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【黄金の國・新編】奥州安倍氏の系譜③ ~前九年合戦とその後の展開~

2018-09-26 04:44:12 | 黄金の國





前九年合戦については、長らく「前九年の役」と称されてきました。



「役(えき)」というのは、日本人ではない異民族との戦争に関して使われる表現なのだとか。例えば蒙古とのいくさは文永・弘安の役、豊臣秀吉の朝鮮侵攻は文禄、慶長の役というように。

もっとも、西郷隆盛の起こした反乱をかつては西南の役と呼んでいましたから、必ずしも異民族との戦争のみを指しているというわけではないのかもしれない。ただ敢えて言うなら、西郷さんは国家=天皇に反逆した逆賊である、つまり日本人とは言えない、という意味が含まれていたのかもしれない。



やはりそこには、日本人と日本人以外という区別、もっとはっきりいえば「差別」の意識があった、と私には思える。奥州安倍氏が名族の裔であるということは、長い時の流れの中で忘れ去られ、東北の奴ら=俘囚とされ、差別の対象ともなっていった。それが「役」という表現に現れているのでしょう。




だから私は絶対に、「役」という表現は使いません。安倍氏や、蝦夷・俘囚などと呼ばれた人々、我が東北の先人たちを日本人ではないなどとは絶対に言わせない。


あくまで「前九年合戦」であり、「後三年合戦」なのです。



その点、どうぞよしなに。




では、前九年合戦についておさらいしてみましょう。








●永承6年(1051)、陸奥守・藤原登任は、安倍氏が朝廷へ納めるべき租税を私しているとの嫌疑を掛け、懲罰と称して数千に及ぶ兵を動かします。両軍は玉造郡鬼切部(宮城県大崎市鬼首)にて激突。このいくさには秋田城介・平繁成の軍勢も加勢しますが、安倍軍の大勝利に終わり、藤原登任は更迭、後任として河内源氏・源頼義が派遣されてきます。

※安倍氏が租税を納めなかったというのは登任の言いがかりでしょう。登任は安倍氏の奥州における莫大な権益の一端を奪取しようとしたのだと思われます。それは後任の源頼義も同じでした。



●源頼義が陸奥守として赴任してまもなくの永承7年(1052)、後冷泉天皇祖母・上東門院の病気平癒祈願のため、大幅な大赦が行われます。これにより安倍氏の罪も不問に付され、頼義は安倍氏を攻める大義名分を失ってしまいます。安倍氏の長・安倍頼良は大層喜び、陸奥守と同じ名前では畏れ多いと、名を安倍頼時に改めます。なにもできぬまま時は流れ、ついに源頼義の陸奥守の任期が切れる時が迫ってきました。


●頼義の陸奥守の任期が切れる天喜4年(1056)、頼義一行は胆沢鎮守府(岩手県奥州市)を視察し、多賀国府(宮城県多賀城市)への帰路。阿久利川(所在地不明)畔にて野営していると、配下の者の人馬に危害が加えられたとの報告があり、さらにその配下は、犯人は安倍頼時の次男・安倍貞任に違いないと頼義に報告します。頼義はこれをとくに調べもせずそのまま受け入れ、安倍氏に対し貞任の引き渡しを要求します。安倍側はこれを拒否、ここに頼義はいくさを仕掛ける口実を得ることになったのです。

※この阿久利川事件、頼義の仕掛けた謀略とみて、ほぼ間違いないでしょう。


●天喜5年(1057)、頼義は安倍勢を挟み撃ちにしようと、津軽の安倍富忠に使者を送ります。頼時と富忠は同族だったようで、頼時は富忠が源氏側に靡かぬよう説得するため、自ら津軽へ向かいますが、その途上、富忠勢の奇襲を受け負傷、鳥海の柵(岩手県奥州市金ヶ崎)にて息を引き取ります。


●頼義は頼時の死を朝廷に報告しますが論功を得ることが出来ず、焦ったのか冬であるに関わらず兵を上げます。安倍軍は川崎の柵(岩手県一関市川崎)に兵を集め、両軍は黄海(きのみ、岩手県一関市藤沢)にて激突。雪に慣れない源氏軍は苦戦を強いられ、戦況は一方的に安倍軍有利に進み、頼義は長男の義家以下、わずか7騎ほどを引きつれ、ほうほうの呈で戦場を離脱します。

※安倍氏側には、国司である頼義の首を取るつもりはなかったと思われます。国司を殺せば逆賊、朝敵となってしまいます。だから頼義らをわざと逃がしてあげたのです。



●膠着状態が続いたまま時は過ぎ、あっという間に5年が過ぎ、頼義の陸奥守の任期が切れてしまいます。康平5年(1062)、朝廷は新たな陸奥守・高階経重を派遣しますが頼義は頑として居座り、経重は仕方なく帰任。頼義が三度陸奥守に任命されます。
頼義は出羽の実力者清原氏の長、清原光頼に「奇珍の贈物」を続け、参戦してくれるよう要請します。こうして清原氏は光頼の弟、武則を総大将として源氏に加勢したのです。


清原氏の参戦によって形勢は一挙に逆転します。源氏・清原連合軍は安倍軍の最前線である小松の柵(岩手県一関市萩荘)を、清原武則の戦略によって激戦の末落とし、安倍軍はじりじりと後退。拠点である衣川の柵(岩手県奥州市)も捨て、厨川の柵(岩手県盛岡市)にて決戦に臨みます。
難攻不落の厨川の柵でしたが、やはり清原武則の知略によりついに陥落。安倍貞任や貞任の盟友・藤原経清(奥州平泉藤原氏初代・藤原清衡の父)らは戦死。ここに奥州安倍氏の栄華は潰えたのです。

※いくさはすべて、清原武則の采配によって行われ、源頼義はその下知に従っていただけだったようです。源頼義、およそ将の器ではなかった。






戦後、頼義は待望の陸奥守に再任されることなく、陸奥から遠い伊予守に任命され、特別な論功はなにもありませんでした。頼義としてはこれで安倍氏の権益は思いのままになると期待したのでしょうが、そうは問屋が卸さない(笑)、朝廷側としてはこれ以上源氏に力を付けさせては危険だという判断があったのかもしれません。

代わりに清原武則が鎮守府将軍に任ぜられ、奥羽の覇者となったのです。

藤原経清の妻・有加は清原武貞に再嫁し、経清の遺児とともに清原に引き取られます。経清の遺児・清衡は後に藤原清衡を名乗り、奥州平泉(岩手県平泉町)に100年の栄華を築くことになるのです。






さて、安倍貞任には宗任という弟がいました。宗任は貞任の死後、朝廷側に投降し、伊予国から、のちには筑前国の宗像に「流され」ました。


しかし、先の安部貞隆氏の著書によれば、宗任が「流された」「配流」されたとはどの記録にも記されていないというんですね。

「配流」ではなく、「安置」と書かれているのだそうな。


我々は長いこと、宗任は罪人として流されたのだ、と思ってきました。しかし、実際はそうではなかったとするのが、安部貞隆氏の説です。


宗任はまず伊予に置かれ、その後筑前の太宰府に遣わされているとする記録が残っているそうです。これはつまり宗任は罪人として扱われていたのではなく、地方官吏として派遣されたのではないかと思われるわけなのです。


さらには宗任が、前九年合戦に参加しなかった褒美として、肥前国松浦の地を賜ったとの記録があり、また松浦神社などの鳥居に、「松浦郡司安倍宗任」と刻まれていたのだそうです。


宗任は官吏としての経験を買われ、地方官として派遣されていた、ということです。


宗任は前九年合戦には参戦しておらず、従って「罪」は犯していないと云える。罪を犯していないのに罪人扱いなど、考えてみればおかしな話です。それに奥州安倍氏が古代名族阿倍氏の裔であるならば、それなりに丁重な扱いを受けるのは当然というものでしょう。しかし我々は奥州安倍氏が俘囚の出であると思い込んでいた。だから宗任も当然のように罪人として扱われ「配流」されたのだと、勝手に思い込んでいた。

だって「俘囚」なのだから。


なんということだ!かくも思い込みとは恐ろしきもの。しかもそこには、そこはかとなく、意識されていないが

微かな「差別意識」が見え隠れしている。


差別とはこのように、意識されることなく、ごく当たり前のように行われるものです。


だから私は云うのだ、差別などしたことがないなんて言う奴は、嘘つきだと。




それはともかく、奥州における安倍氏の栄華は潰えました。しかし宗任をはじめとして、奥州安倍氏の血族は九州北部などで栄えたようです。宗任の子孫は一部が松浦水軍の一党となり、そこからさらに分かれた一族の中に、長門国、現在の山口県に渡った一族がいたそうな。


その山口県に渡った「安倍氏」の末裔に、現内閣総理大臣・安倍晋三氏がおられるというわけです。




奥州安倍氏は古代名族阿倍氏の末裔だった、ということが分かったところで、



話はまだまだ続きます。



では、本日はここまで。

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