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ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

能のひとつの到達点…『大会』(その18)

2011-05-16 00:58:31 | 能楽
ツレ「帝釈この時怒り給ひ。とツレは足拍子を踏み
地謡「帝釈この時怒り給ひ。かばかりの信者をなど驚かすと。忽ち散々に苦を見せ給へば
とツレは打杖を振り上げてシテを打ち、シテは打たれて下居羽風を立てゝ。翔らんとすれども。とシテは正面の方へ両ユウケンしながら飛び上がり立ち角の方へ出もぢり羽になつて。と左へソリ返り飛行も叶はねば。と飛返り下居恐れ奉り。拝し申せばとツレへ向き両手をつき辞儀をし帝釈乃ち雲路をさして。上らせ給ふ。とツレは右へトリ幕へ走り込み、シテは左袖を頭へ返し見送りその時天狗は岩根を伝ひ。とグワッシ二つし左袖を返し下るとぞ見えし。岩根を伝ひ。と橋掛リへ行き幕際にノリ込拍子二つ羽団扇を後ろへ投げ捨て下ると見えて。と飛返り下居左袖を頭へ返し深谷の岩洞に。入りにけり。と立ち上がり左袖を返しトメ拍子踏む 太鼓留撥を聞き袖を払い右へトリ幕へ引く

このキリの部分は文意に即して面白い型が続いて楽しいところですね~。とくにシテはツレに打たれてバッタリと下居すると「羽風を立てゝ。翔らんとすれども」とツレを外して正面の方へ両ユウケンしながら飛び上がって立つ…羽ばたいて逃げようとしているんですね! 天狗が羽ばたくものかどうかは知りませんが、いかにもツレに打たれて頭に たんこぶを作って、ほうほうの体で逃げ出すかわいそうな天狗の様子が目に見えるよう。

ところが直後に「もぢり羽になって」とソリ返りがあって…「もぢり羽」とは羽がよじれる事で、今度は帝釈天の神通力のためでしょうか、「飛行も叶はねば」と逃げ出すこともかなわずに再びバッタリと地面に倒れ伏して、とうとう天狗は降参します。

「恐れ奉り、拝し申せば」と両手をついてツレを拝すると、帝釈天も怒りを和らげて打杖を下ろし、あっというまに天上界へ帰って行き、シテは左袖を頭に返して下居のまま伸び上がってツレの姿が見えなくなるまで遠く見送ります。さてツレに取り残されて一人きりになったシテは、飛ぶことができないので岩を伝って谷底へと下って行き、岩の洞窟の中へと帰ってゆく…と謡曲本文には書いてあるのですが、実際の型は切能の定型の終わり方です。わずかにグワッシをするところが「岩根を伝ひ、下るとぞ見えし」という文句に合った型なのと、羽団扇を捨てて飛返り、その時に左袖を頭に返す型が、神通力を無くして非力となったシテが姿を消す、という様子を表現していますが、多くの切能では幕際で飛返りをして留める曲が多く、その場合も飛返りのあとに下居してしまうものは、鬼神などで闘争に負けて逃げ去る(消え去る)シテに共通の型なのです。反対に飛返りのあとに 立っているものは、何というか、栄光のある終わり方で、たとえば同じ天狗物でも『鞍馬天狗』や、また鬼神のシテでも脇能である『賀茂』などがこれに当たります。

そのうえ短い文句で橋掛リの幕際まで行くためには ある程度走って行く感じで歩まねばなりません。多くの切能では『大会』と同じ型でシテは幕際で留めるので、このあたりは『大会』らしさ、というよりは、やはり切能らしさを印象づける留め方だなあ、と感じます。

こうして能が終わりシテが幕に入ると、後見は(あらかじめ幕の内側に待機していて)幕際にシテが捨てた羽団扇を引いてワキの退場の妨げにならぬよう配慮します。ついでワキが幕に入り、一畳台と椅子の作物が引かれると、囃子方と地謡が立ち上がってそれぞれ幕と切戸に引いて『大会』の能は完了します。

【付録】

さてこれにて『大会』の上演の順序に沿っての解説は一応終わりました。次回はもう少し突っ込んだ解説を考えていますが、その前に、前述の『大会』の本説である『十訓抄』所収のお話をご紹介しておきましょう。

『十訓抄』「第一 人に恵を施すべき事」一ノ七

後冷泉院御位の時、天狗あれて、世の中騒がしかりける頃、西塔に住せる僧、あからさまに京に出でて帰りけるに、東北院の北の大路に、童部五六人ばかり集まりて、ものを打ち掕(りょう)じけるを、歩み寄りて見れば、鵄(とび)の世におそろしげなるを、縛りかがめて、楚(すはえ)にて打つなりけり。「あな、いみじ。などかくはするぞ」と云へば、「殺して、羽取らむ」と云ふ。この僧、慈悲をおこして、扇をとらせて、これを乞ひ請けて放ち遣りつ。

「ゆゆしき功徳つくれり」と思ひて行くほどに、切堤のほどに、藪より、異様なる法師の歩み出でて、遅れじと歩み寄りければ、気色おぼえて、かたかたへ立ち寄りて、過ぐさむとしける時、かの法師、近寄りて云ふやう、「御憐み蒙りて、命生きて侍れば、その悦び聞えむとて」など云ふ。僧、立ち返りて、「えこそ覚えね。たれ人にか」と問ひければ、「さぞ思すらむ。東北院の北の大路にて、辛き目見て侍りつる老法師に侍り。生けるものは、命に過ぎたるものなし。かばかりの御志には、いかでか報じ申さざらむ。何事にても、ねんごろなる御願ひあらば、一こと叶へ奉らむ。おのれはかつ知らせ給ひたるらむ。小神通を得たれば、何かは叶へざらむ」と云ふ。

「あさましく、めづらかなる業かな」とむつかしく思ひながら、こまやかに云へば、「やうこそあるらめ」と思ひて、「われはこの世の望み、さらになし。年七十になれりたれば、名聞利欲あぢきなし。後世こそおそろしけれども、それは、いかでか叶へ給ふべきなれば、申すに及ばず。ただし、釈迦如来の霊山にて、説法し給ひけむよそほひこそ、めでたかりけめと思ひやられて、朝夕、心にかかりて見まほしくおぼゆれ。そのありさま、まなびて見せ給ひなむや」と云ふ。
「いとやすきことなり。さやうのものまねする、おのれが徳とするなり」と云ひて、下り松の上の山へ具して登りぬ。
「ここにて目をふさぎて居給へ。仏の説法の御声の聞えむ時、目をばあけ給へ。ただし、あなかしこ、たふとしとおぼすな。信だに起こし給はば、おのれがため悪しからむ」と云ひて、山の峰の方へ登りぬ。

とばかりして、法の御声聞ゆれば、目を見あけたるに、山は霊山となり、地は紺瑠璃となりて、木は七重宝樹となりて、釈迦如来獅子座の上におはします。普賢、文殊、左右に座し給へり。菩薩、聖衆、雲霞のごとし。帝釈、四王、竜神八部、所もなく満ちみてり。空より四種の花降りて、香ばしき風吹き、天人雲につらなりて、微妙の音楽を奏す。如来、宝花に座して、甚深の法門を演説し給ふ。そのことがら、おほかた心もことばも及びがたし。

しばしこそ、いみじく学び似せたりなど、興ありて思ひけれ、さまざまの瑞相見るに、在世の説法の砌に、望めるがごとし。信心たちまちにおこりて、随喜の涙、眼に浮び、渇仰の思ひ、骨にとほるあひだ、手を額にあてて、帰命頂礼するほどに、山おびたたしくからめき騒ぎて、ありつる大会、かき消つごとくに失せぬ。夢の覚むるがごとし。
「こはいかにしつるぞ」とあきれ騒ぎて見廻せば、もとありつる山中の草深なり。あさましながら、さてあるべきならねば、山へ登るに、水飲のほどにて、ありつる法師出で来りて、「さばかり契り奉りしことをたがへ給ひて、信をおこし給へるによりて、護法、天童下り給ふ。『いかでか、かばかりの信者をば、たぶろかすぞ』とて、我らをさいなみ給へるあひだ、雇ひ集めたりつる法師ばらも、からき肝つぶして、逃げ去りぬ。おのれが片方の羽交をうたれて、術なし」とて、失せにけり。


(出典:新編日本古典文学全集51 十訓抄 小学館)
※読みやすくするために一部かな表記を漢字に改めました。

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