に捧ぐ

大正六年九月八日

旧藩の一人 原敬】






【戊辰戦役は政見の異同のみ】誰も朝廷に逆らおうなどという者はいなかった。皆それぞれの立場で、国を想い、民を想い、皇室を想い戦った。

どこにも逆賊など、いなかったのだ。

どこにも。



                       
                         原敬





戊辰戦争で亡くなられた同盟諸藩の方々、決して靖国神社に祀られることのない数多の「英霊」方に、

敬意と哀悼と、

感謝を込めて。











これにておしまい、で、ありやす。




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