地謡の終わりにワキツレの一人が立ち上がり、舞台中央でシテに向き、座って両手をつき、以下シテとの問答になります。
ワキツレ「いかに奉聞申すべき事の候。御位に即き給ひてははや五十年なり。然らばこの仙薬を聞こし召さば。御年一千歳まで保ち給ふべし。さる程に天の濃漿や瀣の盃。これまで持ちて参りたり。
シテ「そも天の漿とは。
ワキツレ「これ仙家の酒の名なり。
シテ「瀣の盃と申す事は。
ワキツレ「同じく仙家の盃なり。
シテ「寿命は千代ぞと菊の酒。
ワキツレ「栄花の春もよろず年。
シテ「君も豊かに。
ワキツレ「民栄え。
場面はいつの間にか即位五十周年の賀の宴に変わっています。登場人物は変わらないままで時間を超越できるのは能の独壇場ですね。舞童は即位式や帝王の通常の生活に近侍する侍童でもあり、節会で舞を披露する舞童でもあるのですね。現にこのあと子方はシテの杯に酒を注ぎ、また舞をも舞います。
地謡「国土安全長久の。国土安全長久の(とワキツレが子方に酌をする)。栄花もいやましになほ喜びは増り草の。菊の盃とりどりにいざや飲まうよ。(子方はシテの前に行き酌をする)
シテ「めぐれや盃の。
地謡「めぐれや盃の。流れは菊水の流に引かれて疾く過ぐれば(以下子方の舞。大小前にて足拍子を踏む)。手まづ遮る菊衣の(とサシ込ヒラキ)。花の袂を翻して(と左袖を引き見る)指すも引くも光なれや(中に廻りサシ込ヒラキ)。盃の影の。めぐる空ぞ久しき(左右)。
子方「わが宿の(上ゲ扇)。
地謡「わが宿の。菊の白露今日ごとに。幾代つもりて淵となるらん(大左右、正先へ打込ヒラキ)。よも尽きじよも尽きじ薬の水も泉なれば(角へ行き直し脇座前へ廻り)。汲めども汲めども弥増しに出づる菊水を(常座で下を掬い正へ出ヒラキ)。飲めば甘露もかくやらんと(角へ行き扇を左手に取り)。心も晴れやかに(常座に廻り)。飛び立つばかり有明の(正先へハネ扇)夜昼となき楽しみの(角へ行きカザシ扇)。栄花にも栄耀にもげにこの上やあるべき(元の座に戻り左右打込ながら下居。
この子方の舞を「夢之舞」と呼びます。仕舞としても演じまして、そのときには「夢之舞」と注記することもあります。仕舞で子方が出る曲はほかに『橋弁慶』がありますが、子方が単独で舞う仕舞は『邯鄲 夢之舞』だけですね。
シテは子方が酌をするとき唐団扇を両手に持ってこれを受けます。その後子方の舞を見ている心で舞台に向いていますが、上端を過ぎたら後ろに向き、後見によって法被の右袖を脱いで巻き込み、右の腰の後ろに差し込みます。この後に子方の舞を見て感興が増したあまり、帝王自らが舞を舞う場面になる、その準備ですね。
右肩を脱ぐのは帝王としての品位を損なうと思います。『鶴亀』や『高砂』、また『融』などを見ても貴人の舞で肩を脱ぐ例はほかにないように思いますし、舞うために肩を脱ぐ必要もないと思います。肩を脱ぐのは能では専ら労働や作業をしている象徴でして、従って比較的身分の低い者を表してもいます。このへんが『邯鄲』のシテに特徴的な部分のひとつで、黒頭(や唐帽子)の姿と相まって、どこまでも俗人が夢の中で仮に帝王となっているのだ、という印象を常に外さないように工夫されているのかもしれません。
ワキツレ「いかに奉聞申すべき事の候。御位に即き給ひてははや五十年なり。然らばこの仙薬を聞こし召さば。御年一千歳まで保ち給ふべし。さる程に天の濃漿や瀣の盃。これまで持ちて参りたり。
シテ「そも天の漿とは。
ワキツレ「これ仙家の酒の名なり。
シテ「瀣の盃と申す事は。
ワキツレ「同じく仙家の盃なり。
シテ「寿命は千代ぞと菊の酒。
ワキツレ「栄花の春もよろず年。
シテ「君も豊かに。
ワキツレ「民栄え。
場面はいつの間にか即位五十周年の賀の宴に変わっています。登場人物は変わらないままで時間を超越できるのは能の独壇場ですね。舞童は即位式や帝王の通常の生活に近侍する侍童でもあり、節会で舞を披露する舞童でもあるのですね。現にこのあと子方はシテの杯に酒を注ぎ、また舞をも舞います。
地謡「国土安全長久の。国土安全長久の(とワキツレが子方に酌をする)。栄花もいやましになほ喜びは増り草の。菊の盃とりどりにいざや飲まうよ。(子方はシテの前に行き酌をする)
シテ「めぐれや盃の。
地謡「めぐれや盃の。流れは菊水の流に引かれて疾く過ぐれば(以下子方の舞。大小前にて足拍子を踏む)。手まづ遮る菊衣の(とサシ込ヒラキ)。花の袂を翻して(と左袖を引き見る)指すも引くも光なれや(中に廻りサシ込ヒラキ)。盃の影の。めぐる空ぞ久しき(左右)。
子方「わが宿の(上ゲ扇)。
地謡「わが宿の。菊の白露今日ごとに。幾代つもりて淵となるらん(大左右、正先へ打込ヒラキ)。よも尽きじよも尽きじ薬の水も泉なれば(角へ行き直し脇座前へ廻り)。汲めども汲めども弥増しに出づる菊水を(常座で下を掬い正へ出ヒラキ)。飲めば甘露もかくやらんと(角へ行き扇を左手に取り)。心も晴れやかに(常座に廻り)。飛び立つばかり有明の(正先へハネ扇)夜昼となき楽しみの(角へ行きカザシ扇)。栄花にも栄耀にもげにこの上やあるべき(元の座に戻り左右打込ながら下居。
この子方の舞を「夢之舞」と呼びます。仕舞としても演じまして、そのときには「夢之舞」と注記することもあります。仕舞で子方が出る曲はほかに『橋弁慶』がありますが、子方が単独で舞う仕舞は『邯鄲 夢之舞』だけですね。
シテは子方が酌をするとき唐団扇を両手に持ってこれを受けます。その後子方の舞を見ている心で舞台に向いていますが、上端を過ぎたら後ろに向き、後見によって法被の右袖を脱いで巻き込み、右の腰の後ろに差し込みます。この後に子方の舞を見て感興が増したあまり、帝王自らが舞を舞う場面になる、その準備ですね。
右肩を脱ぐのは帝王としての品位を損なうと思います。『鶴亀』や『高砂』、また『融』などを見ても貴人の舞で肩を脱ぐ例はほかにないように思いますし、舞うために肩を脱ぐ必要もないと思います。肩を脱ぐのは能では専ら労働や作業をしている象徴でして、従って比較的身分の低い者を表してもいます。このへんが『邯鄲』のシテに特徴的な部分のひとつで、黒頭(や唐帽子)の姿と相まって、どこまでも俗人が夢の中で仮に帝王となっているのだ、という印象を常に外さないように工夫されているのかもしれません。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます