初同の型は定型で、舞台を一巡する程度。続くクリ・サシ・クセは居グセで、舞台の中央に着座し、これまた定型でサシの終わり、上端の直前、そしてクセの終わりの3か所でワキと向き合います。
地謡(クリ)「それ仏法あれば世法あり。煩悩あれば菩提あり。仏あれば衆生もあり。善悪又不二なるべし。 と大小前より正へ向き舎利をキッと見てより正中に着座
シテ(サシ)「然るに後五百歳の仏法。既に末世の折を得て。
地謡「西天唐土日域に。時至つて久方の。月の都の山並に。仏法流布のしるしとて。仏骨を納め奉り。
シテ「げに目前の妙光の影。
地謡(クセ)「この御舎利に如くはなし。 とワキへ向き、直し
地謡「然るに仏法東漸とて。三如来四菩薩も。皆日域に地を占めて。衆生を済度し給へり。常在霊山の秋の空。わづかに二月に臨んで魂を消し。泥洹双樹の苔の庭遺跡を聞いて腸を断つ。ありがたや仏舎利の。御寺ぞ在世なりける。げにや鷲の御山も。在世のみぎんにこそ草木も法の色を見せ。皆仏身を得たりしに。 とワキへ向
シテ「今はさみしく冷ましき。 と直し
地謡「月ばかりこそ昔なれ。孤山の松の間には。よそよそ白毫の秋の月を礼すとか。蒼海の波の上に。僅かに四諦の。暁の雲を引く空の。淋しささぞな鷲の御山。それは上見ぬ方ぞかし。こゝはまさに目前の。仏舎利を拝する御寺ぞ。貴とかりける。 とワキへ向
能『舎利』のクセは、こういう見た目の面白さが際立つ切能としては ちょっと不釣り合いな重厚な内容ですね。すでにこのクセが文章の一部が声明の一種である「講式」から採られたことなど仏書との関係が深いことが指摘されています。
このクセを読んだとき、ぬえは能『舎利』の作者がこの曲に込めた意気込みと、この能のテーマがここにあることを感じました。ちょっとわかりにくい箇所もあるので試みに現代語訳してみますと。。
地謡(クリ)「そもそも仏法があれば世の中の法というものもある。同じように煩悩があっても菩提の境地があり、救う仏があれば救われる衆生もある。善悪というものは二つの物ではない。
シテ(サシ)「さて後五百年に至り仏法もまさに末世の時を迎えた。
地謡「天竺・唐・日本を経て、ついに時の機運が高まり、仏法流布のしるしとしていま都の山の中に仏の骨を納め申すことになった。
シテ「仏の貴い教えの光を目前に拝す物として
地謡「この舎利に優るものはない。
地謡(クセ)「仏法東漸と言われるように、釈迦・阿弥陀・薬師の如来も普賢・文殊・観音・弥勒の菩薩も今はこの日本に住んで衆生を救済される。霊鷲山におられた釈迦もある年の二月に入寂されたが、その沙羅双樹の庭も今は苔蒸した遺跡になっていると聞いては断腸の思いをする。ありがたくもこの仏舎利を納める寺こそ現世のもの。まことに霊鷲山も釈迦当時でこそ草木も教えに染まり仏身を得たというのに
シテ「いまは寂しくすさましい
地謡「月ばかりが昔のよう。そびえ立つ山の松の間に見える秋の月にようやく仏の白毫を観想して拝をするばかりであるとか。また大海原の上に暁に消えてゆく雲のようにわずかに小乗の四諦の教えが残るばかり。それは釈迦が説法をした霊鷲山のこと、いま目前に仏舎利を拝すことのできるこの御寺こそ貴いことである。
ややナショナリズム先行の趣も感じないではないですが、それは衆生済度の仏の誓願が、末法を迎えたいままさに天竺から遠く離れた日本の地で実現される事への期待であり、またその仏への厚い信仰を誓う決意の現れでもありましょう。言うまでもなく能『舎利』のテーマは、後場の韋駄天と足疾鬼の闘争の面白さではなく、仏舎利を通して顕れる、揺るぎない信仰の深さであるはずです。
が、一方クリの文章は能『山姥』からの借用であったり、肝心の「講式」からの引用も、先行する能にすでに採られていたものを転借したものだという指摘もあるのですが、そうであったとしても ぬえはそこに能『舎利』の作者の。。言うなれば「限界」というべきものを見て、かえって微笑ましく思えたりします。
後場の韋駄天と足疾鬼との闘争の場面の構成は どう見ても作者の非凡な才能を示していますが、この場面の文章と比べるとクセの文体はいかにも異なって、堅く重厚な響きですね。そして、文章が活き活きとして見えるのは、やはり後場だと思います。
。。すなわち、作者は僧でもなければ、仏典を研究する求道者でもなく、一人の能役者であったのだろうと ぬえは想像します。能『舎利』の作者は世阿弥のように和歌を自由に操って本文に挿入するような文才では劣っているのかもしれませんが、後場の構想に見るような自由な発想は世阿弥とはまた次元が違う優れた能力でありましょう。生粋の舞台人が作った能、という感触を ぬえは能『舎利』に見ます。
そのうえ作者は、この能を単なるショーとして仕上げる事を潔しとしなかったのでしょう。この重厚なクセの挿入は、そういう作者の主張なのであって、すべての登場人物が共通して持つ、仏舎利を通しての仏への厚い信仰を描く場面がなければ、仏舎利の争奪戦というこの曲の存在意義が失われ、この能が単純なショーと堕してしまうことを作者は怖れたのだ、と ぬえは解釈しています。
地謡(クリ)「それ仏法あれば世法あり。煩悩あれば菩提あり。仏あれば衆生もあり。善悪又不二なるべし。 と大小前より正へ向き舎利をキッと見てより正中に着座
シテ(サシ)「然るに後五百歳の仏法。既に末世の折を得て。
地謡「西天唐土日域に。時至つて久方の。月の都の山並に。仏法流布のしるしとて。仏骨を納め奉り。
シテ「げに目前の妙光の影。
地謡(クセ)「この御舎利に如くはなし。 とワキへ向き、直し
地謡「然るに仏法東漸とて。三如来四菩薩も。皆日域に地を占めて。衆生を済度し給へり。常在霊山の秋の空。わづかに二月に臨んで魂を消し。泥洹双樹の苔の庭遺跡を聞いて腸を断つ。ありがたや仏舎利の。御寺ぞ在世なりける。げにや鷲の御山も。在世のみぎんにこそ草木も法の色を見せ。皆仏身を得たりしに。 とワキへ向
シテ「今はさみしく冷ましき。 と直し
地謡「月ばかりこそ昔なれ。孤山の松の間には。よそよそ白毫の秋の月を礼すとか。蒼海の波の上に。僅かに四諦の。暁の雲を引く空の。淋しささぞな鷲の御山。それは上見ぬ方ぞかし。こゝはまさに目前の。仏舎利を拝する御寺ぞ。貴とかりける。 とワキへ向
能『舎利』のクセは、こういう見た目の面白さが際立つ切能としては ちょっと不釣り合いな重厚な内容ですね。すでにこのクセが文章の一部が声明の一種である「講式」から採られたことなど仏書との関係が深いことが指摘されています。
このクセを読んだとき、ぬえは能『舎利』の作者がこの曲に込めた意気込みと、この能のテーマがここにあることを感じました。ちょっとわかりにくい箇所もあるので試みに現代語訳してみますと。。
地謡(クリ)「そもそも仏法があれば世の中の法というものもある。同じように煩悩があっても菩提の境地があり、救う仏があれば救われる衆生もある。善悪というものは二つの物ではない。
シテ(サシ)「さて後五百年に至り仏法もまさに末世の時を迎えた。
地謡「天竺・唐・日本を経て、ついに時の機運が高まり、仏法流布のしるしとしていま都の山の中に仏の骨を納め申すことになった。
シテ「仏の貴い教えの光を目前に拝す物として
地謡「この舎利に優るものはない。
地謡(クセ)「仏法東漸と言われるように、釈迦・阿弥陀・薬師の如来も普賢・文殊・観音・弥勒の菩薩も今はこの日本に住んで衆生を救済される。霊鷲山におられた釈迦もある年の二月に入寂されたが、その沙羅双樹の庭も今は苔蒸した遺跡になっていると聞いては断腸の思いをする。ありがたくもこの仏舎利を納める寺こそ現世のもの。まことに霊鷲山も釈迦当時でこそ草木も教えに染まり仏身を得たというのに
シテ「いまは寂しくすさましい
地謡「月ばかりが昔のよう。そびえ立つ山の松の間に見える秋の月にようやく仏の白毫を観想して拝をするばかりであるとか。また大海原の上に暁に消えてゆく雲のようにわずかに小乗の四諦の教えが残るばかり。それは釈迦が説法をした霊鷲山のこと、いま目前に仏舎利を拝すことのできるこの御寺こそ貴いことである。
ややナショナリズム先行の趣も感じないではないですが、それは衆生済度の仏の誓願が、末法を迎えたいままさに天竺から遠く離れた日本の地で実現される事への期待であり、またその仏への厚い信仰を誓う決意の現れでもありましょう。言うまでもなく能『舎利』のテーマは、後場の韋駄天と足疾鬼の闘争の面白さではなく、仏舎利を通して顕れる、揺るぎない信仰の深さであるはずです。
が、一方クリの文章は能『山姥』からの借用であったり、肝心の「講式」からの引用も、先行する能にすでに採られていたものを転借したものだという指摘もあるのですが、そうであったとしても ぬえはそこに能『舎利』の作者の。。言うなれば「限界」というべきものを見て、かえって微笑ましく思えたりします。
後場の韋駄天と足疾鬼との闘争の場面の構成は どう見ても作者の非凡な才能を示していますが、この場面の文章と比べるとクセの文体はいかにも異なって、堅く重厚な響きですね。そして、文章が活き活きとして見えるのは、やはり後場だと思います。
。。すなわち、作者は僧でもなければ、仏典を研究する求道者でもなく、一人の能役者であったのだろうと ぬえは想像します。能『舎利』の作者は世阿弥のように和歌を自由に操って本文に挿入するような文才では劣っているのかもしれませんが、後場の構想に見るような自由な発想は世阿弥とはまた次元が違う優れた能力でありましょう。生粋の舞台人が作った能、という感触を ぬえは能『舎利』に見ます。
そのうえ作者は、この能を単なるショーとして仕上げる事を潔しとしなかったのでしょう。この重厚なクセの挿入は、そういう作者の主張なのであって、すべての登場人物が共通して持つ、仏舎利を通しての仏への厚い信仰を描く場面がなければ、仏舎利の争奪戦というこの曲の存在意義が失われ、この能が単純なショーと堕してしまうことを作者は怖れたのだ、と ぬえは解釈しています。
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