長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

ちょんまげマーチ ~恐怖の月代(さかやき)~

2012年06月28日 | 日本史
 教育テレビ「おかあさんといっしょ」を見ていると、たまに♪ちょんまげちょんまげちょんまげマーチ、ござるでござるでござるでござる~…、と歌っている時があります。
 案外耳に残るんです。
 最初聞いたときは、なんとふざけた歌だと思ったんですが、2回ほど聞くと鼻歌歌ってるときがある。おそるべし。大体、ござるでござるでござるでござる、ってなんだよ、って言いたくなります。
 とにかく軽快な歌です。ユーチューブで検索されると聞けると思います。

 甲子夜話ばかり読んでいても疲れるので、目先を変えて積読になっていたルイス・フロイスの「日欧文化比較」を引っ張り出して読んでみました。
 日本の戦国時代に宣教師として来日したルイス・フロイス。彼の「日本史」は日本側の記録には現れない違った観点から書かれているため、面白い視点を提供してくれる史料として有名です。(織田信長の声が甲高い、とか。)
 そんな彼が、日本と西欧の文化の違いをまとめた天正年間に書かれた小冊子だそうです。
 誤解や勘違いがある可能性はあるにせよ、貴重な記録として残されているものです。

 そんな記録を読んでいたら、戦慄すべき話を見つけてしまいました。

『男性の髪型』(日欧文化比較第1章7 岩波書店 503頁)
 われわれ(ルイス・フロイス)の間では人々は髪を刈りに行き、禿頭にされると侮辱されたと考える。日本人は毛抜きを用いて、自分で毛の残らないように、全部抜いてしまう。そのことは苦痛と涙を伴う。

 えっ!!!!
 ちょんまげ、いわゆる月代(さかやき)ですが、前頭部から頭頂部の毛をなくし、側頭部と後頭部の毛を伸ばして髷を結う、というものです。

※参考画像
 これは、兜をかぶると蒸れるので毛をなくしたと言われていますが、剃っているとばかり思っていました。そうではなくて、抜いていたそうです。そりゃあ毛髪を抜けば痛いに決まってます。しかも泣いていた、と。
 この話の解説部分に「『慶長見聞集』に「…をのこの額毛頭の毛をば髭剃にてもそらず、けつしきとて木を以ってはさみを大にこしらへ、其けつしき頭の毛をぬきつれば、かうべより黒血流れてものすさまじかりし也。」とある」とあります。
 慶長見聞集は別の日本人が書いた話です。そうなると、フロイスが何か拷問現場に居合わせて、それがちょんまげ作りのスタンダードだと思ってしまった訳でもなさそうです。
 永禄・天正時代の人達って、巨大な毛抜きで髪の毛を引っこ抜いて血だらけになってあのちょんまげ頭を結っていた、という、かなりショッキングな事実が判明しました。

 で、ウィキで月代を調べたら「戦国時代になると、さかやきが日常においても行われるようになった。それまでは毛抜きで頭髪を抜いてさかやきを作るのが主流であったが、頭皮に炎症を起こし、兜を被る際に痛みを訴える者が多くなったため、この頃を境に毛を剃ってさかやきを作るのが主流となる。」とあります。
 そりゃ、炎症起こるわな。で、兜が被れなければ、ちょんまげにする意味がない。

 と、いうことは、織田信長も毛を抜いて血だらけになってた、て、ことなんでしょうか?ひょっとして本人が激痛に耐えながら髪の毛抜いていると言うのに、明智光秀ときたら禿頭なので抜かなくてもちょんまげが結える。それに腹が立ち「キンカ頭」とからかったり、果ては暴行を加えて本能寺の変の原因を招くことになったのか?!
 な、訳はないでしょう。
 血だらけの織田信長見たら家臣はドン引きだったことでしょう。

 しかし、なんで剃らずに抜いてたんでしょうか?しかも、あんな広範囲。
 想像するだけで恐ろしい話です。普通、剃るだろう、と。

 そりゃあ、フロイスも書きとめたくもなるわな、と、納得してしまいました。

 狂気の沙汰にしか見えなんだだろうて・・・。

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