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被差別民と東北 ~前哨~

2015-10-29 13:44:19 | 岩手・東北





(エタ)やなど、いわゆる「身分外身分」が制度化されたのは、江戸時代以降のことです。

いわゆる「死穢」に深く関わる人々、処刑場での死骸処理や、罪人の市中引き回しの列に加わること、牢の掃除など、みんな嫌がるけれども、誰かがやらなければならない底辺の仕事を一手に引き受けさせられた人々のことを、とくに「エタ」と呼び、差別の対象とされた。

なかでも彼らの仕事で主要だったのは、牛馬の死骸から皮を剥ぎ、皮革製品化することでした。

鎖国化によって海外から皮革製品が入って来なくなったため、国内生産に頼らざるを得なくなる。幕府はこれを管理する目的もあって、エタ身分の制度化と管理を進めます。

「弾左衛門」と呼ばれるエタの「ボス」を各所に置き、エタ村の支配と管理をまかせるようになります。弾左衛門は大名並みの扱いを受け、帯刀も許されていたようです。

関東一円のエタ村を支配する弾左衛門の屋敷は浅草に置かれ、「浅草弾左衛門」と呼ばれました。その屋敷は大名屋敷と見紛うばかりの規模だったようで、しかしその造りは大名屋敷とまったく同じというわけではなかった。

そこは身分外身分、色々と制限はあったようです。



エタ村は川向こうに置かれ、川の流れ(=穢れを流す)を境界線として、一般社会から隔絶された。しかしそのボスの暮らしは大名並みの扱いだった。

幕府は社会一般の「穢れ感」を利用し、社会秩序と治安の維持、加えて皮革製品の管理をしようとしたのだと思われます。であるが故に、弾左衛門を厚遇し、「お前たちは御上のお役にたっているのだ」ということを示しつつ、穢れ仕事に従事する彼らを身分外に置くことで、一般庶民の穢れ感を納得させた。

もっとも、彼らエタ身分の方々は、皮革製品生産等で比較的安定した収入を得ており、牛馬の肉を食べていますから、一般農民よりも精力的で身入りのいい暮らしをしていたともいえ、そこがまた反感を持たれる要因ともなっていたようですが。




こうした身分外身分が制度化されたのは江戸期以降ですが、被差別民自体はそれ以前から存在しています。どこまで遡れるのかは諸説ありますが、おそらくその起源は相当古い。

おそらくは、日本国建国の秘密に関わるほど、遠い遠い起源を持つのではないかと、私は考えます。



興味深いのは、上述した浅草弾左衛門の屋敷近くに、白山神社が祀られていることです。

白山神はエタと呼ばれた人々の信仰を集めていたようです。

私は白山神を「死と再生」の神であると解釈していますが、このあたり、なにやら秘密を解くカギがあるような…。



ところで、このエタ村、いわゆる被差別“”ですが、東北にもあったのでしょうか?



〈続く〉、でありやす。

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