前シテが中入すると、間狂言が登場してワキと問答を交わします。このように中入の間に物語をする(=居語リ)場合、間狂言は初同の間に幕をカーテンのように裏欄干に近い部分を半分だけ開けて(=片幕)目立たぬように登場し、橋掛リ一之松の裏欄干の前(=狂言座)に正座して自分の出番を待ちます。
そして前シテが中入して幕が下りると おもむろに立ち上がって(または曲によりワキに呼び出されて)舞台に入り、ワキに所望されて舞台の正中(中央)に正座して当地に伝わる物語を語ることになります。「居語リ」をする間狂言の場合は大概は段熨斗目に長裃という出で立ちですが、能の曲によって装束にも様々な決マリがある由。また、ぬえが以前ワキ方にだったか? から聞いたところでは、語リの内容にもいろいろと類型化された決マリがあって、たとえば本三番目能では必ず語リの中に和歌が二首紹介される、という事でしたが…それを聞いて「へ~~!」と関心を持った ぬえがその後舞台で注意して聞いてみると…ん~、必ずしも二首の和歌が語リの中に登場しているかというと…微妙なような…
もっとも間狂言の語リというものは、本来の語リ全体が語られるのではなく、往々にして少し略されたりしていますので、それで ぬえが二首を聞くことができなかっただけかも。略すると言っても、これは決して間狂言の役者が手を抜いたりしているわけではなくて、シテが楽屋の中で装束の着替えが出来上がったことを舞台上で機敏に察知して、そのあとに語るはずの内容をうまくまとめて、出番に向けて気持ちを高めた後シテをあんまり待たせないようにしているのです。それにしても舞台の上で語りながら、楽屋の動向にも、おそらく楽屋からかすかに響く物音を敏感に注意を向けて、語リの分量を調整する、というのであれば…驚異というべきでしょう。
以下に掲出したのはワキと間狂言の問答の「一例」です。流儀により、また家により、居語リの内容は異なりますけれども…
間「かやうに候者は。須磨の浦に住居する者にて候。この間は久しくいづかたへも出で申さず候間。今日は須磨寺の辺りへ参り。心を慰まばやと存ずる。や。これに見慣れ申さぬお僧の御座候が。いずくよりいず方へ御通りなされ候ひてて。この所には休らひて御座候ぞ。
ワキ「これは都方より出でたる僧にて候。御身はこの辺りの人にて渡り候か。
間「なかなかこの辺りの者にて候
ワキ「さやうに候はば。まず近う御入り候へ。尋ねたき事の候。
間「心得申して候。さてお尋ねありたきとは。いかやうなる御用にて候ぞ。
ワキ「思ひも寄らぬ申し事にて候へども。この所は源平両家の合戦の巷と承り及びて候。中にも平家の公達。敦盛の果て給ひたる様態。ご存じにおいては語って御聞かせ候へ。
間「これは思ひも寄らぬ事をお尋ね候ものかな。我等この所には住み候へども。左様の事詳しくは存ぜず候さりながら。およそ承り及びたる通り。物語申さうずるにて候。
ワキ「近頃にて候。
間「頃は寿永二年の秋の頃。木曽義仲に都を落とされ。この所に御座を構へ。生田の森と一ノ谷の間を。多勢をもって固められ候へども。平家はすべて歌、連歌などに戯れ。尋常なることを事となされ候に。東国の源氏は。狩・漁・弓馬にのみもまれたる屈強なる兵。六万余騎をふたつに分け。大手搦手より押し寄せ。左右なう打ち破り。御一門の人々も。数多討ち死になされ。あるいは御船に召され。我先にと落ち給ふ。然るに経盛の末子無官の大夫敦盛も。同じ船に召されんとて。渚に打って御出で候が。小枝と申す笛を。御本陣に置かせられ候間。末世までの恥辱と思し召し。引き返し笛を取り。また渚に打って御出で候へば。はやその間に御座船をはじめ御船ども。ことごとく沖へ出で申し候間。御料簡に及ばず。御馬を海さと打ち入れ。泳がせらるる所に。武蔵国の住人。熊谷次郎直実。良き敵と目を付け。追っ懸け申し。まさなうも敵に後ろを見せ給ふものかな。御返しあれと。扇を開き招かれければ。さすが平家の公達にて候ぞ。招かれて取って返し。波打ち際にて引っ組んで。馬より下にどうと落ち。取っておさへ。熊谷は古き大剛の者。初乗りはいまだ十五六歳なれば。やすやすと御頭を打ち落とし。御骸を見れば。錦の袋に入れたる笛を挿されたり。さてその笛を大将の見参に入れければ。見る人涙を流したると申す。まことや熊谷は発心をして。敦盛の御跡を弔ふと申すが。左様にてはあるまじく候。それほど発心をするならば。そのとき助け申すべきに。助けぬほどの者にて候間。発心は致すまじひとの申し事にて候。まず我等の承りたるは。かくの如くにて候が。ただ今のお尋ね不審に存じ候。
ワキ「懇ろに御物語候ものかな。今は何をか包み申すべき。これは熊谷の次郎直実出家し。蓮生と申す法師にて候。
間「これは言語道断。さては熊谷殿にて候か。ただ今申したる事は。所の者の戯れ事に申したるをふと申し出で候。まっぴら御免あらうずるにて候。
ワキ「いやいや苦しからず候。敦盛を手に掛け申し。あまりに痛はしく存じ。かやうの姿ととまかりなりて候。御身以前に草刈数多来られ候程に。すなはち言葉を交わして候へば。愚僧に十念を乞はれ候程に。すなはち授け申して候。その後いかなる人ぞと尋ねて候へば。敦盛のゆかりなる由申され。何とやらん由ありげにて。そのまま姿を無失ふて候よ。
間「これは不思議なる事を仰せ候ものかな。それは疑ふところもなく。敦盛の御亡心にて御座あらうずると存じ候。左様に思し召さば。暫くこの所に御逗留なされ。ありがたき御経をも御読俑あって。かの御跡を。懇ろに御弔ひあれかしと存じ候。
ワキ「この所へ参り候も。敦盛の御跡弔ひ申さんためにて候間。いよいよありがたき御経を読俑し。かの御跡を懇ろに弔ひ申さうずるにて候。
間「御逗留にて候はば。これより東に宿を持ちて候間。お宿を参らせうずるにて候。
ワキ「頼み候べし。。
間「心得申し候
そして前シテが中入して幕が下りると おもむろに立ち上がって(または曲によりワキに呼び出されて)舞台に入り、ワキに所望されて舞台の正中(中央)に正座して当地に伝わる物語を語ることになります。「居語リ」をする間狂言の場合は大概は段熨斗目に長裃という出で立ちですが、能の曲によって装束にも様々な決マリがある由。また、ぬえが以前ワキ方にだったか? から聞いたところでは、語リの内容にもいろいろと類型化された決マリがあって、たとえば本三番目能では必ず語リの中に和歌が二首紹介される、という事でしたが…それを聞いて「へ~~!」と関心を持った ぬえがその後舞台で注意して聞いてみると…ん~、必ずしも二首の和歌が語リの中に登場しているかというと…微妙なような…
もっとも間狂言の語リというものは、本来の語リ全体が語られるのではなく、往々にして少し略されたりしていますので、それで ぬえが二首を聞くことができなかっただけかも。略すると言っても、これは決して間狂言の役者が手を抜いたりしているわけではなくて、シテが楽屋の中で装束の着替えが出来上がったことを舞台上で機敏に察知して、そのあとに語るはずの内容をうまくまとめて、出番に向けて気持ちを高めた後シテをあんまり待たせないようにしているのです。それにしても舞台の上で語りながら、楽屋の動向にも、おそらく楽屋からかすかに響く物音を敏感に注意を向けて、語リの分量を調整する、というのであれば…驚異というべきでしょう。
以下に掲出したのはワキと間狂言の問答の「一例」です。流儀により、また家により、居語リの内容は異なりますけれども…
間「かやうに候者は。須磨の浦に住居する者にて候。この間は久しくいづかたへも出で申さず候間。今日は須磨寺の辺りへ参り。心を慰まばやと存ずる。や。これに見慣れ申さぬお僧の御座候が。いずくよりいず方へ御通りなされ候ひてて。この所には休らひて御座候ぞ。
ワキ「これは都方より出でたる僧にて候。御身はこの辺りの人にて渡り候か。
間「なかなかこの辺りの者にて候
ワキ「さやうに候はば。まず近う御入り候へ。尋ねたき事の候。
間「心得申して候。さてお尋ねありたきとは。いかやうなる御用にて候ぞ。
ワキ「思ひも寄らぬ申し事にて候へども。この所は源平両家の合戦の巷と承り及びて候。中にも平家の公達。敦盛の果て給ひたる様態。ご存じにおいては語って御聞かせ候へ。
間「これは思ひも寄らぬ事をお尋ね候ものかな。我等この所には住み候へども。左様の事詳しくは存ぜず候さりながら。およそ承り及びたる通り。物語申さうずるにて候。
ワキ「近頃にて候。
間「頃は寿永二年の秋の頃。木曽義仲に都を落とされ。この所に御座を構へ。生田の森と一ノ谷の間を。多勢をもって固められ候へども。平家はすべて歌、連歌などに戯れ。尋常なることを事となされ候に。東国の源氏は。狩・漁・弓馬にのみもまれたる屈強なる兵。六万余騎をふたつに分け。大手搦手より押し寄せ。左右なう打ち破り。御一門の人々も。数多討ち死になされ。あるいは御船に召され。我先にと落ち給ふ。然るに経盛の末子無官の大夫敦盛も。同じ船に召されんとて。渚に打って御出で候が。小枝と申す笛を。御本陣に置かせられ候間。末世までの恥辱と思し召し。引き返し笛を取り。また渚に打って御出で候へば。はやその間に御座船をはじめ御船ども。ことごとく沖へ出で申し候間。御料簡に及ばず。御馬を海さと打ち入れ。泳がせらるる所に。武蔵国の住人。熊谷次郎直実。良き敵と目を付け。追っ懸け申し。まさなうも敵に後ろを見せ給ふものかな。御返しあれと。扇を開き招かれければ。さすが平家の公達にて候ぞ。招かれて取って返し。波打ち際にて引っ組んで。馬より下にどうと落ち。取っておさへ。熊谷は古き大剛の者。初乗りはいまだ十五六歳なれば。やすやすと御頭を打ち落とし。御骸を見れば。錦の袋に入れたる笛を挿されたり。さてその笛を大将の見参に入れければ。見る人涙を流したると申す。まことや熊谷は発心をして。敦盛の御跡を弔ふと申すが。左様にてはあるまじく候。それほど発心をするならば。そのとき助け申すべきに。助けぬほどの者にて候間。発心は致すまじひとの申し事にて候。まず我等の承りたるは。かくの如くにて候が。ただ今のお尋ね不審に存じ候。
ワキ「懇ろに御物語候ものかな。今は何をか包み申すべき。これは熊谷の次郎直実出家し。蓮生と申す法師にて候。
間「これは言語道断。さては熊谷殿にて候か。ただ今申したる事は。所の者の戯れ事に申したるをふと申し出で候。まっぴら御免あらうずるにて候。
ワキ「いやいや苦しからず候。敦盛を手に掛け申し。あまりに痛はしく存じ。かやうの姿ととまかりなりて候。御身以前に草刈数多来られ候程に。すなはち言葉を交わして候へば。愚僧に十念を乞はれ候程に。すなはち授け申して候。その後いかなる人ぞと尋ねて候へば。敦盛のゆかりなる由申され。何とやらん由ありげにて。そのまま姿を無失ふて候よ。
間「これは不思議なる事を仰せ候ものかな。それは疑ふところもなく。敦盛の御亡心にて御座あらうずると存じ候。左様に思し召さば。暫くこの所に御逗留なされ。ありがたき御経をも御読俑あって。かの御跡を。懇ろに御弔ひあれかしと存じ候。
ワキ「この所へ参り候も。敦盛の御跡弔ひ申さんためにて候間。いよいよありがたき御経を読俑し。かの御跡を懇ろに弔ひ申さうずるにて候。
間「御逗留にて候はば。これより東に宿を持ちて候間。お宿を参らせうずるにて候。
ワキ「頼み候べし。。
間「心得申し候
・・・パンフレットの黒髭をしっかり確認いたしました。目に金泥が!
お舞台すごく楽しみです^^
ぬえの教室の生徒さんからも昨日、「あんなに詳しく、わかりやすく書いてあるのはほかで見たことがありません」とおホメのお言葉を頂戴しました~
とはいえ、ぬえも毎度シテを勤めるたびに、新しい発見をしておりまして…まだまだわかっておりません…一生、勉強なんでしょうね~
プログラムの表紙の「黒髭」ご確認お疲れさまですっ!
…ん~、でも、あの でっかい眼は金泥ではありませんで、金具がはまっているんです。
多くは真鍮の板を叩き延ばして面の眼の凹凸に合うように作るのですが、これがまた結構たいへんな作業のようです。
そんで、真鍮の上には金メッキを施しまして、さらに光り過ぎないように、その上に古色を彩色しているんですよ。
能面を打つ人ともよくお付き合いさせて頂いている ぬえですが、本当に大変な作業で、ぬえにはとてもマネできませ~ん(T.T)