来る5月14日(木)、師家の月例公演「梅若研能会・6月公演」〈於・観世能楽堂・東京渋谷/午後2時開演〉にて ぬえは能『殺生石』を勤めさせて頂きます。今回は2度目の『殺生石』ということで、「白頭」の小書をつけての上演とさせて頂くこととなりました。今回よりしばらく、この能の見どころを紹介しつつ、曲目の考察、そして稽古の状況などをも逐次お伝えできれば、と考えております。
それでは例によって、最初は上演の順序に従って能の進行を見ていきたいと存じます。
橋掛りに登場した囃子方と、切戸口より現れた地謡がそれぞれ座着くと、常の『殺生石』では、幕からまず一畳台が運び出されて大小前に据えられ、それから『殺生石』という能を象徴する巨大な「石」の作物が出されて一畳台の上に置かれます。下の写真に少し作物が写っていますが、この作物は竹組みの上に緞子を張った張り子なのですが、左右に二つに分かれるように細工がしてあります。前シテは中入でこの作物の後ろに隠れて装束を着替え、後半となって後見によってこの作物が真っ二つに割られて、後シテが突然姿を見せるのがこの曲の眼目です。世阿弥時代よりもいかにも後世に造られたスペクタクルの能で、見た目優先! という感じが、殺生石という恐ろしい題材に取材した能らしいと思います。

ところが「白頭」の小書がついた場合は、この作物は出さない(一畳台も出さない)ことになっています。
まあ常の『殺生石』をご覧になった方にとっては、この石の作物が割られる場面がお楽しみでもあるわけで、その意味では作物が出されない、ということは「??」と感じられたり、あるいはお客さまによってはガッカリされたりもする場合もあるでしょうが。。
しかし、観世流の場合に特に強く感じますが、小書がついた時にはある場面が強調されると、その分別の場面が削減される、という傾向があると思います。たとえば小書によって後シテが舞う舞が長大になると、クセの場面が省略されたり、といった場合で、これらはワンセットとして上演されるため、小書がついた場合も全体が長大化するのではなく、強調する場面を突出させて、その分別の場面をコンパクトにまとめて全体としての均衡をはかる傾向があるように思えます(もちろん例外の場合もたくさんありますが)。
『殺生石』の場合もそれが言えて、「白頭」の場合に省略されるのは場面ではなく作物。つまり演技・演出に関わる点で、それを補うためか、後シテには常の『殺生石』とは比べものにならないくらい派手な型が満載されています。逆に言えば「白頭」の小書のときに作物を出さないのは、化け物としての後シテの活躍を強調するために、お客さまの視点を作物に分散させず、シテの演技に集約させるため、あるいは後シテが思い切った演技ができるように、舞台に障害物を置かない、というように考えられたのかもしれません。
それだけ派手な演出を取り入れたのに、なぜ「白頭」なのか。。常の『殺生石』では赤い頭(かしら)を頭に被るわけですが、言うまでもなくそれを白頭に替えるということは、その登場人物が「老体」であることを表しています。これまたご存じの通り、能では老体は よぼよぼして身体が利かない、という事を表すことは稀で、むしろ「劫を経た強さ」という表現であることが多く、のっしのっしと舞台を歩む、という感じの演技になります。でも『殺生石』の「白頭」だけはちょっと感じが違うような。。こういう演技であれば、むしろ動物的な野性を表現する「黒頭」の方が似合うと思うのですが。。
まだ ぬえの稽古が足りないからそう思うだけかもしれません。。これらはまた追々考えてゆきたいと思います。
それでは例によって、最初は上演の順序に従って能の進行を見ていきたいと存じます。
橋掛りに登場した囃子方と、切戸口より現れた地謡がそれぞれ座着くと、常の『殺生石』では、幕からまず一畳台が運び出されて大小前に据えられ、それから『殺生石』という能を象徴する巨大な「石」の作物が出されて一畳台の上に置かれます。下の写真に少し作物が写っていますが、この作物は竹組みの上に緞子を張った張り子なのですが、左右に二つに分かれるように細工がしてあります。前シテは中入でこの作物の後ろに隠れて装束を着替え、後半となって後見によってこの作物が真っ二つに割られて、後シテが突然姿を見せるのがこの曲の眼目です。世阿弥時代よりもいかにも後世に造られたスペクタクルの能で、見た目優先! という感じが、殺生石という恐ろしい題材に取材した能らしいと思います。

ところが「白頭」の小書がついた場合は、この作物は出さない(一畳台も出さない)ことになっています。
まあ常の『殺生石』をご覧になった方にとっては、この石の作物が割られる場面がお楽しみでもあるわけで、その意味では作物が出されない、ということは「??」と感じられたり、あるいはお客さまによってはガッカリされたりもする場合もあるでしょうが。。
しかし、観世流の場合に特に強く感じますが、小書がついた時にはある場面が強調されると、その分別の場面が削減される、という傾向があると思います。たとえば小書によって後シテが舞う舞が長大になると、クセの場面が省略されたり、といった場合で、これらはワンセットとして上演されるため、小書がついた場合も全体が長大化するのではなく、強調する場面を突出させて、その分別の場面をコンパクトにまとめて全体としての均衡をはかる傾向があるように思えます(もちろん例外の場合もたくさんありますが)。
『殺生石』の場合もそれが言えて、「白頭」の場合に省略されるのは場面ではなく作物。つまり演技・演出に関わる点で、それを補うためか、後シテには常の『殺生石』とは比べものにならないくらい派手な型が満載されています。逆に言えば「白頭」の小書のときに作物を出さないのは、化け物としての後シテの活躍を強調するために、お客さまの視点を作物に分散させず、シテの演技に集約させるため、あるいは後シテが思い切った演技ができるように、舞台に障害物を置かない、というように考えられたのかもしれません。
それだけ派手な演出を取り入れたのに、なぜ「白頭」なのか。。常の『殺生石』では赤い頭(かしら)を頭に被るわけですが、言うまでもなくそれを白頭に替えるということは、その登場人物が「老体」であることを表しています。これまたご存じの通り、能では老体は よぼよぼして身体が利かない、という事を表すことは稀で、むしろ「劫を経た強さ」という表現であることが多く、のっしのっしと舞台を歩む、という感じの演技になります。でも『殺生石』の「白頭」だけはちょっと感じが違うような。。こういう演技であれば、むしろ動物的な野性を表現する「黒頭」の方が似合うと思うのですが。。
まだ ぬえの稽古が足りないからそう思うだけかもしれません。。これらはまた追々考えてゆきたいと思います。
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