明治元年(1868)12月7日。盛岡藩は領地を没収され、国の直轄地とされました。
12月17日、藩主南部利剛は麻布の南部藩邸にて謹慎の処分が下され、世子彦太郎(南部利恭)が家督を継ぎ、旧仙台藩領の白石に13万石での移封が命じられました。
翌明治2年(1869)1月4日、白石への正式な転封が届けられます。
盛岡藩は20万石でしたから、それが13万石にまで減らされ、さらに白石に移動させられるとは、かなり厳しい処分であるといえます。
この処分に対する怒り、憤りが一人の人物に向けられてしまいます。
目時隆之進です。
楢山佐渡とともに京都にあった目時が、妻子共々長州藩邸に逃げ込んだことは、以前お話しました。
目時はその後、新政府軍に付き従って盛岡へ進駐し、盛岡藩の新たな執政の一員として家老職につき、東次郎らと終戦処理にあたっていました。
目時に対する周囲の目は冷たかった。意見を異にしたとはいえ、一度は脱藩しておきながら、「官軍」とともに舞い戻ってきて、執政を担当している。
目時には目時なりの、藩への想いや苦悩があったことでしょう。しかしながらその行動は、武士として決して誉められたものではありません。
「此度の厳しい処分は、きっと目時の差し金に違いない!あの『売国奴』めが!」
藩民の容赦ない視線が目時に浴びせられます。東京にあって処理にあたっていた目時は、藩士達に捕えられ、取り調べの為盛岡へ護送されます。その途上2月8日、目時は黒沢尻(現・岩手県北上市)の鍵屋の一室にて、壁に「報国」の文字を記し、切腹します。
新政府への恨み辛みが、一人の男へと向けられてしまった結果でした。
目時の行動は必ずしも共感できるものではありませんが、それにしても、少々哀れではあります。
人は時に、残酷な仕打ちをするものです。
さて、東京に移送された楢山佐渡は、盛岡藩ゆかりの寺、金地院にて幽閉の身となり、取り調べをうけることとなりました。
尋問はかたちばかりのものでした。佐渡は「すべて私一人にて決断したこと、責任はすべて私一人にある」とだけ語り、他に多くを語りませんでした。
主君に類が及ばぬよう、それだけを気にかけていたようです。
やがて佐渡に、刎首が言い渡されます。刎首とは文字通り、首を刎ねるということです。
これを聞いた佐渡は「有難くお受けいたします」と、微笑さえ浮かべていたといいます。
ただちに藩邸から軍務官へ書面が提出されました。
「佐渡の罪を家中のものたちへ知らしめるため、盛岡にて刑を執行されたい」
これは東次郎の粋なはからいでした。佐渡にもう一度盛岡の土を踏ませたい。盛岡の風景を見せてから死なせてやりたい。
思えば長の年月を、ライバルとして競い合った二人でしたが、お互い意見を異にしたとはいえ、藩を思う気持ち、国を想う気持ちには変わりなかった。
最早東に、佐渡へのわだかまりはありませんでした。
東もまた、一人の武士(もののふ)であった、と申せましょう。
処刑の為盛岡へ移送された佐渡が、盛岡へ着いたのは6月7日の夕刻でした。
北山の報恩寺にて駕籠から降ろされた佐渡は、「想いも掛けず故郷に帰れてありがたい」と涙を浮かべていたといいます。
報恩寺に幽閉された佐渡は、ある夜食中毒の為、激しい腹痛に襲われます。
日に日に憔悴して行き、一時はかなり危険な状態に陥りましたが、やがて回復します。
持ち直した佐渡は「このまま死んだら、中島に申し訳がたたぬと思った」と語ったとか。
京都にて切腹して果てた中島源蔵への哀惜の念は、佐渡の胸の中にずっとあったようです。病で死んだとあっては、あの世で中島に合わす顔がないと思ったのでしょう。
堂々と処刑されることで、自分の為に切腹した中島にも、ようやく顔向けができよう。武士(もののふ)とはそのように考えるもののようです。
6月23日早朝、佐渡の刑が執行されました。
刎首ということでしたが、刑は切腹のかたちをとるとのこと。
「まことに切腹でござるな」と佐渡は念を押したそうです。切腹なれば、武士としての面目も立つというもの。見回りに来た小監察に「これで武士として、心置きなく死ねる」と満足そうに言ったそうです。
午前3時、盛岡藩士江釣子源吉の介錯により、刑は滞りなく執行されました。
楢山佐渡、享年39歳。どこまでも、武士(もののふ)としての矜持を全うした生涯でした。
【花は咲く 柳はもゆる春の夜に うつらぬものは 武士(もののふ)の道】
楢山佐渡 辞世。
もうちょっとつづく、で、ありやす。
大きな歴史の流れからすれば、ほんの些末な事なのかもしれないけれど、それでも一生懸命生きて、散って逝った方達はたくさんおられます。現在の我々の生は、そういう方達の御蔭でもあるのだということを、忘れて欲しくないなあって、いつも思うんです。名も知らぬままでもいいから、そういう方達へも、ほんの少しでも想いを寄せて欲しいと思います。
武士と書いて何故「もののふ」と読ませるのか、実はよくわかってないんです。一説には、物部を「もののふ」と読んだことが由来だともいいますが、はっきりしません。
物部氏は祭祀と軍事を司っていたらしいです。物部の「モノ」は霊、魂を意味するとか。ならば武士の「もののふ」とは、「モノの夫」つまり武士の「心」「魂」「精神」を正しく保持する武人という意味かとも解釈できるんじゃないかな?だとするなら、佐渡にはピッタリだと思います。
この辺は、おトキさんが得意かも。
ところで、記事を拝見して、
薩長の薩摩は、どうして、東北の人々にこんなことが出来たのか?という問いに、「江戸幕府にされたことの仕返しだ」という答えもあるかと思いました。
こちらの地域では、木曽三川(揖斐川・長良川・木曽川)の治水工事で、薩摩藩士が多くなくなった話が伝わっています。これは薩摩の財政を逼迫させるために、幕府が命じたとも言われていますね。
もし、こういった幕府への不満を、やられたことをやりかえす、気持ちでやったのだとしたら、やりかえさなかった人々がどうなったのか、これからわかるのかもしれません。
この、薩摩義士のお墓が三重県桑名市の海臧寺にあります。旧桑名城のすぐ近くです。
治水が行われたのは三重、岐阜両県にまたがっていて、岐阜県にも、薩摩義士のお墓を供養するお寺があるのです。
この岐阜県のお寺の1つが、海津市にあります。
海津市=高須藩です。
なんか、繋がっていてコワイす。
忘れないこと。はい。
佐渡さんは、来月が命日ですね。
幕府の命とはいえ申し訳ないと思っていた側、先祖を手厚く葬った側に刃を向けていった、
というのがコワイという意味です。
薩長の滅茶苦茶やった方々も、やられた東北の方々も、
おおざっぱに言えば、
私の御先祖様なんですね~。
ありがとうございます。
やられた分はやりかえすというのが、武士の面目を保つことだ、という考えがあったことは確かで、でもそれを繰り返していてはキリがないから、法で定めて、幕府の権威で抑えていたんです。でもその幕府がなくなってしまった。自分達が法だ!となった時の人間ってのは、結構平気でひどいことをしてしまうことがある。もちろん、すべての人がそうだというわけじゃないですけどね。
自分で自分を押さえる。自分の中にそうした、しっかりとした確たるものを持たなきゃダメだなと思うんです。
日本人だって、そういう点では結構「アブナイ」んだよ、日本人だという事にあぐらをかいてちゃいかんよ、という話、かな。