長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

外科医 杉田玄伯 ~過去の合戦における負傷状況を分析す~

2012年06月23日 | 日本史
 最近、本業の多忙と子育てのため城などの史跡巡りもできず、何かについて根気よく調べることもできません。そのため、息抜きに甲子夜話を読み続けているため、どうしても日記の内容が甲子夜話に偏ってしまいます。

 そんな中「こりゃすげぇ。」と思った話を見つけました。
 あのターヘルアナトミア、解体新書を訳した解剖学者にして外科医の杉田玄伯が、過去の合戦における怪我の状況を分析していたのです!

『外科的見地による鎌倉権五郎の負傷状況分析』(甲子夜話 巻三 二十四 54頁)

 浅草寺で桑山修理という人と話をしている中で、桑山が言うには、
「前に千本吉之允と武辺談義をしていたとき、鎌倉権五郎景正が敵に目を射られてしまい、矢が兜のシコロ部分にまで届いてしまった状態で、その敵に対して矢を射掛けて倒した話が出た。
 その場には外科医の杉田玄伯がおり、彼が言うには
『目を射られれば矢は頭の中に入ってしまいます。兜のシコロまで届いたとすると、矢は脳を貫いて(いわば串刺し)いることになります。総じて人体の中で、脳と心臓部分に傷を負うと命はないものです。いわんやこれらの部位を貫くような状況であっては、いかに剛勇な人であってもそのままの状態で矢を射返すことはできる訳がありません。そうなると、目を射られたというものの、目尻の辺りであって頭蓋骨の脇を貫通してシコロの端へ射抜いた、と、思われます。それならば脳は損傷しないので、治療可能な傷であるといえます。』
 とのことだった。」
 その話を聞いて私(松浦静山)は、流石は外科医、と、感心したものだ。
 伝承をそのまま記録した文章であっても、実際に目撃すれば玄伯の言うとおりだろう。(ちなみに鎌倉権五郎の話とは後三年の役のときのことで、後三年合戦絵詞の文を書いておこう。相模国住人、鎌倉の権五郎景正と言う者がおり、先祖より知られたツワモノだった。わずか16歳で命を捨てて戦っている時に、敵の矢が右目を襲った。矢は頭を貫いて兜のシコロまで貫通した。しかし権五郎は矢を射返して敵を討取った後退いた。・・・この後刺さった矢を抜こうと、権五郎の顔を踏んづけたら権五郎が怒って、軍で死ぬのは名誉なことだが、大丈夫の顔を踏むとは何事とエライ剣幕でおこった・・・。)」

 ウィキで鎌倉権五郎を調べたら、こんな図がありました。

 まさに、杉田玄伯が解説していたときの状況でしょう。

 「矢が目から入って頭を貫いて兜のシコロまで届いてしまった」
 という文言を話題にしたとき、なんとなく皆、矢が顔の正面から襲い、眼球から後頭部を貫通して兜のシコロで止まった、と、思っていたのでしょう。だから、そんな状況で射返すなんて権五郎の強さは半端無い、と、話をしていたのだと思われます。
 しかし、外科医杉田玄伯はそれじゃ死んでしまうのでありえない、と考え、上記の文言と射返したという状況から、脳へのダメージが無かったと考え、脳を損傷しないで目からシコロへ矢が抜けるとしたら、矢は斜めに刺さり眼窩の横の側頭部を貫通し、兜のシコロといっても端に近い部分だろう。それなら矢を射返すことも可能だし、治癒も可能だと思う、と、見事な分析をしてくれました。
 手に紅茶を持っていたかもしれません。(それは杉下右京)

 なるほど。
 
 江戸時代に松浦静山が感心したのと同じように、私も感心しました。
 まさか、オランダ語を解読したということだけで知っていた杉田玄伯に自分が感心させられるとは思ってもいませんでした。

 たいしたもんだ、杉下、いや、杉田玄伯。

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