明治新政府は自らの行いを正当化するために、明治以前の江戸の世を、庶民が圧政に苦しんだ暗黒時代だったと規定しました。
まあ確かに、現代に比べたら色々制約は多かったし、不自由な時代ではあったでしょう。しかし江戸時代の庶民は本当に圧政に苦しんでいただけだったのか?
250年もの平和が続いた訳を思うとき、それが圧政によるものだけとは思い難いものがあります。
250年もの間、対外戦争もなければ大きな内乱もない平和を維持した時代を、果たして「暗黒時代」などと呼べるものでしょうか?
幕末の頃の日本人の識字率は、当時の世界水準に比べて大変高く、寺子屋等の私塾の発達は一般庶民にまで、教育、教養を行き渡らせた。
街道や宿場町等も整理され、通信網等のインフラも整備され、町人や農民に至るまで伊勢参り等の物見遊山の旅に出ることができた。これは経済環境も発展し、人々はそれなりに豊かであったからこそできたことでありましょう。
女性の一人旅も普通に行われており、これは治安もそれなりに良好であったことを示したものと思われ、幕府の御触れに従って、各地域の役所がしっかりと仕事をしていたことを表しています。
『水戸黄門』に観られるような、日本中どこに行っても悪代官と悪徳商人ばかりなんてことはなかったのです。
病人に対する扱いも人道的であったと云えます。これは先述した原田伊織氏の著書にあったものですが、24歳でハンセン病つまりらい病に罹った勘助なる人物が、自分の死地を草津温泉と定め、旅にでることを決意します。家族はその意思を尊重し、旦那寺の住職に「往来一礼」つまり通行手形を書いてもらい、共を一人付け、相応の路銀を与えて草津へと送り出しました。
草津の宿の主人もこれを手厚く迎え、勘助は草津の地でその生涯を閉じます。宿の主人は「往来一礼」を根拠として地元の役所に届け、草津の寺に勘助を埋葬します。葬儀の資金は予め勘助と旅を同道した人物から渡されており、宿の主人はそれを使い込むことなく手厚い葬儀を出してあげたのです。
宿の主人は勘助の家族にも報告を入れており、勘助の家族は地元で勘助のための法要を営むことも出来たそうです。
らい病は業病と呼ばれ差別の対象とされた、とはよく言われますが、これを見る限りは必ずしもそうとは云えなかったのではないでしょうか?明治以降のらい病患者に対する国家規模での隔離政策の方が、単純比較はできないかもしれませんが、明治以降の方がよほど差別的であったように、この件を見る限りはそう思われますが、いかがでしょう?
らい病患者や、あるいは女性に対する差別は、寧ろ明治以降の方が酷かったのではないか?私にはそのようにも感じられて仕方がありません。
これ以外にも、以前に記事で紹介したように、江戸時代は人の出した糞尿を農家がお金を出して買い取り、肥料として使うという「循環型社会」が確立していたため、江戸市内はとても清潔でした。同時代のパリやロンドンが、路上に糞尿が溢れている状況とは全く違っていたのです。
森林伐採等も適度な制限が行われ、環境保護もそれなりに行き渡っていた社会だった。それは日本人の自然観、宇宙観に直結した政策だったといって良く、人間も自然の一部だという観念が、大自然を守り、共に暮らすという政策を行き渡らせることの出来た根本だと云えるでしょう。
寧ろ明治以降の方が、西洋合理主義に被れてからの方が、日本に於ける自然破壊は進んでいったと云えるのではないでしょうか。
最後に、東照神君家康公が残した、政務を行うにあたっての心構えを云った言葉を紹介します。
【今天下の執権を天道よりあづけたまえり。政道若邪路にへんずる時は、天より執柄たちまち取りあげたまうぞ】
「天下は天道よりあずかったものであるから、もし道を誤り悪政を行ったとしたら、天はたちまちに取り上げてしまうだろう」。江戸時代の役人の大半はこの言葉を胸に仕事をしていたと云ってよく、この時代の役人たちの倫理観は、いや日本人全体の倫理観は、世界随一のものがあったと
いっていい。
「日本には歴史がなかった、これから歴史が始まるのだ」と、ある維新の元勲は語ったらしい。しかし江戸の世にこそ、日本人が継承すべき【日本】があったのだ、歴史がなかったなどとは、
絶対に言わせない。
神君家康公の言葉を、山縣や井上など、醜態を晒した「英傑」たちに聞かせてやりたいと思うのは
私だけだろうか。
たまたまその時代で受益を得た人物のセリフにイチイチ反応してたらキリがないのでは~?と自分は思います。
ずっと江戸時代だったら、そうですねえ、中国の属国になってたかもしれませんね。朝鮮半島みたいに。とも思います。あと、不倫は文化で、今のように不倫ごときで責められたり社会的地位を失うということも発生しなかったかもしれないですねえ。歴史にたら、れば、はないので、現在、国の恩恵を受けて生きている以上、過去の人物のあいつが正義であいつが悪だったとか、過去の人物を裁くなんて、その時代を生きた人間でもないのに出来ないわ、と思ってしまいました。
そうは言っても、「江戸時代の生活・習慣」みたいな本が家にあるのですが(旦那君の趣味)、読んでみると、へ~面白いな~^0^と思います~☆
明治の英傑たちだって、醜態を晒した一方では、それなりに仕事もしている。遊んでいたばかりではないです。んなこたあわかっているんですよ。私はただ、出来るだけ正しい認識をもつべきではないかと云っているだけです。そのためには、敢えて歴史上の特定の者達の間違いも糺さねばなりません。
またやり合いますか?そのときは例によって削除させていただきますけど(笑)
それは冗談ですが、わたしは決して徳の高い人間ではないので、たま♪さんの言いぐさには腹が立つと、はっきり申し上げておきます。以上。
今だって、日本の平和は、豊かさは、ある意味よその国の犠牲の上で成り立っている面も大きいので。
明治維新だけに着眼を置く理由がよくわからない、と思ったのでした。
そして、誰がバランスを持っていない人達なのかも、よくわかりません。
兄者が、「バランスを取れない方たちのため」に書いているというのならば、そういう方達のためになる事を思います。
もちろん、私なんぞの拙い知識でそれがすべて出来得るわけがない。あとは心ある方々がご自分なりに勉強していていただければ、こんな幸いなことはないと思っています。
勉強とは己を壊すもの。大いに壊していただきたい。そう願うばかりです。
特に土方歳三は好きですか?
もしもすでに記事がありましたら教えてくださいm(__)m
あと、白狐隊をどう思われますか?
白虎隊ね、きつねじゃなくてとらね(笑)う~ん、一言で言えば悲劇だけど、なんだろう、江戸250年の太平の中で熟成されていった、観念上の武士道の行き着いたところのものが生み出したもの、なのかな、とは思います。戦国時代だったら、あのような子供たちはあり得ただろうか?とはよく考えますね。会津武士道の誇り、なんて簡単に云ってしまっていいものなのか。あれは基本的に悲劇ですよ、あんな若い子たちを、ね……。
身分における下剋上の時代だったんですかねぇ…。
井上馨の維新後の栄えっぷりは、「今 清盛」と言われるほどだったそうですね。
ここで平家に例えられるなんて、ちょっと背筋がゾッとします…。
果ては身分制度を変え、自ら伯爵となって、高い身分も手に入れた元下級武士…。
要するに人間って、人の持っているものが欲しいんですね…。
すいません、白虎隊でした。(;^ω^)
1980年代の白虎隊ドラマで隊士を演じていたのは、最近、反日司会者と言われている坂上さんなんですよね。
案外、反日というか反政府なのは、半島系の縁ではなく、そっち系の縁だったりして…、なぁんて余計なことを考えてしまいました。
2007年のドラマは、ジャニーズ祭りだったなぁ…。
それはともかく、太平洋戦争の特攻隊員は戦後の日本にすぐ生まれ変わったとして、会津藩士や白虎隊の戦死者はどうしたでしょうね…。
渡辺京二の「逝きし世の面影」を読んでみれば良いと思います。(既に読んでたらスミマセン)
本当に多くの外国人(プラントハンターから外交官、商人まで多数の方々)が、幕末日本・日本人の生活状況を事細かに記録していて、目からウロコの連続でした。
その中には批判もありますが、往々にして賛美が占めています。
日本人の自虐史観や、歴史のダークな部分に徹底的に焦点を当て、いつまでも反省する姿勢、もうやめたほうが良いかもしれません。
とにかく、多角的に歴史を捉え、学ぶべきです。
磯田道史の「無私の日本人」もお勧めです。
板垣征四郎の漢詩を読むと、彼が相当な知識人であったのは間違いなく、昭和の軍部も有能な人材が確かにいたんだなと痛感させられます。
もちろん、何もかも美化するつもりはないです。
幕末には幕閣や佐幕派にも相当有能な人物がいたし(岩瀬忠震や小栗上野介、会津藩にも多数)、一昔前まで薩長土肥に強く肩入れしてた自分の浅学を恥じました。