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ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

廬生が得たもの…『邯鄲』(その10)

2012-11-14 21:49:52 | 能楽
シテ「いつまでぞ。栄花の春も。常磐にて。(と上扇)
地謡「なほ幾久し有明の月。(と中左右、打込、ヒラキ)
シテ「月人男の舞なれば(と正へ出ながら左袖巻き上げ)。雲の羽袖を(と左へウケ左袖に唐団扇を重ね見)。重ねつゝ(袖を払い右ウケ唐団扇の上に左袖を返し拍子二つ踏み、そのまま正へ向き拍子二つ踏み)。喜びの歌を(とユウケン二つ仕)。謡ふ夜もすがら(と直し)。
地謡「謡ふ夜もすがら日はまた出でて。明らけくなりて(と角へ行き直し右上を見上げ)。夜かと思へば(と左へ廻り)。
シテ「昼になり(と正へ向き)。
地謡「昼かと思へば(と正ヘ出)。
シテ「月またさやけし(と雲ノ扇)。
地謡「春の花さけば(とサシ)。
シテ「紅葉も色濃く(と角にて右へ小さく廻り)。
地謡「夏かと思へば(唐団扇にて下より右上を見上げ)。
シテ「雪も降りて(と面正へ切り左へ廻り)。
地謡「四季折々は目の前にて(笛座前より中へ出サシ分)。春夏秋冬万木千草も(サシ右へ小さく廻り)。一日に花咲けり(一畳台の前より正先へ斜に出)。面白や。不思議やな(とユウケン二つ仕ながら下がり一畳台に腰を掛け)。
地謡「かくて時過ぎ頃去れば。かくて時過ぎ頃去れば(と立ち上がり大小前へ行き)。五十年の栄花も尽きて(と正ヘ向き)。まことは夢の中なれば(と正ヘ出ヒラキ。このあたりにて後見が台の上に枕を出す)。皆消え消えと失せ果てゝ(サシ右へ廻り脇正の方より一畳台へ胸ザシ。子方とワキツレ一同は立ち上がり手早く切戸に引く)。ありつる邯鄲の枕の上に(台の上へ上がり)。眠りの夢は。覚めにけり(と前の如く横に臥す)。

「楽」のあとは一気呵成にクライマックスになります。とくに台の上に上がって枕に臥す型はしばしば『道成寺』と比較されるほど緊迫感のある見どころですね。突然急調になる囃子と地謡。子方とワキツレが一気に切戸へ引くと、シテは舞台を横切って一畳台の上に上がり、眠りについた時と同じ形に横になります。

この型、他流では一畳台の中に飛び込むアクロバティックな型があるそうですが、観世流ではそこまでは致しません。とはいえ、ゆっくりと台に上がってゴロリと横になるわけではなく、いかに突然夢の世界が崩壊したように見せるかが舞台成果として問われるところ。このあたりは演者の工夫によるところが大きいと言えるでしょう。

しかし、この型の前が面白いところなのです。以前に「たとへばこれは。長生殿の内には。春秋をとゞめたり不老門の前には。日月遅しと言ふ心をまなばれたり」と、楽しみを極める御代の時間がゆっくりと過ぎ、栄華の生活は永遠に続くように思われる、と王宮の有様が描かれたのに、ここでは急転、まるで早送りするビデオのように、くるくると時間が経つのです。「万木千草も一日に花咲けり」など、なんて面白い表現なのでしょう。「面白や。不思議やな」。。夢の中だからこそ起きる超自然的な現象も、もうその夢の中に埋没したシテ廬生には気になりません。たしかに、私たちも夢の中では不合理な出来事に出会っても、それが夢なのだから、と納得したり、そのために夢が覚めたりはしませんね。不合理をそのまま受け入れてしまうものです。合理から不合理へ、シュルレアリスムの絵画のような世界に舞台面を段々と移行させてさせて行き、そのクライマックスに破綻を用意するなんて。。この能の作者の手腕は本当にすさまじいほど冴えています。

シテが台に臥すと、それまで橋掛リ一之松の狂言座に着座していた間狂言が立ち上がり、ゆっくりと台に近づくと、先ほどワキ。。夢の中の勅使がシテを起こしたように、扇で台の縁を二つ打ってシテを起こします。夢から現実へ、夢の中から外へシテが移ろう場面です。

狂言「あら久しと御休み候や。粟の飯の出来て候。とうとうおひるなり候へや

間狂言はこうシテに告げると、すぐに切戸に引いてしまいます。この間狂言は本当に辛抱役ですね。能の冒頭から登場して、この場面のために一之松の狂言座でずっと着座したまま舞台の進行を待ち続けるのです。もっとも、一畳台に近づいてシテを見ると、眠っているはずが ぜいぜいと肩で息をしている状態ですから、笑いをこらえるのが辛いかも。(^_^;

間狂言が去ると、シテはおもむろに、茫洋と起きあがります。このあたりは稽古でも厳しく直されるところですが、やはり最後はシテのセンスと工夫によるところ。先ほどワキに起こされた時とはまったく違う様子で起きなければなりません。。以前『邯鄲』を勤めた先輩からは「腹筋を鍛えておけ」というアドバイスが。。

シテ「廬生は夢さめて。

起きあがったシテが低く謡います。まだこれまでの出来事が半信半疑、夢うつつの状態なのでしょう。師家の形付けにも「謡い出しの間合いが大事」とわざわざ注釈がつけられていました。先ほどの激しい場面のあとなので、シテのみならず、囃子も地謡も苦しい場面です。ぬえの場合、不思議とこの場面で息が上がってしまって調子が高くうわずってしまう、ということは稽古の中では起こりませんでした。当日はまたどうなるか、ですが。。

地謡「廬生は夢さめて。五十の春秋の。栄花も忽ちにたゞ茫然と起きあがりて。
シテ「さばかり多かりし。
地謡「女御更衣の声と聞きしは。
シテ「松風の音となり(と橋掛リの松を見)。
地謡「宮殿楼閣は。
シテ「たゞ邯鄲の仮の宿(と作物の柱を見上げ)。
地謡「栄花のほどは(以下、段々と面を伏せて考える心)。
シテ「五十年。
地謡「さて夢の間は粟飯の。
シテ「一炊の間なり。
地謡「不思議なりや測りがたしや(と左膝を両手にて抱え)。
シテ「つらつら人間の。有様を。案ずるに。
地謡「百年の歓楽も。命終れば夢ぞかし。五十年の栄花こそ。身の為にはこれまでなり。栄花の望みも齢の長さも。五十年の歓楽も。王位になれば。これまでなりげに。何事も一炊の夢(と膝を下ろし唐団扇にて台の縁を一つ打ち)。
シテ「南無三宝南無三宝(と台より下りてシテ柱の方ヘ歩み)。
地謡「よくよく思へば出離を求むる。知識はこの枕なり(と振り返り再び台に乗り、枕に辞儀を仕)。げに有難や。邯鄲の(と台より下り、受ケ流シ)げに有難や邯鄲の(とシテ柱にノリ込み拍子を踏み)。夢の世ぞと悟り得て(と正ヘヒラキ)。望みかなへて帰りけり(と右へウケ左袖を返しトメ拍子を踏む)。

静かに謡い出した地謡は次第に急調に変わり、ついにシテは「身の一大事」について彼が求める「答え」を得ることになります。

じつはこのあたり、シテにとって最後の難関なのです。「南無三宝南無三宝」と膝を打って(型としては台の縁を打って)台から下りますが、枕こそが自分が探し求めていた「身の一大事」への答えを教えてくれる「貴き知識」だったのだと思い直して台に戻り、枕に深く拝をする、さらには別の型では枕を持ち上げて戴く型もあります。さらにまた台から舞台に下り、受ケ流シをしてシテ柱にノリ込、正ヘヒラキをしてトメ拍子。。これら一連の型をこなすには、なんとしても地謡の文句の分量が足りないのです。このへんをどう処理するかが、やはり演者の工夫でずいぶんいろいろなやり方が行われているようです。

大切な舞台装置の枕が、舞台をシテが舞い留める定式の場所。。シテ柱とは対角に位置し、さらにその枕に近づくには一畳台に手間を掛けて上る必要がある。。そうして最後に舞台が静寂の中で終わるため、型を急ぐわけにもいかない。。これが最後の大切な場面を演じることを難しくしています。

ぬえは『邯鄲』の稽古を通じて、この能が作られた時代からほとんど型そのものは変化していないのではないか、という感想を持っています。「楽」の中の固有の掛かりの譜も、「空下り」も、演出として面白さを追求して後世に付与されたものではなく、能の成立当初からの型なのではないかと考えているのですが、それだけにこのキリにはある種の違和感を持っています。ひょっとしたらシテ柱で留める、能の定型だけが、式楽時代の類型化の中で『邯鄲』にも持ち込まれたのかも。ということは、それ以前の、もっと大らかに自由な演出が試みられていた時代に『邯鄲』は作られたのかもしれません。

今回は時間切れですが、このあたり、少し掘り下げて考えてみる価値があるかもしれませんね。
と言っているうちに、ついに明日が『邯鄲』の公演日となりました。まずは失敗のないように、悔いのない舞台を勤めようと張り切っています!


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