上野南本城から大島城へ向かう途中に砦を陥落させる。
○大下砦
フルーツラインなる道を作るときに壊してしまったのでしょう。跡地に看板が立っていました。松岡城の砦としての役割を果たしていたようです。この砦も台地の先端に位置して大変見通しが利きます。
で、そのまま大島城へGO! と、思ったのですが、途中で立派な看板に目が止まる。「松岡城」と書いてある。何の気なしに立ち寄ったのですが、これがびっくり大当たり。
※『松岡城跡』(松岡城址愛護会発行)記載の松岡城・松岡南城跡鳥瞰図(宮坂武雄氏作)このパンフレットは城入口に置かれており無料配布されています。松岡城が詳しく、かつ、わかりやすく解説されており、城に対する愛が感じられます。素晴らしい。
まずは松岡城の概略をまたまた『南信州の山城』様の助けを頂いて。
○松岡城
北側を間ヶ沢、南側を新井沢で開析された段丘上に位置する。松岡氏一族の築城と伝えられ、主郭・二の郭~五の郭からなる連郭式の城である。築城時期は定かではないが、室町時代前期(14世紀代)ともいわれ、1400(応永7)年の大塔合戦、1440(永享12)年の結城合戦には小笠原氏の有力武将として参戦している。1588(天正16)年頃徳川氏により改易され、廃城となった。1990年に公園整備に先立ち主郭を中心に試掘調査が、町道改良工事で五の郭「五の堀」調査が実施された。高森町史跡指定。(南信州山城マップ『南信州の山城』説明文。発行元:飯田市美術博物館、飯田市上郷考古博物館)
この城、串に刺さった団子のように5つの郭が並んでいます。と、いうより、堀切+竪堀のセットで台地を大規模に削って連郭式の城にしたといった方がわかりやすいかも。
ただ、各郭間に高低差がなくズドンと見渡せる状況となっています。
そのため、堀切は広く深く箱型です。現在、柴で綺麗に整備されており、大変見やすい状態になっています。きっとパンフを作った松岡城址愛護会を始めとする地域の方々によるものでしょう。大変ありがたいです。
そして、この城が何よりすごいのが、城好きでなくても感動してしまうこの光景。
飯田市が一望できます。この城の城主は、きっと気持ちが良かったでしょうね。
※落城記念に城址碑を撮影。
本丸下の帯郭などに武田の影響が感じられます。
上の写真を下で見るとこんな感じ。
攻め手としては写真右の見切れている上方の主郭から攻撃されるのは勿論の事、左側から何が出てくるかわかったものではない。武者隠し的な使われ方も想定されます。
この写真の更にしたから主郭を見上げるとこんな感じ。
時間の関係でこれより台地を下ったところにあると思しき畝状竪堀群や近くの支城松岡南城までは見られませんでした。残念。
しかし、とにかく広い。
台地の先端を利用した連郭式の城は、奥三河ではすぐに野田城が思い浮かびます。が、あれは三連。また、一つ一つの郭も小さい。そういう意味では、武田氏が野田城を見て一ひねり、と、考えてもおかしくはありません。これだけ広い城ともなれば、相当な経済力が予想されますが、松岡氏の軍役は『松岡城跡』パンフによれば50騎。たぶん、甲陽軍鑑の品十七を参考にしていると思われます。ちなみに作手領主奥平氏は150騎。動員数は新参者に厳しめだったにしても、この城の大きさの違いを考えると、一体、松岡氏の経済力はどうなっていたのか不思議でしょうがない。どうも、小牧・長久手の戦いの影響を受けている〔天正13年(1585年)に松本の小笠原貞慶は徳川から豊臣に寝返り、徳川方の保科氏の高遠城を攻め、その際に松岡城主松岡右衛門佐貞利も裏切っている。それがために天正16年に松岡氏は改易されてしまいます。〈『松岡城跡』参照〉〕ようなので、その時に手が入った?それとも武田が松岡氏の城を大拡張したのか。
ちなみに、この城には町道を作るときの発掘調査結果なのか、『松岡城跡』の図面には台地と城の間に三日月堀があったとされています。と、いうことは、丸馬出があったことも考えられます。
三河城郭史談会の高橋延年氏によると丸馬出は台地に築かれた城の台地付け根部分に作ることが多いので、武田流のセオリーどおりといえばそうなる。
気になったのでネットで軽く調べて見ると、松岡城の最終形態製作者については、武田氏、武田氏の作った大島城を松岡氏がまねた、もともと松岡氏が作っていた、と、諸説が別れており、丸馬出など私と同じような感想を抱いているのが面白い。やはり皆気になりながらも史料が無いのか決定できないようです。
私的には武田の影響を感じます。しかし、これだけの城を作り、維持する経済力を松岡氏独自で持っていたのか?ここが不思議です。見える距離に上野南本城・北本城があり、松岡城も武田が維持したとなると、なんか不経済な気がします。もっとも、上野両城を一体運用した場合、松岡城を遥かに凌駕する規模になりますので、松岡氏の単独の城と考えた方がすっきりします。
奥三河で言えば作手の武田方が築いた大規模な古宮城と目と鼻の先に地元領主奥平氏の亀山城があり、亀山城も本丸両端に馬出機能を備えるなど、武田の影響を受けた造りとなっており、類似性を感じます。
うーん、昨日の上野南・北本城のときと同じで、奥三河と比較してみるとなかなか面白いぞ。一度じっくりと腰をすえて調べてみたい城です。
○大下砦
フルーツラインなる道を作るときに壊してしまったのでしょう。跡地に看板が立っていました。松岡城の砦としての役割を果たしていたようです。この砦も台地の先端に位置して大変見通しが利きます。
で、そのまま大島城へGO! と、思ったのですが、途中で立派な看板に目が止まる。「松岡城」と書いてある。何の気なしに立ち寄ったのですが、これがびっくり大当たり。
※『松岡城跡』(松岡城址愛護会発行)記載の松岡城・松岡南城跡鳥瞰図(宮坂武雄氏作)このパンフレットは城入口に置かれており無料配布されています。松岡城が詳しく、かつ、わかりやすく解説されており、城に対する愛が感じられます。素晴らしい。
まずは松岡城の概略をまたまた『南信州の山城』様の助けを頂いて。
○松岡城
北側を間ヶ沢、南側を新井沢で開析された段丘上に位置する。松岡氏一族の築城と伝えられ、主郭・二の郭~五の郭からなる連郭式の城である。築城時期は定かではないが、室町時代前期(14世紀代)ともいわれ、1400(応永7)年の大塔合戦、1440(永享12)年の結城合戦には小笠原氏の有力武将として参戦している。1588(天正16)年頃徳川氏により改易され、廃城となった。1990年に公園整備に先立ち主郭を中心に試掘調査が、町道改良工事で五の郭「五の堀」調査が実施された。高森町史跡指定。(南信州山城マップ『南信州の山城』説明文。発行元:飯田市美術博物館、飯田市上郷考古博物館)
この城、串に刺さった団子のように5つの郭が並んでいます。と、いうより、堀切+竪堀のセットで台地を大規模に削って連郭式の城にしたといった方がわかりやすいかも。
ただ、各郭間に高低差がなくズドンと見渡せる状況となっています。
そのため、堀切は広く深く箱型です。現在、柴で綺麗に整備されており、大変見やすい状態になっています。きっとパンフを作った松岡城址愛護会を始めとする地域の方々によるものでしょう。大変ありがたいです。
そして、この城が何よりすごいのが、城好きでなくても感動してしまうこの光景。
飯田市が一望できます。この城の城主は、きっと気持ちが良かったでしょうね。
※落城記念に城址碑を撮影。
本丸下の帯郭などに武田の影響が感じられます。
上の写真を下で見るとこんな感じ。
攻め手としては写真右の見切れている上方の主郭から攻撃されるのは勿論の事、左側から何が出てくるかわかったものではない。武者隠し的な使われ方も想定されます。
この写真の更にしたから主郭を見上げるとこんな感じ。
時間の関係でこれより台地を下ったところにあると思しき畝状竪堀群や近くの支城松岡南城までは見られませんでした。残念。
しかし、とにかく広い。
台地の先端を利用した連郭式の城は、奥三河ではすぐに野田城が思い浮かびます。が、あれは三連。また、一つ一つの郭も小さい。そういう意味では、武田氏が野田城を見て一ひねり、と、考えてもおかしくはありません。これだけ広い城ともなれば、相当な経済力が予想されますが、松岡氏の軍役は『松岡城跡』パンフによれば50騎。たぶん、甲陽軍鑑の品十七を参考にしていると思われます。ちなみに作手領主奥平氏は150騎。動員数は新参者に厳しめだったにしても、この城の大きさの違いを考えると、一体、松岡氏の経済力はどうなっていたのか不思議でしょうがない。どうも、小牧・長久手の戦いの影響を受けている〔天正13年(1585年)に松本の小笠原貞慶は徳川から豊臣に寝返り、徳川方の保科氏の高遠城を攻め、その際に松岡城主松岡右衛門佐貞利も裏切っている。それがために天正16年に松岡氏は改易されてしまいます。〈『松岡城跡』参照〉〕ようなので、その時に手が入った?それとも武田が松岡氏の城を大拡張したのか。
ちなみに、この城には町道を作るときの発掘調査結果なのか、『松岡城跡』の図面には台地と城の間に三日月堀があったとされています。と、いうことは、丸馬出があったことも考えられます。
三河城郭史談会の高橋延年氏によると丸馬出は台地に築かれた城の台地付け根部分に作ることが多いので、武田流のセオリーどおりといえばそうなる。
気になったのでネットで軽く調べて見ると、松岡城の最終形態製作者については、武田氏、武田氏の作った大島城を松岡氏がまねた、もともと松岡氏が作っていた、と、諸説が別れており、丸馬出など私と同じような感想を抱いているのが面白い。やはり皆気になりながらも史料が無いのか決定できないようです。
私的には武田の影響を感じます。しかし、これだけの城を作り、維持する経済力を松岡氏独自で持っていたのか?ここが不思議です。見える距離に上野南本城・北本城があり、松岡城も武田が維持したとなると、なんか不経済な気がします。もっとも、上野両城を一体運用した場合、松岡城を遥かに凌駕する規模になりますので、松岡氏の単独の城と考えた方がすっきりします。
奥三河で言えば作手の武田方が築いた大規模な古宮城と目と鼻の先に地元領主奥平氏の亀山城があり、亀山城も本丸両端に馬出機能を備えるなど、武田の影響を受けた造りとなっており、類似性を感じます。
うーん、昨日の上野南・北本城のときと同じで、奥三河と比較してみるとなかなか面白いぞ。一度じっくりと腰をすえて調べてみたい城です。