長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

満光寺の鶏 その3

2015年03月01日 | 日本史
前回は、鴨川達夫氏の元亀2年に武田信玄の三河侵攻が無かった説を紹介しました。
元亀2年が武田信玄の徳川家康領国への初侵入とされていたので、元亀2年の武田侵入が無い、ということは、徳川家康が満光寺の鶏のお世話になる時期として、元亀元年と元亀2年はないことを確認しました。

次に考えられるのが元亀3年(1572年)です。
この年は、かの有名な『三方ヶ原の戦い』が発生した年。
浜松城に籠る徳川家康の目前を武田信玄がスルー。
傍若無人に武田軍に領国を荒らされた上に、武田信玄がスルーしても手も足も出なかった、となれば、家康にとっては武士の面目丸つぶれ。

「あいつ、信玄さんにボコボコにされて、家に引きこもって震えてたらしいっすよ。」

そんな噂が撒き散らされた日には、家康側の味方はいなくなる、と考えたとか考えてないとかで、なぜか軍勢の多い武田軍を相手に城を出た家康は野戦を行いフルボッコにされた戦いです。


※「しかみ像」家康はフルボッコにされて憔悴しきった姿を絵にして生涯戒めたという。

このときに食い逃げだの脱糞だのを行った逸話も多い家康。
満光寺に逃げ込んで鶏伝説ができた可能性も検討する必要がある。
(鶏伝説についてはその1参照のこと。)


まず、三方ヶ原の戦い当日(12月22日)ですが、夕方に浜松城の北側で戦争が発生し、その日の夜に家康は浜松城へ逃げ込んだとされています。
満光寺方面は浜松城と反対方面ですから鶏逸話は発生しようがない。

それでは、三方ヶ原の戦いを巡る戦いでの可能性も考える必要があります。
元亀三年の武田軍の動きですが、通説では、信州からの南下軍は、①山県昌景の先遣隊と②信玄本隊の2グループの動きがあります。
①の山県隊は、9月29日に出陣し信州から足助に侵入、そのまま南下して既に武田方となっていた奥三河の山家三方衆を吸収して更に南下。山吉田を通過して浜松市北部へ侵入。その後、東へ向かい信玄本隊が攻撃中だった天竜川上流の二俣城へ合流します。

②の信玄本隊は、10月3日に信州から現在の152号線とほぼ似たルートで青崩峠を南下。当時の秋葉道を利用したようで、水窪から秋葉へ向かい、武田方に降伏していた犬居城へ。そこで馬場信房軍を西へ向かわせ二俣城へ。信玄本人は犬居城から南下して袋井市を制圧し、天竜川を渡る前に要衝の二俣城の馬場軍に合流します。

①、②以外に、信州から岩村へ向かった秋山虎繁(信友)軍、駿河からやってきた穴山信君軍などもいたとされており、信玄的には総動員体制だったようです。

②の信玄が南下してきたルートを、現在の道で考えていくと水窪から犬居へ向かうルート、と、言われると「?」となります。水窪は国道152号または県道285号、犬居は国道362号で秋葉山が邪魔して全く違う道となっています。

※グーグルマップ

この当時、秋葉山には秋葉神社という火防の神様で有名な神社があり、かなりメジャーだったため、熊野古道のように秋葉道という秋葉神社へ向かう道があちこちにあったようです。どれくらいメジャーだったかですが、現在ヲタのメッカとしてしられる東京秋葉原。あの「秋葉」の由来は秋葉山から勧請した神社が由来だそうです。(ウィキペディア情報)

秋葉道のルートがどうなのかを調べたところ、ちゃんと国道152号から秋葉山を経由して犬居へ行くことができるようになっていました。(秋葉街道の詳細図。『浜松情報BOOK』のサイトへ。)

が、最近では、信玄本人は駿河方面から西上してきたという説(柴裕之氏、本多隆成氏)もありますし、それに関連して、秋山虎繁も山県と同行して二俣城に来ていたが、岩村城が武田方になったので急遽二俣城から派遣された、と、いう、当初から岩村城へ向かっていない説もあります。

あれだけ有名な戦いですが信玄がどうやって浜松城にまで来たかが実は学者の間で議論の対象となっていたり、秋葉道がどうなっているのかを調べたり、と、それぞれ整理した上で、今回のブログを書いております。そのため、時間がどんだけでもかかってしまうのです。

まぁ、面白いのでやっている訳ですから別に構いませんが、例えば信玄西上説だと、信玄が落とせず勝頼が落城させて有頂天になってしまった高天神城、これは元亀2年に信玄が落とせなかったとなっているので、一体、どう考えたらいいの?などと、新しい疑問が思い浮かぶのです。

調べれば調べるほど新たな謎が出てくる。

とは、いうものの、それを逐一調べていたら、いつまでたっても満光寺の鶏が鳴いた時期を考えることができないので、ここは別の機会に。

さて、様々に調べて確認したのは、①の山県隊は、信州→三河→山吉田経由→二俣城、というルートは、信玄信州南下説も信玄駿河西上説も変わりは無いようです。
と、いうことは、このときに家康が山県を迎撃していれば、家康が満光寺に泊まる可能性があるのでは!?

で、調べてみると、どうも、家康本人は信玄本人への対処が優先しており、信玄の動向を探るために偵察にでかけたら予想外に早く侵入してきた信玄本隊に遭遇してしまい、危なく殲滅させられそうになります。(10月13日の一言坂の戦い)

また、山県隊の山吉田通過時期ですが、山吉田近辺の領主鈴木氏は、武田方となった山家三方衆と山県軍と交戦して大敗を喫した記録が残っています。ただ、元亀2年の話としているものが多いので、元亀3年と勝手に私は読み変えています。なお、後世にまとめた記録には元亀2年となっているが、満光寺に残る位牌には元亀3年と書かれているので、年数が混乱しているとの指摘がある本もあります。当時、元亀2年武田侵攻否定説がないため、元亀2年を史実として捉えていたので混乱したのだと思いますので、元亀3年への読み替えは間違いが無いと思います。
この時は10月22日に山吉田に武田勢(山県隊)が攻め込んできたとの記録があります。
一言坂で敗れて信玄本隊が二俣城を囲んでいる状況下で、家康が山吉田方面に出て行けるような情勢では無さそうです。

実際、元亀2年の話を全て元亀3年の山県軍によるものと読み変えた場合、逸話には、一切家康は出て来ません。鈴木一族が武田軍と交戦し、かなりの被害を出していることだけが残っています。
この後、年末に三方ヶ原が発生。信玄は浜名湖近辺で一旦停止します。
そのため、元亀3年中に家康が山吉田へ出撃することは考えられない。

こうなってくると、元亀元年から3年までの間に、武田に追われた家康が満光寺に泊まる、というシチュエーションは発生していないことになります。

元亀3年の翌年は天正元年。

え、え、ちょっとまってくれ。
と、いうことは、一体この伝承は・・・。

しかし、ご安心ください。

天正元年は7月末からで、それまでは元亀4年が存在しているのです!
では、元亀4年に家康は武田軍と山吉田で交戦する可能性はあったのか?

それが、あるんです。(川平慈英風)

さて、元亀4年は。
はたして、そこで家康は泊まっているのか?

衝撃の結末まで、6割5分程度まで来ました!
乞うご期待。つづく

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。