織田に唆された岩村遠山氏が、永禄元年(1558)に設楽町名倉まで攻め込み奥平氏と交戦した船渡橋付近の戦いを調べていたら「武田」にぶち当たった、という話が昨日です。
武田がどこから出てきたのかと言うと、以下の書状からです。
弘治三年(1557)一月二日付け武田晴信書状です。
「旧冬三州武節谷へ遣士卒砌、別而被相挊(はたらき)之由候、忠信無比類、猶以戦功可為肝要候、恐々謹言、 弘治三年正月二日 晴信御朱印 下条兵部少輔殿」(愛知県史資料編10中世3 二〇四二、戦国遺文武田氏編第一巻 五二五)
船渡橋の前年に武田信玄(当時晴信)が武節へ攻め込んだ下条に対してよくやった、と、言った訳です。ただ、これだけでは下条が武節城を占領していたことの証明にはなりません。また、この書状は『下条由来記』という本に記載されている文書のようで書状として残っているわけではないようです。また、愛知県史には”この文書については検討の余地がある”と書かれており、どうも資料の記載様式や文言に問題があるようで、弘治三年の文書として確定したと扱っているわけではなさそうです。
この辺りの動きについて何かわかるものはないか、と、あれこれ本を読んでおりますと、ありました。以前ご紹介したことのある『熊谷家伝記のふるさと』(山一司 富山村教委)です。
「その年(天文23年:1554年)の九月、武田晴信は三河側国境の郷主たちの心中を見透かしたように、信州・伊那から奥三河へ兵を進めた。武田晴信に降伏した下条信氏はじめ伊那谷の領主たちには、奥三河攻めの先手が命じられた。」
そして、下条勢は
「根羽郷から武節へと迫った。…武節城は、…数日で落ち、次いで山田景隆の川手城(稲武町川手)が落ちた。…武節に隣接する納庫(なぐら)郷(設楽町納庫)の奥平喜八郎信光の守る寺脇城を攻め、山一つを越した津具郷の後藤九左衛門善心の居城白鳥山城を攻略した。」
となって、
「納庫・津具から信州に境する奥三河一帯の各郷は武田氏の支配する領土となった。」とあります。
この本は『熊谷家伝記』という富山村に伝わる古文書から印象深い話を抜粋して紹介している本ですが、天文末期に既に名倉から津具のあたりは武田領となっていた、と、しています。
先の愛知県史等の文書では弘治三年の「旧冬」となれば弘治二年(1556)の冬でしょうけど、熊谷家伝記では天文二十三年(1554)と2年の違いがある。熊谷家伝記は同時代資料ではないようなので全面的に信頼できるものではないです。
ちなみに『稲武町史』では「永禄元年時点で当町域を領有していた大名・領主が誰なのかは明確でないが」とあります。
実は稲武町史は名倉船渡橋の戦いと武節城の関係性に目を付け、私と同じように永禄元年時点の領有者が鍵を握ると考えています。「岩村の遠山氏が当町域を通過して名倉船渡橋に至ったものと考えられる。」との記載が「永禄元年時点…」の前にあるのです。
しかしながら、『愛知の山城ベスト50を歩く』(サンライズ出版)の武節城の項には「永禄五年…頃までは武節城は今川方の城であったことがわかる。」との記載があり、一貫して今川方であったとしています。この本の信憑性は高いので「え~、ワシの説は駄目かいやぁ…。」と諦めかけたのですが、熊谷家伝記は武節城→寺脇城(名倉)→津具城と攻めているので、津具城の項はどうなってるかな、と思ってみると、「善心は当初、武田氏の支配下にあったようで、…永禄五年今川氏真の命により渡辺平内次に攻められた際はあっけなく落城している。」とあります。『三河国二葉松』を参照しているようで信頼が置けない部分はありますが、永禄元年ごろは武田だったと見ていいでしょう。武節城の項も永禄三年の菅沼久助あて今川氏真書状と永禄五年の渡辺平内次あて今川氏真書状をもって「今川方」といっているようですが、永禄元年については、今川方であったとも、そうではなかったとも、どちらとも受け取れる書き方になっています。
で、私は誰だと思うか、ということですが、武田だ!と、断定するつもりだったのですが…。
昨日あんだけ引っ張っておきながら、どうにも歯切れが悪い文章になっているのは、『永禄元年付近の武節城主は、正確には配下の下条のものであるが、なんと武田のものだったのだぁぁぁぁ!!!』という前置きから話を進めようとして書き出したものの、「いや待てよ、一応念には念を入れて…。」と本日様々な資料を再度確認してみたら、前は気がつかなかった部分が存外重要な意味を持ってることに気がついたりして、急遽整合を取りながら検討したところ、完全に武田だ、と断定するには不安がでてきてしまったからです。その私の内心のゆらぎが、このなんだかわからない結論になっているとお考えください。すいません。
この話、もう一度整理しなおして出直してきます。
武田がどこから出てきたのかと言うと、以下の書状からです。
弘治三年(1557)一月二日付け武田晴信書状です。
「旧冬三州武節谷へ遣士卒砌、別而被相挊(はたらき)之由候、忠信無比類、猶以戦功可為肝要候、恐々謹言、 弘治三年正月二日 晴信御朱印 下条兵部少輔殿」(愛知県史資料編10中世3 二〇四二、戦国遺文武田氏編第一巻 五二五)
船渡橋の前年に武田信玄(当時晴信)が武節へ攻め込んだ下条に対してよくやった、と、言った訳です。ただ、これだけでは下条が武節城を占領していたことの証明にはなりません。また、この書状は『下条由来記』という本に記載されている文書のようで書状として残っているわけではないようです。また、愛知県史には”この文書については検討の余地がある”と書かれており、どうも資料の記載様式や文言に問題があるようで、弘治三年の文書として確定したと扱っているわけではなさそうです。
この辺りの動きについて何かわかるものはないか、と、あれこれ本を読んでおりますと、ありました。以前ご紹介したことのある『熊谷家伝記のふるさと』(山一司 富山村教委)です。
「その年(天文23年:1554年)の九月、武田晴信は三河側国境の郷主たちの心中を見透かしたように、信州・伊那から奥三河へ兵を進めた。武田晴信に降伏した下条信氏はじめ伊那谷の領主たちには、奥三河攻めの先手が命じられた。」
そして、下条勢は
「根羽郷から武節へと迫った。…武節城は、…数日で落ち、次いで山田景隆の川手城(稲武町川手)が落ちた。…武節に隣接する納庫(なぐら)郷(設楽町納庫)の奥平喜八郎信光の守る寺脇城を攻め、山一つを越した津具郷の後藤九左衛門善心の居城白鳥山城を攻略した。」
となって、
「納庫・津具から信州に境する奥三河一帯の各郷は武田氏の支配する領土となった。」とあります。
この本は『熊谷家伝記』という富山村に伝わる古文書から印象深い話を抜粋して紹介している本ですが、天文末期に既に名倉から津具のあたりは武田領となっていた、と、しています。
先の愛知県史等の文書では弘治三年の「旧冬」となれば弘治二年(1556)の冬でしょうけど、熊谷家伝記では天文二十三年(1554)と2年の違いがある。熊谷家伝記は同時代資料ではないようなので全面的に信頼できるものではないです。
ちなみに『稲武町史』では「永禄元年時点で当町域を領有していた大名・領主が誰なのかは明確でないが」とあります。
実は稲武町史は名倉船渡橋の戦いと武節城の関係性に目を付け、私と同じように永禄元年時点の領有者が鍵を握ると考えています。「岩村の遠山氏が当町域を通過して名倉船渡橋に至ったものと考えられる。」との記載が「永禄元年時点…」の前にあるのです。
しかしながら、『愛知の山城ベスト50を歩く』(サンライズ出版)の武節城の項には「永禄五年…頃までは武節城は今川方の城であったことがわかる。」との記載があり、一貫して今川方であったとしています。この本の信憑性は高いので「え~、ワシの説は駄目かいやぁ…。」と諦めかけたのですが、熊谷家伝記は武節城→寺脇城(名倉)→津具城と攻めているので、津具城の項はどうなってるかな、と思ってみると、「善心は当初、武田氏の支配下にあったようで、…永禄五年今川氏真の命により渡辺平内次に攻められた際はあっけなく落城している。」とあります。『三河国二葉松』を参照しているようで信頼が置けない部分はありますが、永禄元年ごろは武田だったと見ていいでしょう。武節城の項も永禄三年の菅沼久助あて今川氏真書状と永禄五年の渡辺平内次あて今川氏真書状をもって「今川方」といっているようですが、永禄元年については、今川方であったとも、そうではなかったとも、どちらとも受け取れる書き方になっています。
で、私は誰だと思うか、ということですが、武田だ!と、断定するつもりだったのですが…。
昨日あんだけ引っ張っておきながら、どうにも歯切れが悪い文章になっているのは、『永禄元年付近の武節城主は、正確には配下の下条のものであるが、なんと武田のものだったのだぁぁぁぁ!!!』という前置きから話を進めようとして書き出したものの、「いや待てよ、一応念には念を入れて…。」と本日様々な資料を再度確認してみたら、前は気がつかなかった部分が存外重要な意味を持ってることに気がついたりして、急遽整合を取りながら検討したところ、完全に武田だ、と断定するには不安がでてきてしまったからです。その私の内心のゆらぎが、このなんだかわからない結論になっているとお考えください。すいません。
この話、もう一度整理しなおして出直してきます。