長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

満光寺の鶏 その4

2015年03月06日 | 日本史
いつもよりも早く鶏が鳴いて武田軍の攻撃から危うく逃げ去った徳川家康。鶏に感謝して所領を与えたという伝承が残る満光寺。
いつその事態が発生したのかを考える、という、誰も得しないこのシリーズもいよいよ4回目。
前回は元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いを巡っては発生していないだろう、ということを述べました。

翌元亀4年(1573年)に三方ヶ原で家康を破った武田信玄は、新城市の野田城を包囲します。城将の菅沼定盈は、わずか500の兵力で武田軍の約2万5千の大軍を相手に1ヶ月籠城し、大いに武名を高めます。
このあたりの話も武田軍が金堀衆で水の手を切っただの、渇水に苦しんだ菅沼軍が「卑怯だろ。」と信玄をなじったら「じゃあ、水やるよ。どれくらい欲しい?」と返事してきて本当に水をくれた、だの、色んな逸話があります。
そして最も有名な逸話と言えば、この戦いで信玄が鉄砲で撃たれて死んだとか死んでないとか、という話。

※信玄を撃ったという伝承がのこる信玄砲。設楽原歴史資料館所蔵。

この信玄砲、火縄銃としては古い形式のもので戦国時代に利用されていた可能性が高く、鋳潰されたりして再利用されてしまうことが多い火縄銃は、戦国時代のものは非常に貴重だそうです。それなのに、残っていた火縄銃、ということから、信玄を撃ったという附加価値から意図的に保存されたのではないか、という説明を設楽原歴史資料館の湯浅さんはされていました。

信玄が撃たれたことを否定する向きも多いですが、こうした伝承が残っていることは伝えていくべきではないかと。

さて、野田城の戦いを長々述べたのには理由があり、この戦いの時、家康が応援に来た可能性も考えられるからです。そこで『新城市三十年誌』を読んでみると詳しく書いてある。

「家康は笠頭山まで出馬し、金扇の馬印をひるがえしたが、甲軍の包囲陣を見て士気も振わず、酒井忠次の諫言を入れ吉田城へ引き退き、その後、賀茂の照山まで再三出陣したが自力では救援し得なかった。」(538頁)

この話は「菅沼家譜」に載っている話のようです。
これを読みますと、家康は定盈を救おうとうろうろしており、ここで頑張らないと他の家康配下領主にも「家康は頼りない。」と思われて、どんどん武田に寝返られてしまう。だけど、とても自分の力では武田信玄に勝てないので結果として救いたい気持ちを表現するにとどまった、ということがわかります。

ただ、吉田(豊橋)を中心に動いていおり、逃げるにしても山吉田を通過することは考えられないので、野田城を巡る戦いで満光寺の鶏逸話が発生した可能性もないと考えて良いと思います。

それじゃ、元亀4年も発生してないじゃん!

ご安心ください。まだ、最後の望みがあります。

武田信玄はここまで家康を脅かしながらも、寿命には勝てず元亀4年の4月12日に信州駒場で死んでしまったとされています。武田が当主の死で動揺している隙をついて家康は反撃に出ます。

まず、家康が奪還を目指したのが、その3で信玄が軍勢を集中させて総力戦を行って奪った二俣城。
残念ながら、ここを奪還しようとして付け城(攻撃方が長期戦に備えて包囲するための城)を築いてとりあえず終了。

そして、同時進行で武田の対応に不満を持っていたらしい作手を中心とした領主奥平貞能を寝返らせることに成功。

※奥平貞能(ウィキペディア画像)

奥平家は作手を中心に額田や新城、豊川の平野部への入口も抑えていた領主なので、武田方にしておくと、どこから攻められるかわかったもんじゃない、ということがあったと思います。奥平家は徳川家康にとっては長女を嫁にやってでも味方につけたい一族であったといえるでしょう。

そして、7月には武田方に奪われた長篠城を取り戻そうとします。
このとき、武田軍も大規模な応援部隊を送り込んで対抗していたようです。この時点で武田勝頼はまだ奥平の裏切りを知らないようで、7月末日で勝頼は奥平貞勝と貞能にあてて「家康がやってきたなんて超ラッキー。今色々応援出してるから家康を引き止めといてくれ!」といった趣旨の手紙を出してます。(戦国遺文武田氏編 2143)

ところが奥平は8月20日に家康から所領安堵の書状をもらっており明確に武田を離れた様が窺えます。(愛知県史織豊1 901)そして、長篠城は諸説有りますが8月から9月の間に落城し、家康のものになったようです。

この時の様子が、中津藩史や寛政重修諸家譜などを参考に作られた長篠城址保存館発行の「山家三方衆」には詳しく描かれています。

「・・・家康は、・・・七月十九日長篠城を攻撃した。城中では無人をよそおっていたが、家康の軍から放った火矢は、風にあおられて大火(野牛郭)となり、多数の兵器、食料も焼けてしまった。家康は、対岸の久間・中山(鳳来町乗本)に砦を築き、酒井忠次、菅沼定盈に守らせ、有海原・篠原(新城市有海)にも兵を配置し、自らは一旦浜松へ帰った。城将菅沼正貞・菅沼貞俊は家康の来攻を甲州に知らせた。勝頼は武田信豊を主将に山県昌景・馬場信房・小山田信茂・土屋直村・穴山梅雪らを遣わした。八月八日、家康は再び長篠に来た。十五日正貞、貞俊は飢餓に堪えず、鳳来寺方面に走った。救援の諸将は作戦が不成功に終わったことを恥じ、徳川勢殲滅の策を練った。信豊・昌次は作手に移り、設楽原に出て、二つ山(鳳来寺富栄)の信房と東西より、家康の通路をはばめば、家康は吉川筋(新城市吉川)へ出るであろう。そこをさしはさんで撃とうと謀った。貞能はこれを聞き、ひそかに夏目五郎左衛門治員を派遣して家康に伝えた。・・・中略・・・家康は、この諜報をきいて急遽、久間山より間道を抜けて浜松へ帰った。・・・」


若干、愛知県史や戦国遺文の文書と比較すると日付が1ヶ月ほど早い。(8月末や9月頭に勝頼から部下に対して長篠支援の文書が出ている。)また、勝頼は二俣城方面への手当てをしており、家康が一旦帰ったのは遠州二俣への対応が必要だったからか、という気がします。そこが落ち着いたので、改めて長篠へやってきた、という感じではなかったかと思います。

仮に「山家三方衆」の時系列を愛知県史等の書状の日付に置き換えて1ヶ月ずらした場合、山県昌景は二俣の救援から長篠へ向かっており、一旦家康が退却したときには長篠にいない可能性が高く、このときに家康が武田勢の山県隊に追い回される事態はなさそうです。

書状では、長篠城落城後に家康を討取ろうとした武田軍の動きはつかめません。が、仮にこうした動きがあった場合、家康は久間山から浜松へ帰った、と、されているので山吉田を通過する可能性が極めて高いのです。と、いうか、通らないと帰れない。

※上記の地図で黒い線が折れる地点が満光寺周辺。久間山の間道は単純に黒の直線で表しており実際の道はもっと複雑な経路になると思われます。(グーグルマップを加工)

長篠城落城時には山県もいたと思われます。

長篠から家康が逃げたときに武田勢が追いかけたどうかは「山家三方衆」の逸話からはわかりません。
が、役者は全て揃っています。

元亀年間について元亀元年からひたすら書状やら伝承やらを追いかけてきましたが、家康と山県隊が山吉田を舞台にできそうなときは、この時しか無い。

なので、満光寺の鶏の逸話が発生したと考えられるのは、元亀4年の長篠城攻めにより家康が長篠城を落城させた後、浜松城へ逃げて行ったときではないか、というのが結論です。

なぜ元亀年間、という非常に漠然とした表現になったのか、という疑問に対する私なりの推測ですが、

①実際に発生したと考えられる逸話は天正(元亀4年7月28日からは天正年間)の話であったこと。
②元亀2年に武田軍が侵入したという話が後世に広まり、武田軍侵入時点が混乱したこと。
③元亀3年の山県隊の記憶が武田軍の侵入として地元に強いイメージを持たせたこと。

の3点が考えられます。
これらがぐちゃぐちゃになり、どこで発生したか特定できなくなったのではないか、と思います。

と、いうことで、満光寺の鶏のお話しは、めでたし、めでたし。


と、なるはずだったのですが・・・。

実は、満光寺の鶏の話をあれこれ調べたところ、この逸話、そもそも完全な作り話ではないか、と、思われる状況を見つけたのです。

と、最後の最後に大きな問題が発生して次回最終回へ続きます

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