なんだか怒濤のように舞台が立て込んでいた先週からうって変わって今週はヒマにしている ぬえです。こういう時ってのはたまった事務作業がはかどってありがたい事ですが、まさにこういう時期に ぬえは資料を整理したり、書き付けを作ったりするせいなのか、舞台が多くて忙しい時期よりもなんだかブログの更新が滞りがちになりますね。。そういう傾向にある事にやっと気がついた。
考えてみれば、舞台に出ているときは 要するにライブへ出演している(ほとんど ちょい役ですけれども。。)ワケで、見所のお客さまの反応やら、楽屋で友人と話したことなど、常に新鮮な体験や情報を得ているから話題にも事欠かないのかなあ。舞台がヒマな時は、それこそ「ぬえはこう考えています」とこのブログでも書いているような事を練っていることが多いので、いま語れることが少なくなっちゃうのでしょうか。まあ、ヒマな時は事務作業に没頭してブログを書く時間が取れないのが最も大きな原因ではありましょうが。。いずれにしてもご愛読頂いておられる方々には申し訳ないことですけれども。。
で、扇の話の続きですが、いや、それでも ぬえ、扇の話題には事欠かないです。ふだんもっとも身近にあって、常に手にしている物ですし、能の中では象徴性をもっとも強くもつ要素でしょう。作物やら型が持つそれとは比べようもないほどで、扇そのものが持っている神秘性というか呪術性が象徴性を幾倍にも増幅しているような印象は、ぬえ、常に持っています。さて、今日は何をお話しようかしらん。。
おお、それ。では今日は「近衛引き」のお話を致しましょう。
これが「近衛引き」です。要するに幅広い縞模様を横にズッと引きずっただけの文様。草花も吉祥の文様も、なあんにも描かれない、ただの縞模様です。金地に極彩色で描かれた扇に比べれば地味で鑑賞に耐えないように見えますでしょう? ところがこの文様には重大な秘密があるのですよね~。
さて近衛引文様の扇は、観世流では『鉢木』のシテが、専用にこの文様が描かれた鎮メ扇を持つ約束になっています。もっとも『鉢木』で使う近衛引はこの画像とはちょっと違って 白地にくすんだ金の縞模様、という感じですけれども。この画像の扇は ぬえの手元に近衛引の見本としてご紹介するのに適当な扇が見つからなくて、仕方なく ぬえが流儀で準職分に認定された際にご宗家から頂戴した扇の一部を撮影しました。『鉢木』とは全く色合いが違うけれども、これも立派な近衛引文様です。
まあ『鉢木』のシテは落ちぶれた武士ですから、しゃれた草花の文様が描かれた扇よりは地味な印象の近衛引文様が似つかわしいとは思いますが、だからといって近衛引はこのような零落した場面に専用の文様とは言いにくいのです。たとえばお狂言の和泉宗家では近衛引文様の扇が決マリ文様なのだそうで、また京舞井上流の流儀の決マリ文様は金地の扇の下半分が近衛引文様になっていますね(井上流ではお稽古の段階によって近衛引の段の数が増えてゆく、と ぬえは仄聞しましたが。。真偽についてはよく存じません。。)。
「流扇=りゅうせん」とも言いますが、ある流儀の決マリ文様ということは、その流儀に属する者の身分証に匹敵する文様なのです。なぜこの地味な文様が流儀を代表するほどの格式を持っているのか。。それは、まずは「近衛」に由来するものなのかもしれません。
(でも ぬえがここで近衛引文様について語りたいのは、もっと別の視点からなのではありますが。。)
考えてみれば、舞台に出ているときは 要するにライブへ出演している(ほとんど ちょい役ですけれども。。)ワケで、見所のお客さまの反応やら、楽屋で友人と話したことなど、常に新鮮な体験や情報を得ているから話題にも事欠かないのかなあ。舞台がヒマな時は、それこそ「ぬえはこう考えています」とこのブログでも書いているような事を練っていることが多いので、いま語れることが少なくなっちゃうのでしょうか。まあ、ヒマな時は事務作業に没頭してブログを書く時間が取れないのが最も大きな原因ではありましょうが。。いずれにしてもご愛読頂いておられる方々には申し訳ないことですけれども。。
で、扇の話の続きですが、いや、それでも ぬえ、扇の話題には事欠かないです。ふだんもっとも身近にあって、常に手にしている物ですし、能の中では象徴性をもっとも強くもつ要素でしょう。作物やら型が持つそれとは比べようもないほどで、扇そのものが持っている神秘性というか呪術性が象徴性を幾倍にも増幅しているような印象は、ぬえ、常に持っています。さて、今日は何をお話しようかしらん。。
おお、それ。では今日は「近衛引き」のお話を致しましょう。
これが「近衛引き」です。要するに幅広い縞模様を横にズッと引きずっただけの文様。草花も吉祥の文様も、なあんにも描かれない、ただの縞模様です。金地に極彩色で描かれた扇に比べれば地味で鑑賞に耐えないように見えますでしょう? ところがこの文様には重大な秘密があるのですよね~。
さて近衛引文様の扇は、観世流では『鉢木』のシテが、専用にこの文様が描かれた鎮メ扇を持つ約束になっています。もっとも『鉢木』で使う近衛引はこの画像とはちょっと違って 白地にくすんだ金の縞模様、という感じですけれども。この画像の扇は ぬえの手元に近衛引の見本としてご紹介するのに適当な扇が見つからなくて、仕方なく ぬえが流儀で準職分に認定された際にご宗家から頂戴した扇の一部を撮影しました。『鉢木』とは全く色合いが違うけれども、これも立派な近衛引文様です。
まあ『鉢木』のシテは落ちぶれた武士ですから、しゃれた草花の文様が描かれた扇よりは地味な印象の近衛引文様が似つかわしいとは思いますが、だからといって近衛引はこのような零落した場面に専用の文様とは言いにくいのです。たとえばお狂言の和泉宗家では近衛引文様の扇が決マリ文様なのだそうで、また京舞井上流の流儀の決マリ文様は金地の扇の下半分が近衛引文様になっていますね(井上流ではお稽古の段階によって近衛引の段の数が増えてゆく、と ぬえは仄聞しましたが。。真偽についてはよく存じません。。)。
「流扇=りゅうせん」とも言いますが、ある流儀の決マリ文様ということは、その流儀に属する者の身分証に匹敵する文様なのです。なぜこの地味な文様が流儀を代表するほどの格式を持っているのか。。それは、まずは「近衛」に由来するものなのかもしれません。
(でも ぬえがここで近衛引文様について語りたいのは、もっと別の視点からなのではありますが。。)
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