「民族」を定義するのはとても難しいそうです。
いくつかの説はあるようですが、どの説も、「民族」というものの一部分を説明し得ているものに過ぎず、完璧に民族というものの意味をを説明し得ている定義は未だに存在しない。
「民族」とは、その境界線が実に曖昧です。
簡単に線を引いて、「ここからコチラは○○民族、ここからアチラは××民族」という風に明確に分けることができません。
民族と民族の間には、広大なグレーゾーンが広がっている。
民族というのは極めて曖昧、かつ恣意的なもの。その時々で、領域も意味合いもコロコロ変わる。
街角に立って道行く人々の顔立ちを観察していると、実に様々な顔立ちがあることに気が付きます。
モンゴル人のような顔、インド人のような顔。ポリネシア系、コーカサス系、アラブ系その他その他。
でもこれ皆、「日本人」なんですよね。
この一件だけでもわかるように、「日本人」というのは、様々なルーツを持つ人々の「ハイブリッド」であることがよくわかります。
怒られるのを覚悟で言いましょう。
日本人はね、
雑種なんです。
日本人のルーツを縄文人だとしましょう。
日本の歴史の流れをある程度把握している方ならおわかりのことでしょう。現代日本人は、縄文人からそのまま直で繋がっているわけではない。地域差はあるにせよ、大概他所からやってきた人々の血が入っている。
特に大きいのは、縄文人から弥生人への移行でしょうか。縄文人と弥生人は実は同じだ、とする説もあって、それもうなずけないわけではありませんが、やはりそれだけではすべてを説明しきれないでしょう。弥生人が「他所」からこの列島にやってきた人達であるという見解は、ほぼ妥当だと思っていい。
ほとんどの日本人は、この縄文人と弥生人とのハイブリッドであり、
さらにそこへ、多種多様な人種、民族の血が混じり合い、実に多様な様相を呈している。そういう意味では日本人は、
「単一」ではありません。
ではこの、単一ではない日本人を日本人たらしめているものは何か?
その一つの要素としてあるのは、「日本列島」でしょうか。
四方を海に囲まれた閉ざされた島には、四季のはっきりした季節と豊かな生態系があり、そこに澄む人々は豊かな大自然の中で、その独特の自然観、生命観を育み、発展させてきました。
その感性は、1万年も続いた縄文時代を通じて、日本人のDNAに深く刻み込まれた。
すべての日本人のルーツ、ベースが縄文人であるなら、この縄文人によってDNAに刻み込まれた感性は、
すべての日本人に共通してあるはず。
これが「日本人」を緩やかに纏め、一つの「民族」たらしめている。
そう意味では日本人は、
「単一」なのです。
多にして一、一にして多。
これが「ニッポン」。
「純日本人」なる言葉がありますが、私にはこの言葉、今一つ意味がわかりませんでした。
血統的な意味でしょうか?しかし上述したように、純粋な縄文人は現代にはまずいませんから、純日本人などというものは存在し得ない、という他はありません。
いや、あえていうならば、死穢の観念によって触れることを忌み嫌われた被差別民は、差別によって結果的に「他所」の人々の血が混じることから比較的免れた。
で、あるが故に、100%ではないにしろ、縄文的血統がもっとも色濃く、民には伝えられてきたといえるでしょう。
ですから、イマドキ敢えて、血統的な意味での「純日本人」なるものが存在し得たなら、それは
被差別民を置いて、他にないことになりますね。
なんか、愉快ですねえ。えっ、どういう意味かって?まあまあ、そこは言わぬが花ってことで。
さてこの「純日本人」、私が尊敬申し上げる、岡潔先生も使っておられた。
岡先生の定義する「純日本人」、これが実に
素晴らしい。
〈続く〉で、
ありやす。
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