「打掛り」の小書の来歴が本当に大鼓方の遅刻だったのかどうか真偽はともかく、少なくとも現代に演じられるこの小書の演出は、舞台演出として充分に整備されたものです。
先日テレビ放映されたこの小書では、この演出の出発点として言われるような、大鼓方が遅刻した、という言い伝えとはうらはらに、高度に洗練された演出を見ることができました。『翁』が開演すると大鼓方は常の通り面箱・大夫・千歳・三番叟に続いて出(つまり「遅刻」は再現されない)、「座していたれども」のところの「調べ」もありました。そして「翁帰り」で「翁」「千歳」が幕に入り、小鼓が打ち止めると、おもむろに大鼓方は道具を持って立ち上がり、橋掛り二之松まで行ってそこで正面に向いて下に居、これより小鼓が「揉み出し」を打ち出すと、大鼓方も二之松に居るそのままで打ち出します。やがて立ち上がり、大鼓を左腰に構えて打ちながら橋掛りを歩んで舞台に入り、そのまま正先の方まで出て、まっすぐ後方に下がり、所定の位置(『翁』の時の常の大鼓の着座する位置)にて床几に掛かるのです。
これは。。とてつもなく高度な熟練を要する演出ですね。まず大鼓のあの重量を左手だけで支え、打ちながら歩むだけでも驚異的。それでもまあ、これは体力を充実させることで克服は可能だとしても、あの「揉出し」の複雑な間を小鼓からずっと離れた二之松から打ち始め、打ち続けながら舞台に入り、あまつさえ後ろを振り返って着座位置を確認することもなく、後ろに下がりながら所定の位置にピッタリと止まるとは。しかもシテ方の ぬえからして見ると、これらの離れ技を素袍の両肩を脱いだ不安定な装束で、長袴のまま行っておられる。。驚異的な集中力です。
さて「打掛り」についてはこれぐらいにして、「三番叟」の話題に戻りましょう。
「三番叟」(=和泉流の表記。大蔵流では「三番三」と書きます)は「揉出し」を聞きながら橋掛り一之松で立ち上がり(このところのキッカケは大鼓の手で、これを特に「立ち頭ガシラ」と呼びます)、「おさえおおさえ、おう、喜びありや、喜びありや」と謡いながら舞台に入り、「我がこの処より外へはやらじとぞ思ふ」と大小が止まると、これより「揉之段」と呼ばれる舞となります。
「揉之段」の特色は、まず直面であること、「ヤ、ハン、ハ」と囃子方に通ずる掛け声を掛けながら(大蔵流では「イヨーー、ハ」)、両袖を返し、また巻き上げながら勇壮に舞うことにあります。よく農耕の籾蒔きの姿を写したと言われる事がりますが、実際の意味としてはどうなんでしょうか。笛はずっと定められた譜を吹き返しているように聞こえますが、実際にはいくつかの「手」と呼ばれる譜を間にはさんで吹いておられます。また小鼓にも「手」があって、ぬえが習ったお流儀の場合は、この「手」を、定められた笛の譜のところで三人の小鼓が頭取から順番に打っていく事になっています。
前述のように ぬえにはあまり「三番叟」の舞について技術論を語るほどの知識はありませんが、「揉之段」で最も目立つのは「烏飛び(からすとび)」と呼ばれる型でしょう。左袖をかついだ「三番叟」が笛座から目付柱の方へ向かって「エイ!エイ!エイ!」と声を掛けながら両足で三度飛ぶ型で、この型を見てシテ方の後見は面箱より「黒式尉」の面と鈴を取り出し、面は後見座に座る狂言方の後見のもとへ行って渡し、鈴は「面箱持ち」の袖の下に差し入れておきます。「烏飛び」が終わると「揉之段」もトメに近づいたことになります。
「三番叟」が大小前で膝をついて「揉之段」は終わり、「三番叟」は静かに立ち上がって後見座にクツロギ、ここで「黒式尉」の面を掛けます。
先日テレビ放映されたこの小書では、この演出の出発点として言われるような、大鼓方が遅刻した、という言い伝えとはうらはらに、高度に洗練された演出を見ることができました。『翁』が開演すると大鼓方は常の通り面箱・大夫・千歳・三番叟に続いて出(つまり「遅刻」は再現されない)、「座していたれども」のところの「調べ」もありました。そして「翁帰り」で「翁」「千歳」が幕に入り、小鼓が打ち止めると、おもむろに大鼓方は道具を持って立ち上がり、橋掛り二之松まで行ってそこで正面に向いて下に居、これより小鼓が「揉み出し」を打ち出すと、大鼓方も二之松に居るそのままで打ち出します。やがて立ち上がり、大鼓を左腰に構えて打ちながら橋掛りを歩んで舞台に入り、そのまま正先の方まで出て、まっすぐ後方に下がり、所定の位置(『翁』の時の常の大鼓の着座する位置)にて床几に掛かるのです。
これは。。とてつもなく高度な熟練を要する演出ですね。まず大鼓のあの重量を左手だけで支え、打ちながら歩むだけでも驚異的。それでもまあ、これは体力を充実させることで克服は可能だとしても、あの「揉出し」の複雑な間を小鼓からずっと離れた二之松から打ち始め、打ち続けながら舞台に入り、あまつさえ後ろを振り返って着座位置を確認することもなく、後ろに下がりながら所定の位置にピッタリと止まるとは。しかもシテ方の ぬえからして見ると、これらの離れ技を素袍の両肩を脱いだ不安定な装束で、長袴のまま行っておられる。。驚異的な集中力です。
さて「打掛り」についてはこれぐらいにして、「三番叟」の話題に戻りましょう。
「三番叟」(=和泉流の表記。大蔵流では「三番三」と書きます)は「揉出し」を聞きながら橋掛り一之松で立ち上がり(このところのキッカケは大鼓の手で、これを特に「立ち頭ガシラ」と呼びます)、「おさえおおさえ、おう、喜びありや、喜びありや」と謡いながら舞台に入り、「我がこの処より外へはやらじとぞ思ふ」と大小が止まると、これより「揉之段」と呼ばれる舞となります。
「揉之段」の特色は、まず直面であること、「ヤ、ハン、ハ」と囃子方に通ずる掛け声を掛けながら(大蔵流では「イヨーー、ハ」)、両袖を返し、また巻き上げながら勇壮に舞うことにあります。よく農耕の籾蒔きの姿を写したと言われる事がりますが、実際の意味としてはどうなんでしょうか。笛はずっと定められた譜を吹き返しているように聞こえますが、実際にはいくつかの「手」と呼ばれる譜を間にはさんで吹いておられます。また小鼓にも「手」があって、ぬえが習ったお流儀の場合は、この「手」を、定められた笛の譜のところで三人の小鼓が頭取から順番に打っていく事になっています。
前述のように ぬえにはあまり「三番叟」の舞について技術論を語るほどの知識はありませんが、「揉之段」で最も目立つのは「烏飛び(からすとび)」と呼ばれる型でしょう。左袖をかついだ「三番叟」が笛座から目付柱の方へ向かって「エイ!エイ!エイ!」と声を掛けながら両足で三度飛ぶ型で、この型を見てシテ方の後見は面箱より「黒式尉」の面と鈴を取り出し、面は後見座に座る狂言方の後見のもとへ行って渡し、鈴は「面箱持ち」の袖の下に差し入れておきます。「烏飛び」が終わると「揉之段」もトメに近づいたことになります。
「三番叟」が大小前で膝をついて「揉之段」は終わり、「三番叟」は静かに立ち上がって後見座にクツロギ、ここで「黒式尉」の面を掛けます。
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