5月1日
滋賀県琵琶湖の東岸、安土山にあった織田信長の居城 安土城の天主閣址にようやく到着しました。
「天守閣」ではなく、安土城では「天主閣」の漢字を用いるようです。。
信長は総普請奉行に丹羽長秀をあて、安土城の築城を開始。天正7年(1579年)に五重六階地下一階で、最上階は黄金色に輝き、その下階は朱塗りの八角堂であったとされる天主閣が完成しました。
天主閣址
ここに金色に輝く安土城天主閣があったと思うと感動すら覚えます。
安土城は総石垣で普請された城郭で、初めて石垣に天守の上がる城となりました。石垣職人集団の穴太衆(あのうしゅう)が普請を手掛け、後に全国の城の石垣普請に携わり、石垣を使った城は全国に広がっていったそうです。
天主閣から安土城下や琵琶湖を眺め、信長はどんな夢を思い描いていたのでしょうか。。
今まで、『安土城天主 信長の館』や『伊勢戦国時代村(現 伊勢忍者キングダム)』で復元された安土城を見てきましたが、これでようやく本物が建っていた場所に来ることができました。
過去記事<信長の館 幻の安土城天主>
過去記事<お気楽写真館(14)Azuchi-jo Castle>
二の丸にある信長公廟
何か、近くで撮影するのが恐れ多くて、こんな写真だけです。。
本能寺の変後、信長の遺体は見つからなかったことは有名な話ですが、そのためか 信長と墓とされるものや供養塔は色々な場所にありますね。
天正10年(1582年)に本能寺の変が起こると、安土城留守居役だった蒲生賢秀は信長の妻子を連れて安土城から居城の日野城へ脱出。明智軍が安土城を占拠しますが、山崎の戦いで光秀が敗れると、安土城の天守閣、本丸は炎に包まれました。
信長の次男 織田信雄とその子孫四代までの墓
日和見主義的な面があり、あまりイメージが良くない信雄ですが、織田一族の中で最も長くその家名を存続できたのは信雄の一党でした。まぁ。世の中そんなもんですね。
安土城に火を放ったのは信雄という説もあるようですが、さてどうなんでしょう
天主閣址から降り、摠見寺跡に向かう途中、信長の小姓、近習で、本能寺の変で信長を守り、討ち死にした森成利(森蘭丸)の邸宅址がありました。
つづく
過去記事<安土城址 本丸跡に至る>
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