宮城県塩釜市に御鎮座される陸奥国一宮・鹽竈神社。創建年不明。主祭神は塩土老翁神(しおつちのおじのかみ)。その他、武甕槌神(たけみかづちのかみ)、経津主神(ふつぬしのかみ)が祀られています。
シオツチノオジノカミは、神武天皇や山幸彦を導いたという神話から、航海の神また海の潮を流れを神格化した神とも云われますが、今一つ正体がわかっていません。
鹽竈神社の境内にはもう一つ、とても立派なお社が御鎮座されております。延喜式内社・志和彦神社です。
総研年代はやはり不明。この志和彦神社。元々は現在地とは別の場所に鎮座されておりました。かつては延喜式内社、名神大社の社格を持つ由緒ある神社でしたが、時代の流れとともに衰退し、江戸の頃には小さな祠一つとなって、別の神社内に合祀されていました。
明治の御代となり、新たに官幣中社の社格を与えるに及び、小さな祠一つでは具合が悪いということで、現在地に立派な社殿を建て、御遷座されたという次第。
なんとも、不思議な変遷を辿った神社ではあります。
志和彦神社の御祭神は志和彦神。農業の神、殖産の神であり、国土開発の神だとされていますが、その由来はよくわからない。
ただ、江戸時代・元禄の頃に書かれた縁起には、「シオツチノオジ神と同体」であると書かれているそうな。
国土開発、つまり「国造り」の神ですね。国造りと神といえば思い出すのは
大国主神。
大国主とは固有名詞ではなく、それぞれの地方の開発に尽力した者たちは皆、大国主と言ったという説があります。ですから東北を開発した志和彦神も大国主だし、かつて大和地方を開発したと思われる、ナガスネヒコもまた、大国主。
で、あるといえます。
出雲大社に祀られているのは実はナガスネヒコであるとする説はすでにご紹介しました。ナガスネヒコが大国主なら、志和彦神も大国主。
この志和彦神とシオツチノオジ神が同体であるなら、シオツチノオジ神もまた、大国主。
いや、それだけではありませんね。鹽竈神社は奥州安倍氏の氏神社でした。創建以来の初代社家は阿部家が代々受け継いでいたそうです。
そうして、奥州安倍氏の先祖を遡っていくと、その先には
ナガスネヒコがおられる。
ということは、あるいは……。
ある方の説によれば、ナガスネヒコが殺された後、ナガスネヒコの一族は東北に流されたといいます。彼らナガスネヒコ一族は、そのもてる農業技術を生かして、東北の土地開発に乗り出したのではないでしょうか。弥生時代前期には津軽地方にまで稲作は一挙に普及していきます。これはナガスネヒコ一族の尽力があったからなのかもしれない。
もっとも、津軽地方ではその後稲作は衰退し、北東北は続縄文文化の時代を迎えることになるのです。
おそらくナガスネヒコ一族は仙台平野や大崎平野などを中心として土地開発を行っていったのでしょう。宮城県大崎市志和姫の地には、志和姫神社が御鎮座されております。大崎平野の真ん中といっていい志和姫の地に祀られる神は、志和彦神社の神と同体だとされているようです。
彦と姫の違いこそあれ、同じ神が仙台平野と大崎平野に祀られているという事実。
そういえば、岩手県奥州市水沢区に鎮座される駒形神社の境内には、摂社として塩釜神社が祀られています。この駒形神社の建つ場所は元々塩釜神社だったそうで、そこへ後々駒形の神が御遷座されてきたのだそうな。結果、塩釜の神は脇へ追いやられた。
なんとも切ない話ではありますが、胆沢平野にもまた、シオツチノオジ神が祀られていたわけです。
志和彦神=志和姫神=ナガスネヒコ。
シオツチノオジ神=ナガスネヒコ。
であるとするなら、仙台平野と大崎平野、そして胆沢平野にもナガスネヒコ一族の痕跡を見るのは
安易だろうか。
もう20年程前になりますか、私はとある書店において、ある書籍を立ち読みしておりました。
その書籍で鹽竈神社のことが取り上げられており、そこには
「鹽竈神社の本当の御祭神はナガスネヒコであると、古い文献に書かれている」とあったのです。
その当時は意味がよく把握できず、そのまま忘れ去られていました。それが最近になって俄かに思い出され、それと合わせての安部貞隆氏の書籍の内容に示唆されての、一連の記事であります。
東北開発に尽力したナガスネヒコ一族が、安倍氏が土着したころ具体的にどのような状態にあったのかは、わかりません。あるいは安倍氏は、同じナガスネヒコの血を引く一族だとして、ナガスネヒコ一族から東北における地位を、なんらかのかたちで受け継いだのかもしれない。
まだまだ、つづきますよ。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます