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ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

震災10年雑感(その3)~湊小学校避難所と「チーム神戸」との出会い

2021-05-04 10:51:22 | 能楽の心と癒しプロジェクト
住民ボランティアの明友館の千葉さんのご紹介を得て ぬえはその日、湊小学校避難所でお手伝いさせて頂くことになりました。初めて避難所というところに伺うのでドキドキしましたが。。

湊小学校は石巻市の市立小学校で、いわゆる「公設」の避難所です。到着してみると校庭はどろどろにぬかるんでいました。ぬえが伺った頃にはすでに片付けられていましたが、後日 学校のプールに自動車が突っ込んでいる写真を見ることがありました。この避難所も津波の被害を受けていたのです。

そして校庭には巨大な。。サーカス小屋か? と思わせるような大きなテントが威容を現していました。詳しくはあとで触れようと思いますが、これは仮設の浴場だったのです。それから校庭に陣取る何台もの自衛隊の車両。もちろん施設の規模も違うから一概には言えないとしても、「明友館」のような私設の避難所と公設の避難所との支援体制の違いは明らかでした。



もっとも、これも後になって段々と分かってきたことですが、規模が大きく行政の支援が(比較的)整っていた公設の避難所では、それがゆえに小回りの効かないこともあったようで、たとえば200人の避難者がいて199個の物資が届けられた場合、公平の観点から物資そのものが避難者に配布されない、というようなこともあったそうです。その点、逆に私設の避難所では住民ボランティアさんが中心になって自主的に避難所を運営されていたので、そりゃ交渉は大変だったかと思いますが、避難者のニーズを取りまとめて物資を調達することがフレキシブルに行われていた印象があります。聞いたところでは、上記のような理由で大きな避難所に届けられながら避難者に配ることができず、とうとうこっそりと廃棄されそうになった支援物資を、小さな避難所のボランティアさんが駆けつけて引き取ったり。。ということもあったそうな。綱渡りのような作業が日常だったのですね。。

さて湊小学校避難所に到着した ぬえは、千葉さんにご紹介頂いて、ここで避難所を運営するボランティア団体のひとつ「チーム神戸」を訪ねました。当時、公設の避難所でも市役所が直接避難所を運営するのは職員の人数からいっても無理で、市役所とは連絡役のような方が1人程度あるだけで、実質的には民間のボランティア団体が運営を担っていました。湊小学校避難所にも「チーム神戸」のほかに「ピースボート」など大小2~3の団体が入っていたと思います。

彼らは震災直後に被災地に入った人たちで、避難所に住み込んで常駐していました。あとで知ったことですが、ピースボートのような大きな組織では各地から集まったボランティアさんが2~3カ月の交代制でここに住み込み、いわゆる「泥掻き」といわれる瓦礫の片付けなどの重作業を大人数で行っていました。また「チーム神戸」のような小さな団体では、ぬえのように各地から何か被災地の手助けをしたい、と思って駆けつけた若者がスタッフとなっていったようです。

ぬえは「チーム神戸」が設置していた「ボランティア受付」に行き、千葉さんから紹介されたことを若いスタッフさんに恐る恐る伝えました。「明友館」に先に行ったこともあり、すでに「泥掻き部隊」は出動したあとで、そのうえ恥ずかしいことに ぬえは「体力的に泥掻きは無理かもしれません。。何かそれでもお役に立てることがありますか。。?」なんて言いましたね。

その、まだ20歳台の若者は ぬえを上から下までジロジロと見て「ああ。。そうですか。。」と、ちょっと困った様子でしたが、それでも「大丈夫ですよ。それではこの避難所の中の清掃をお願いします」と言ってくれました。

忘れもしない、その後も長くお世話になる「チーム神戸」の若手スタッフの無尽洋平くんとの出会いでした。彼もまた被災地の手助けがしたくて東京から石巻に行き「チーム神戸」の一員となったボランティアさんです。そのほかに同様に京都から来た水島緑ちゃん、そしてチームリーダーで震災直後に神戸から駆けつけた金田真須美さん。「チーム神戸」とはここから長いお付き合いが始まります。
(続く)

震災10年雑感(その2)~「明友館」と千葉恵弘さんのこと

2021-05-02 00:22:50 | 能楽の心と癒しプロジェクト
「明友館」とは本来石巻市が運営する施設で、当時は「私設避難所」となっていました。私設の避難所とは、災害に備えて自治体があらかじめ指定してある公立学校や公民館などの「公設」避難所に対して、やむを得ない事情で公認がないまま設置された避難所のことです。

東日本大震災では津波に追われた多くの人々が公設の避難所にたどりつけず、とりあえず付近の安全な場所に避難した事情があり、住宅を失った人々がその後長くそこで生活し、事実上の避難所として機能することになりました。こうして自然に発生した私設の避難所は各地に数多く存在して、石巻市だけでも当時143箇所の私設避難所があったそうです。

「明友館」は石巻駅からは旧北上川の対岸にある不動町にある市民会館に隣接した建物で、背後には牧山が迫り、川を遡上した津波による被害が大きかった地区にあります。私設避難所でありながら、そこで施設の名称をそのまま用いて ぬえが石巻を訪れた当時すでに住民ボランティア団体として被災地各地の支援を広く行っておられました。支援物資の募集などの情報も盛んに発信していて、当地に知人もいない ぬえはその情報を頼りに訪問したのでした。そこでお会いした「明友館」のリーダー・千葉恵弘さんは突然の無茶な訪問者であった ぬえを諭すように、被災地の現状といま必要な活動を教えてくさいました。この当時の詳しいやりとりは当時のブログ記事で見ることができます。→

石巻市の在宅避難者支援団体『明友館』【支援希望】 - ぬえの能楽通信blog

石巻市でぬえが出会った市民団体はこちら。→石巻明友館明友館はもと市の「勤労者余暇活用センター」で、震災により被害を受けて、現在は避難所になっ...

石巻市の在宅避難者支援団体『明友館』【支援希望】 - ぬえの能楽通信blog

 


そうして千葉さんに東京から積んできた野菜を受け取って頂き、また避難所でのボランティア作業を紹介頂いて、はじめて湊小学校避難所でボランティア活動をしたのでした。

「明友館」はその後 ぬえたち能楽師有志が被災地支援団体「能楽の心と癒やしプロジェクト」を立ち上げてからも、石巻市内の避難所や仮設住宅での活動場所をご紹介頂いたり、千葉さんとは長くおつきあいをさせて頂き、ぬえたちプロジェクトの活動に大きなご協力とご支援を頂きました。

ちなみに千葉さんらの団体としての「明友館」はその後湊小学校の向かいにあるやはり市営の総合福祉会館「みなと荘」に拠点を移して、ぬえたちもそこに宿泊させて頂いたり、プロジェクトの活動で相変わらずのお世話になっておりましたが、現在は団体としての「明友館」の活動は休止して千葉さんが個人として支援活動を続けておられるようです。また施設としての「明友館」は現在はないようで、「みなと荘」は2015年に元の場所の少し南の八幡町に「湊こども園」などとの複合的な施設として新築されました。湊小学校向かいの旧「みなと荘」の建物は現在も残っていて、石巻市の社会福祉協議会が入居しているようです。

今年の3月11日に石巻に行ったときは南浜の被災地区に広大な震災メモリアルの公園。。「石巻南浜津波復興祈念公園」が整備され完成間近だったのを見て、日々に変わっていく石巻の姿を驚きをもって見ました。

石巻南浜津波復興祈念公園

震災当時、このあたりは壊れた家屋の残骸が無残な姿をさらし、何かを探す人のほかには日本各地から集まったパトカーが巡回しているのを見るだけでした。





こうした中「明友館」のように、みずからも被災しながらも自治体や自衛隊からの救援が始まるより以前に自分たちで立ち上がって被災者支援をはじめた「住民ボランティア」が数多くあったのです。
(続く)

東京新聞に「能楽の心と癒やしプロジェクト」の活動が紹介されました~震災10年雑感(その1)

2021-04-22 09:08:57 | 能楽の心と癒しプロジェクト
東日本大震災から10年を経て、この311の日にも「能楽の心と癒やしプロジェクト」として石巻で慰霊と慰問の活動をして参りましたが、震災10年のこの時期に東京新聞にプロジェクトの活動をご紹介頂きました。

こちらの記事を書いた藤浪繁雄記者は、経緯は忘れましたが以前に被災地の気仙沼の仮設住宅での活動を取材頂いたことがあり、そのときには気仙沼でおいしい海鮮丼をごちそうになりました(←そんなことだけは覚えてる)。

じつは震災10年を経て、これまでの活動や被災地で経験したことなどをこのブログでご紹介しようと計画していましたが、このコロナ禍で能楽師は生活状況が激変、それにかける時間が取れなくなってきました。
が、今回の新聞報道のための取材で10年間の思いや経験について話し、それが新聞記事として公となったのを良い機会として、改めましてこのブログでもこの10年間を振り返ってみたいと思います。

このことを語るには、そもそも ぬえがなぜ被災地支援に赴くことになったのか、からの長いお話があります。

震災の2年前になりますか、文化庁の事業による学校への派遣公演で ぬえは石巻と気仙沼を訪れていました。このときのことは鮮明に覚えておりますが、宮城県の小中学生のお行儀のよいこと! 校内ですれ違うたびに児童生徒が挨拶を欠かさず、公演を終えてバスに乗り込む際には校庭のはるか遠くから手を振って感謝してくれる。。素晴らしいことだと思いますし、ぬえの記憶にもよく残りました。それだからこそ震災でこの街が大きな被害を受けたことは ぬえにとってかなり大きなショックでありました。

たまたま。。震災の3か月後に ぬえは自分の生徒さんの発表会を予定していまして、そこまでは ぬえも指導に時間が取られておりましたが、発表会の翌日からは長く時間を取れたので、6月下旬、単独で被災地支援に赴くことにしました。

こうした理由ですから現地に誰一人として友人も知人もなく、まったくの手探りで。。当時は避難所が設置されていましたが、そこで生鮮食品が不足しているとの報道もあり、とりあえず車に野菜をたくさん積み込んで、当てもないままに出発しました。

最初の宿泊だけはネットで予約が取れた塩釜市のホテルに決めてあったのでとりあえず投宿しましたが、さてその後はどうしたものか。。ホテルでネットで支援の方法を探りましたが、「東日本大震災」で検索して1万件以上のページがヒットしてかえって途方に暮れ。。そんな馬鹿なことをしていましたね。

今でこそ石巻も気仙沼もカーナビがなくても行きつけますが、当時はまったく土地勘もなく、そうそう、この最初の活動のために初めてカーナビを買ったのでしたっけ。それも実際には道路が寸断されていたり通行止めが各所にあって、あまりカーナビも役に立たない感じではありました。

それでも塩釜から石巻までが近いことを知って、翌日はとりあえず石巻に向かうことにしました。途中、誰も知人がないため、学校公演で訪れた石巻小学校に電話をして何かお役に立てないでしょうか? と伺いましたが、「?? 。。それはどうも。。 でも、もう子どもたちも落ち着いていますので。。」とかなり怪しまれてしまいました。そりゃそうだ。

そこで石巻に到着しましたが、さて車に載せた野菜をどうするのか。。

当時は在宅被災者さんと言って、住宅が小規模の被害で済んだ方は避難所に行かず住宅で生活をしている方がありました。避難所と比べてプライバシーが保たれる利点はありましたが、反面、避難所に届けられた物資は受け取ることができず、困っているとの報道もありました。それではこの野菜を1軒ずつ訪ねて、このお宅にはどなたか住んでおられますか? 野菜はお入り用ではありませんか? と聞いてまわるのか。。??

そんなとき検索で知ったのだったかな、経緯は忘れましたが住民ボランティアさん(被災地域の住民によって立ち上げられた支援団体)である「明友館」に向かい、ようやく野菜を引き取って頂くことができました。

(続く)


東日本大震災追悼3.11のつどい 石巻(その2)

2021-03-20 13:13:26 | 能楽の心と癒しプロジェクト
震災の津波により壊滅的な打撃を受けた門脇地区でしたが、この度の「東日本大震災追悼3.11のつどい」の第二会場として使われるそうで、しかも ぬえたちプロジェクトを受け入れてくださるのは「かどのわき町内会」様とのこと。なんとあの津波から逃れた住民さんは、避難所を経てその後おそらくあちこちの仮設住宅などに散り散りになっておられたはずで、それがなんと震災から10年を経て故郷の街に再結集されたのです。

今回の3.11の日の上演は、当初有名な「がんばろう! 石巻」の大看板の前か、あるいは門脇小の前に新しくオープンした震災を伝え防災教育を行う「MEET門脇」という施設を考えて、かねて知己のある公益社団法人の「3.11みらいサポート」の伊藤聖子さんに相談したのですが、3.11の日は大勢の人が訪れてごった返すし、控室となるスペースも確保しにくい、ということで一旦はお断りに。



ところが伊藤さんはその後あちこちにご相談頂き、これを聞いた「かどのわき町内会」の皆さま、わけても本間英一さんが「東日本大震災追悼3.11のつどい」の第二会場だった門脇地区での上演を引き受けてくださり、あまつさえ控室としてご自宅に残って震災遺構ともなっている土蔵を提供頂ける事となりました。

さて発災時刻午後2時46分となり、石巻の街にはサイレンが響き渡り、みんながあの日を想って黙祷を捧げます。あれから10年。当地のみなさんも大変だっただろうと思いますが、こうして門脇地区が復活するところまで進んできたのですね。

黙祷の直後には参加されたみなさんによってバルーンリリースが一斉に行われました。そうなのです。我々プロジェクトの目的も犠牲者を悼むためというよりは、明日に向かって幸せを願うところにあります。だから初めての上演場所では必ず「羽衣」を上演しております。「七宝充満の宝を降らし。。」この曲にはお客さまに幸せを持ち帰って頂くために作られた、と ぬえは信じております。


(撮影:宮本直樹さん)

バルーンリリースのあと いよいよ能の上演です。吉田祐一さんにはいつもながら挨拶と解説をお願いしましたが、石巻の荻浜出身です、と言ったとたんに会場にざわめきが。同郷の能楽師なのか! という驚きだったようで、終演後も吉田さんは大人気で、大勢の人に話しかけられていました。

能「羽衣」の出演は笛の寺田林太郎さんと ぬえの二人で、ぬえは謡いながら舞う。。いつもそうですが、先日 プロジェクトメンバーとしてずっと活動をともにしている寺井宏明さんと話したら、「昔はクセから謡いながら舞ってましたねー」と言われました。もうそんな体力ないなあ。。


(撮影:3.11みらいサポート 伊藤聖子さん)

かどのわき町内会の皆さまを中心にお客さまも50人超。道路からはちょっと奥まった場所での上演でしたのに、これほどのコミュニティが一丸になっておられることに感慨と喜びを感じます。当地に幸せが訪れることを祈って勤めさせて頂きましたが、このところコロナ禍で舞台が激減していて、東京でまれにある舞台でも、どうも身体がなまっているのか、今ひとつ納得がいかない感情を持って終わることが多い中、この日は楽しく勤めさせて頂くことができました。砂利の上ですけどね。


(撮影:3.11みらいサポート 伊藤聖子さん)

終演後、かどのわき町内会のみなさまにより「はっと汁」。。すいとんのようなこちらの地方の名物郷土料理がふるまわれ、ようやく片付けも終わる頃 ぬえほかメンバーも頂戴したのですが。。これが!!

衝撃的に美味しかったのです。これなら東京でも売れるんじゃないかな~!!
ぬえは3杯もおかわりしてしまいました。100人分作りましたから、と言われましたが。その寸胴ごと東京に持って帰りたい!

そういえば、東北各地では「芋煮会」が盛んに行われますね。里いもを入れた鍋を野外でみんなで囲んで食べる。。里いも、いいなあ。秋にやる名物行事らしいですが。

そうか、次回の活動は秋か。。(違)

こうして今回も大勢の関係者のご協力を頂きミッションコンプリートさせて頂きました。
10年間、合計9回の311の日の上演をついに果たし、我々の活動も、訪問は54回を数え、個別の催しの数は150回を越え、そのうち装束能も今回で127回目になりました。

また翌日には「かほく新報」紙にてカラー写真入りで報道頂きました。



改めましてみなさまのご協力に感謝申し上げます。


(撮影:3.11みらいサポート伊藤聖子さん)

「はっと汁」もっと食べたい。。

東日本大震災追悼3.11のつどい 石巻(その1)

2021-03-20 02:30:26 | 能楽の心と癒しプロジェクト
少し旧聞になってしまいますが、去る3月11日、10年目となる震災の日に宮城県・石巻市で行われた「東日本大震災追悼3.11のつどい」という追悼集会に参加させて頂き、能「羽衣」を勤めさせて頂きました。

「能楽の心と癒やしプロジェクト」としての活動も、もう年に1~2回ほどになってしまいましたが、3月11日だけはどうしても現地で能を披露させて頂きたい、と願っております。そうして、よく考えればイベントはやりにくい日ではありますが、幸せなことに毎年どこかの追悼集会に快くゲスト出演させて頂くことができ、とうとうこれまで1度も欠かさず3.11の日には被災地に能をお届けさせて頂いております。

ましてや今年はコロナ禍の真っ最中。。思えば去年の3.11も同じ石巻の鹿島御児神社さまで奉納上演をさせて頂きましたが、あの頃はウイルス感染が広まっているらしい、程度の認識だったと思います。当時の写真を見ると、マスクをしている人の方が少ない感じですね。ところがその日を境に事態は大変なことに。東京に戻ったところ舞台が次々に中止され、教室も閉鎖に追い込まれ。。

この日も東京の緊急事態宣言が延長されたことで東北に向かうことは かなり悩んだのですが、やはり10年間見守り続けてきた東北の被災地の今を見たいという思いには勝てず。。 出発までの生活で感染予防に気を使って東北に向かいました。

半年ぶりの石巻。。は、またしてもずいぶん変わっていました。北上川には新しい橋が3本も架かり、川の中州である中瀬地区に架かり津波にも耐えた内海橋は取り壊される最中でした。新しい橋を渡って対岸。。震災の年に何度も宿泊して活動拠点とした避難所時代の湊小学校がある方面に行ってみると、震災後に建てられてずいぶんお世話になったこの地区唯一のコンビニは郵便局に変わっていました。



それから津波で壊滅した南浜・門脇地区には人工の小川が通り、あの「がんばろう!石巻」の大看板を含んで広大な震災記念公園が完成間近でした。





そしてその中には石巻市の犠牲者の名前を刻んだプレートが並ぶ慰霊碑が作られていました。



こちら、犠牲者に手を合わせる宝生流ワキ方の吉田祐一氏。吉田さんはなんと石巻市出身で、ご実家は郊外の漁村。今回の津波でご両親は無事でしたがご実家は跡形もなく全壊したそうです。



ぬえが吉田さんのそんなご事情を知ったのは3年前の地方公演で親しくお話させて頂いたからで、吉田さんも ぬえたちの被災地での活動をご存じなく、快くご協力を引き受けてくださり、以来3年間、毎年プロジェクトの3.11の日の活動に無償でご出演頂いております。

さて今回会場となったのは門脇地区。前述のように津波で壊滅した場所で、全焼した門脇小学校で有名になりました。



震災3か月目から当地を見ていた ぬえにとっては、とても生存者がいるとは思えない状態でしたが。。

ところが今回の上演場所というのがまさに津波が猛威を振るった現場。。まさに門脇小学校のすぐそばだったのですが、そこにはすでに公営災害住宅も、住宅もいくつも建ち並んでいました。

通常被災地区は居住禁止エリアの指定を受けるものですが、ここ門脇地区は土地のかさ上げをし、また背後にすぐ日和山が迫っていて避難路が整備されたからか、居住が認められたのですね。ぬえにとっても被災地区のまさにその現場に立って舞うのはかなりレアな体験です。

(表紙画像は宮本直樹様撮影)

久しぶりの石巻

2020-09-04 18:49:41 | 能楽の心と癒しプロジェクト
思えば今年の3月11日。。9回目の「震災の日」にここ石巻の日和山に鎮座する鹿島御児神社さまで奉納させて頂いたのがコロナ禍が本格的になる前の最後の舞台でした。

それから半年。。東京では相変わらず新規感染者が見つかり、公演もおっかなびっくり試み始められた段階で、まだまだ予断を許さない状況です。



そんな中、何度も東北の被災地でお世話になっています「花とアートで再生復興プロジェクト委員会」さんが明日9月5日に石巻総合体育館で催すイベント「3,.11 アートファンタジア2020 石巻」に参加させて頂くこととなり、先乗りで石巻に到着しました!

これまた久しぶりに新幹線を利用して石巻に来たので、夕方からですけれども市内を少し散策してみました。本当はヒマなので昼に仙台に到着して、水族館か天文台に行こうと思ったんだけど、東京に負けない暑さの中、キャリーバッグを引きずって歩くことができず石巻に直行することに。。





あれあれ、復興住宅も増えたり街の様相も変わってきましたが、内海橋のお隣。。以前に交番があったあたりに建設されていた橋は、とうとう来週に開通式ですって!



看板には「内海橋開通」と書いてありますが、橋の名前は公募しているらしい。今になって聞いたのですが、以前の「内海橋」。。「石ノ森萬画館」がある中瀬地区の島に掛けられていた橋は内海さんという方が私財をなげうって架けられたものだそう。震災にも耐えて旧北上川の両岸の住民を渡した橋ですが、いずれ取り壊されて、「石ノ森萬画館」へは別の橋が架けられるのだとも聞きました。

こうして石巻は橋だらけの街になろうとしていますが、これというのも震災の教訓で、災害時の逃げ場を確保する狙いがあるのだそうです。





こちらはずっと以前にお正月に奉納させて頂いたこともある、川岸に建つ住吉神社ですが、すっかり立派な社殿に替わっていました!

これ、なんと境内をそのまま4mかさ上げすることになって、古い社殿を解体したところ、移築するには以前の部材は半分くらいしか利用できないことがわかり、国の補助で改築(ほとんど新築)されたのだそうです。宗教施設ではありますが、ここはそのまま防潮堤の意味もあり、公共の役割もあるので国の補助が認められた由。





ちょっと徒歩ではしんどい湊地区には足を運べませんでしたが、いろいろお世話になった方にご挨拶もすることができました。

明日は少し気温が下がるという予報らしいです。が、会場が体育館なので。。ううん、あったかそう。。

仮設住宅について

2020-05-18 13:44:13 | 能楽の心と癒しプロジェクト
ぬえたちプロジェクトの東日本大震災の被災地での活動は、能楽師有志によって能の上演をする」ことで癒やしをお届けすることにあります。それなので特別な装備や物資は必要なく、それでご厚志により頂いた募金を節約して使わせて頂くことで今日まで活動を続けてくることができました。

思えば9年間も募金だけで(最近は現地で頂いた謝礼もありますが)活動を続けて来られたのは、我ながら驚くべきことでしょう。たしか震災の翌年には他のボランティア団体から「いまだに募金で活動しているのはあなたたちだけでしょう」と驚かれた記憶が。。

活動に奉仕する能楽師有志はボランティア参加なのですべて無報酬なのは当たり前として、どうしても必要になるのが現地までの往復の交通費と宿泊費です。

交通費については当初は被災地での活動計画を示して行政から「災害派遣等従事車両証明書」というものを発行して頂くことで高速道路の料金が無料になりましたが、この制度は1年しないうちに廃止になりました。続いて高速道路の管理会社が夜間に走行すれば通行料金が半額になる、という割引制度を打ち出したのでこれを利用し、能楽師は深夜0時に集合して夜通し東北道を北上して明け方に被災地に到着、そのまま避難所や仮設住宅で活動する、なんてことをしていました。なんか、若かったなあ。。とも思う昨今。9年前ですもんね。その後この割引制度も廃止されてしまいました。

宿泊は。。ぬえたちは恵まれていたと思います。震災の年の当初は避難所となっている小学校の教室に寝袋を持ち込んで雑魚寝したり、ボランティア団体さんの事務所に泊めて頂いたり。当時は寝袋持参が当たり前でしたが、無料で泊めて頂けることが多かったのです。もっとも現地で知り合った個人ボランティアさんの中には半年間テントで寝泊まりしている、というすごい方もありましたが。その後現地の住民さんと知り合うにつれ、個人のお宅に泊めて頂いたことも。

震災から1年くらいが経過した頃から、避難所も閉鎖になり、住民さんの生活も落ち着いてきて、あいかわらずボランティア団体さんの事務所に泊めて頂くこともありましたが、段々と現地の旅館やビジネスホテルに泊まることも増えてきました。このときに頂いた募金を節約して使わせて頂くために、宿泊費はひとり1泊5千円程度まで、食費は個人負担、というルールを設けました。時々「朝食つき4,800円」なんていう旅館を発見して喜んだり。

それでも少しでも支出を節約するために、活動が決まると現地の関係者さんに無料の宿泊の心当たりがないかお願いはしてみます。そうした中、何度か仮設住宅に泊めて頂ける機会がありました。

仮設住宅は学校などの避難所が本来の役割を取り戻すために閉鎖されたあと、自治体によって建設される本格的な公営住宅ができるまでの間に被災者に一時的に提供される、文字通り「仮設の住宅」です。このため正式な名称として「応急仮設住宅」または「応急仮設団地」と入口に記されているのを多く見かけました。仮設住宅の家賃は基本的に無料ですが光熱費は自己負担、というのが一般的な形だと思います。被災者はここを足掛かりとして自立を目指すのですが、高齢などの理由で自立が不可能な場合には、その後建設されて安価な家賃に設定された「公営災害住宅」に移り住むことになり、現在では ほとんどの仮設住宅は撤去されました。

仮設住宅や公営災害住宅にもいろいろと問題はあるのですが、とりあえずそれは措いておいて。。 今回は報道などで読者のみなさんも聞く機会が多かったと思われる仮設住宅をご紹介したいと思います。

じつは、これまで仮設住宅のご紹介を控えていたのは、自治体にもよるのでしょうが、基本的にそこに部外者が宿泊することはできない決まりになっているからです。仮設住宅が自治体からの「貸与品」だからでしょう。が、これまで何回か、そこに住む住民さんのお宅に「同居する」という名目で泊めて頂いたことがあります。今はもう仮設住宅もほとんど撤去されたので、何かのご参考になればと思い、ご紹介させて頂くこととしました。



仮設住宅はご覧のようなプレハブの長屋形式の共同住宅ですが、自治体による違い、というか建設した業者の違いなのか、場所によってかなり異なった感じでした。



こちらは女川町の町営野球場に建設された仮設住宅です。たしか何かの賞を受けたはずですが、美しくて立派ですが、じつはこれは輸送用のコンテナを再利用したものです。

中心には交流スペースや仮設店舗の営業などが行われた大きなテントがあります。音楽家の坂本龍一さんの支援によって建てられたもので、「坂本龍一マルシェ」と呼ばれていました。これらの仮設住宅やマルシェも昨年に撤去されたそうです。





さてぬえたちが泊めて頂いた一般的なプレハブの仮設住宅内部はこんな感じ。場所は内緒にしておきます。入居される住民さんの家族の人数により部屋数の違いがあるそうですが、ここではふた間とキッチン、トイレ、バスルームがついていました。家電などの生活必需品も支給された物だと思います。













そして必需品といえば防災ラジオが必ず備え付けられていました。



仮設住宅といえば隣家の物音が筒抜けに聞こえるとか、結露がひどい、などとよく言われていますが、ある人が教えてくれたことによれば、もともと居心地が悪く作られているのだそうです。つまり住民さんに「こんな所から早く出たい」という気持ちを起こさせて自立を促すのだとか。。

とはいえ、いろいろな事情により自立できない方も多いわけで。。公営災害住宅の建設が遅れたこともあり、震災から9年を経た現在も、仮設住宅は完全に解消されたわけではありません。もともと仮設住宅というものは災害救助法の規定により2年間しか供用しないことになっていて、事情による特例措置として1年間の延長が認められることがあります。過去に阪神淡路大震災では5年まで延長された例がありますが、東日本大震災ではそれを遥かに超えた長期間の延長が繰り返されたのですね。ちなみに宮城県では昨年6月に10年目の「特定延長」が国から認められました。

能楽の心と癒しプロジェクト 第43~52次被災地支援活動 収支報告書 (2017年05月03日~2020年03月11日)

2020-05-15 17:17:13 | 能楽の心と癒しプロジェクト


能楽の心と癒しプロジェクト
第43~52次被災地支援活動 収支報告書
(2017年05月03日~2020年03月11日)


 〔決算報告〕

◎第43次(2017.05.03横山不動尊春まつり)

 【収入の部】
     前回活動繰越金       129,421円
     横山不動尊様より         20,000円       収入計  149,421円

 【支出の部】
  〈活動費〉 23,410円
    ◎交通費        23,410円
     (高速バス             8,830円)
     (新幹線              7,200円)
     (新幹線              7,380円)     支出計   49,714円

 【収支差引残額】                        残額    126,011円

◎第44次(2017.08.11 「3.11アートファンタジア能楽と花アート」石巻小学校)

 【収入の部】
     前回活動繰越金       126,011円
                                 収入計  126,011円

 【支出の部】
  〈活動費〉 10,000円
    ◎交通費        10,000円
     (ガソリン代            5,000円)
     (ガソリン代            2,000円)
     (ガソリン代            3,000円)     支出計   10,000円
 【収支差引残額】                        残額    116,011円

◎第45次(2017.10.21 「悟道の里山開所式前祭」)

 【収入の部】
     前回活動繰越金       116,011円
     寄付金(栗林祐輔氏より)     10,000円       収入計  126,011円

 【支出の部】
 ※主催者実施公演のため支出なし

 【収支差引残額】                        残額    126,011円

◎第46次(2018.01.28~29 気仙沼市浪板コミュニティセンター・歌津老人福祉センター)

 【収入の部】
     前回活動繰越金       126,011円
                                 収入計  126,011円

 【支出の部】
  〈活動費〉 6,804円
    ◎交通費        6,804円
     (ガソリン代            6,804円)     支出計    6,804円

 【収支差引残額】                        残額    119,207円
◎第47次(2018.03.11 名取市・閖上日和山)

 【収入の部】
     前回活動繰越金       119,207円
                                 収入計  119,207円

 【支出の部】
  〈活動費〉 5,980円
    ◎宿泊費        5,980円
     (宿泊費             5,980円)      支出計    5,980円

 【収支差引残額】                        残額    113,227円

◎第48次(2017.08.11~13 大槌町安渡公民館・気仙沼市羽田神社・石巻市洞源院・第二和香園)

 【収入の部】
     前回活動繰越金       113,227円
     寄付金(洞源院様より       20,000円)
     寄付金(第二和香園様より      5,000円)
                                 収入計  138,227円

 【支出の部】
  〈活動費〉 42,893円
    ◎交通費        31,553円
     (高速代              2,940円)
     (高速代              1,370円)
     (ガソリン代            7,300円)
     (ガソリン代            5,000円)
     (ガソリン代            8,000円)
     (ガソリン代            5,183円)
     (駐車代               840円)
     (駐車代               920円)
    ◎宿泊費        11,340円
     (宿泊費              11,340円)     支出計   42,893円

 【収支差引残額】                        残額    95,334円

◎第49次(2018.11.01 石巻たから保育園・せんだいメディアテーク)

 【収入の部】
     前回活動繰越金       95,334円
     寄付金(石巻ひがし保育園様ほか  50,000円)
     寄付金(佐久間智子様より     10,000円)      収入計  155,334円

 【支出の部】
  〈活動費〉 1,800円
    ◎交通費        1,800円
     (駐車代               800円)
     (駐車代              1,000円)     支出計    1,800円

 【収支差引残額】                        残額    153,534円

◎第50次(2019.03.11 閖上湊神社・閖上中央集会所・石巻鹿島御児神社)

 【収入の部】
     前回活動繰越金       153,534円
     寄付金(鹿島御児神社様より)   10,000円
                                 収入計  163,534円

 【支出の部】
  〈活動費〉 7,562円
    ◎交通費        4,000円
     (ガソリン代            4,010円)
    ◎会場費        1,500円
     (集会所使用料           1,500円)
    ◎雑費         2,062円
     (出演者弁当代           2,062円)     支出計    7,562円

 【収支差引残額】                        残額    155,972円

◎第51次(2020.03.11 鹿島御児神社)

 【収入の部】
     前回活動繰越金       155,972円
     寄付金(鹿島御児神社様より    10,000円)
     寄付金(佐藤栄一様より       5,000円)
                                 収入計  170,972円

 【支出の部】
  〈活動費〉 83,300円
    ◎交通費        64,562円
     (高速代              7,640円)
     (高速代              15,400円)
     (高速代              8,070円)
     (ガソリン代            6,460円)
     (ガソリン代            3,632円)
     (ガソリン代            1,900円)
     (ガソリン代            7,440円)
     (ガソリン代            3,000円)
     (ガソリン代            4,223円)
     (ガソリン代            6,797円)
    ◎宿泊費        15,840円
     (宿泊費              15,840円)
    ◎雑費         2,898円
     (出演者弁当代           2,650円)
     (ガムテープ             248円)     支出計   83,300円

 【収支差引残額】                        残額    87,672円



・プロジェクトの活動にかかる支出については節約を旨とし、おおよそ次のような基準を設けている。①高速道路の利用については体力や公演スケジュールも鑑みるが、休日・深夜割引を利用するなど工夫する。②宿泊は旅館等の宿泊施設を利用する場合はおおよそ1人1泊5,000円程度までに収める。③食費については旅行がなくても掛かる費用であること、酒食の区別がつきにくいため、宿泊プランに朝食が組み込まれている場合、楽屋弁当を除いて参加者の自費負担とする。
・収支差額は今後の活動費用として活用し、支出明細を明らかにする。
・プロジェクトでは従来活動資金を募金に頼っていたが、近来は一般からの募金は皆無で、その代わりに上演したことにより住民さんなどから出演者へ謝礼を頂く機会が増えた。その場合は合議によりその一部、または全部を活動資金に編入している。

 【募金振込先】三菱東京UFJ銀行 練馬光が丘支店(店番622)普通預金 口座番号 0056264
名義 ノウガクプロジエクト ハツタタツヤ

  令和2年5月12日              「能楽の心と癒しプロジェクト」
                               代表   八田 達弥
                             (住所)
                             (電話番号)
                                    E-mail: QYJ13065@nifty.com
【領収証添付欄】



















※ただ今緊急事態宣言のため自宅へ戻れず、スキャナーが手元にないため領収証は携帯画像にて失礼します。
 帰宅したら領収書欄をスキャンした画像と入れ替えます。

閖上での活動と石巻311奉納

2020-05-11 18:38:22 | 能楽の心と癒しプロジェクト
引き続きまして遅ればせのご報告です。。

■2019年

去年の3月11日の震災の日の奉納は、前日10日に名取市の閖上地区での神社への奉納と、新築なった公民館でのワークショップ上演から始まりました。

閖上での活動は2015年の旧閖上中学校(撤去済み)と、2018年3月11日の日和山での奉納に引き続き3回目になります。その2度目の活動のとき偶然現地で出会った新宮夕海さんのご紹介でこちらでの活動が実現しました。

新宮さんは能楽写真家なのですが、この日が初対面でした。新宮さんは閖上と岩手県の大槌町との支援活動を続けておられるそうで、ぬえは新宮さん自身もその活動もこの日に初めてそれを知りましたが、一方新宮さんも我々の活動をご存じなかったようです。狭い能楽界ですが、ご縁がないと知らないこともあるんですね~。しかし新宮さんはその後積極的に ぬえらプロジェクトの活動をサポートくださり、その年の夏には新宮さんのコーディネートで大槌町での初めての活動が実現しましたし、この3月11日の閖上での活動もすべて新宮さんにご尽力頂いて実現したものです。(この記事の画像はすべて新宮さんに撮影・提供いただいた物です)

この日の閖上でまず行ったのは閖上湊神社での奉納舞囃子「高砂」でした。海の近くにあった閖上地区は震災でかなりひどい被害を受けたのですが、やや内陸に近い区域のかさ上げした地域に8年かけて街を再建したばかりで、ようやく自治会が発足したところで、湊神社も移転されてここに鎮座しました。こういうことを「高台移転」と表現しますが、当地の方々によればそうではなく「現地再建」と言ってほしいとのこと。なるほど、何度も閖上を訪れている ぬえが見ても復興工事のために行くたびに街並みから道路も何もかも変わってはいますが、新しく築かれた閖上の住宅街はかつてのその場所と ほんの少ししか移動していません。「高台移転」と「現地再建」。同じく再建ではありながら、現地の住民さんにとっては故郷を捨てたのではなく踏みとどまったのだ、という自負があり、この2つの言葉は大きな違いです。



さて湊神社ですが、ご神体が鎮座するのは。。「祠」というべき小さなものでした。しかし、それに不釣り合いな(失礼。。)ほどの大きな鳥居と神輿蔵に圧倒されます。

事情を伺ってさらにびっくり。なんとこの鳥居は伊勢神宮から寄贈されたものだそうです(!)。数年前の伊勢神宮の式年遷宮のとき取り替えられた旧鳥居が贈られたとのことで、それではもう10年以上前、ぬえが「道成寺」を披くときに参拝した、そのときの鳥居との再会なのですね。。

また巨大な神輿蔵も、内部をのぞき見ると、なるほどこれほどの蔵がなければ収蔵できない大きなお神輿が。これも寄贈されたものだそうです。神社の再建はまだ途上で、これから本殿や社務所の造営が計画されています。





神前での舞囃子は砂利の上で難しかったですが、ぬえたちは奉納のときは遠方への旅行で荷物になっても必ず着用する裃で「高砂」を奉納させて頂きました。

午後からは新築の公民館での上演+ワークショップです。準備を整えて海辺の物産商店街「メイプル館」で海鮮丼の昼食。



自治会が発足してその活動拠点となる公民館も新築なったばかりで、とても明るい建物でした。ここでは能「羽衣」を上演してから恒例の住民さんの体験教室を行いました。









終了後、閖上地区の震災のメモリアル施設「閖上の記憶」に立ち寄りました。以前は違う場所にありましたが、メイプル館の奥まった場所に移転していました。撮影することはとてもできなかったけれど、児童が作った紙粘土細工による。。彼らが目撃した津波の様子の再現に心打たれました。伺えば心理学の専門家の指導で、子どもたちには津波の被害だけでなく、震災前の街並みや、また彼らが思い描く未来の故郷の模型も同時に作らせているそうで、そうして心のケアを図っておられるそうです。



こうして閖上での活動を終え、新宮さんとここにてお別れし、ぬえたちは石巻に向かいました。

翌日の3.11は大雨。。
石巻の日和山の鹿島御児神社さまでの奉納は社務所内で行うこととなりました。
このときから8年前、震災の年の夏にプロジェクトは鹿島御児神社さまで奉納させて頂きたい旨お願いしたことがありますが、この時はとても受け入れができる状況ではない、とお断りされてしまいました。

それから月日は流れ、あるとき ぬえはなぜか思い立って鹿島御児神社さまにふたたび奉納のお願いをしたところ、神社さまもかつて奉納をお断りされた事をずっと気にしておられた、とのことで、この度の奉納を快諾頂きました。

加えてこの前年にワキ方宝生流の吉田祐一氏と親しく話す機会があって、なんと氏が石巻の荻浦のご出身で、震災当時荻浦のご両親は避難されて無事だったながら、ご実家は津波により全壊の被害を受けられたことを知りました。氏も我々プロジェクトが震災以来ずっと石巻をはじめ被災した各地で活動していることをご存じなく、ぜひ協力したいと仰って頂いて、この日の鹿島御児神社さまでの奉納ではじめてプロジェクトの活動に参加されたのでした。

さらにはこれまで何度となくプロジェクトの活動に参加くださっている太鼓の大川典良氏もこの日の奉納から参加。前日の閖上での活動では笛の寺井宏明さんと二人きりだったのが、3.11奉納では一気に能楽師4人が参加して賑やかになりました。。のに大雨。

そんなわけで翌年になる今年(2020年)の3.11は鹿島御児神社さまにお願いして再度の奉納を、同じメンバーで行いました。今回は快晴!

石巻・洞源院さまにて奉納・仙台シンポジウムへの出演

2020-05-06 12:27:08 | 能楽の心と癒しプロジェクト
遅ればせながらまだご紹介を漏らしていた過去のプロジェクトの活動をご報告させて頂きます。

■2018年

一昨年(2018年)の夏のお盆のころ、大槌町と気仙沼での活動のあと、ご縁あって石巻市の洞源院さまで奉納させて頂く機会がありました。

洞源院さまは石巻市の中心部からは少し離れた、牡鹿半島の付け根部分、伊達政宗によって派遣された支倉常長らの慶長遣欧使節を記念したサン・ファン館のすぐ上の山の上に位置する曹洞宗のお寺です。



震災のときには近隣の住民さんおよそ400名が避難し、臨時の避難所となりました。小野崎秀通住職さまと奥様の美紀さんは避難者と協力し合って役割分担をし、その年の夏に避難所を解散するまでをみなさんが団結して乗り切ったのだそうです。

特筆されるのは奥様の美紀さんが避難者を勇気づけたり、ときにはたしなめたりされたお言葉、それから避難所生活の中で生まれた詩が、それぞれ本となって出版され、美紀さんご本人が朗読したCDも誕生したことです。奉納のあとご住職から本とCDを頂いた ぬえは帰途の車中でCDを聞いたのですが、本当に大変な状況だったのだな、と心に響きました。

ご本人の承諾を頂きました(2年前に…)ので、上梓された美紀さんの詩集「あったかい手」の一部をご紹介させて頂きます。

夕食の時

暗がりから差し出される両手

今まで会ったことのない人の、汚れた手
今まで会ったことのない人の「傷だらけの手」
ローソクの明かりが 照らしている

「………」

「いいんですよ。
がれきをかき分け、来られるなら
明日もお寺に 来てください
食事は九時と四時ですよ」

「………」

差し出された片方の手は
流れる涙を拭ってた

これがご縁で同じ年の秋ににはお寺が経営される幼稚園「たから保育園」ほかの園児たちをお相手に楽しいワークショップも行わせて頂き、このときは能「鶴亀」をモチーフにしたお遊戯のような出し物を作りまして、保育園の先生に にわかにお稽古をつけてシテの皇帝役を勤めて頂き、大勢の子どもたちは鶴さんと亀さんの役を即興で舞い遊ぶというものでした。楽しかった~。

洞源院さまでのお盆の法要に合わせた奉納の様子は画像がありませんので、宣伝チラシのみご報告させて頂きます。



11月1日には仙台の「せんだいメディアテーク」のロビーで開かれた「3・11の向こう側 仙台シンポジウム」の中で能「羽衣」を上演させて頂きました。

こちらは2017年に「石巻小学校」で行われた「能楽と花アート」の主催者である「花とアートで再生復興プロジェクト委員会」さまの主催によるもので、竹村真一さん、C.W.ニコルさんら豪華な顔ぶれの登壇者が討議する催しに ぬえたちが花を添えた形です。



主催者のリーダーである佐久間智子さんは敏腕の才女で、この後も本年の1月になんと松島の国宝・瑞巌寺で大規模なお茶会を催され、ぬえも仕舞で出演させて頂きました。



この時はいろいろアクシデントがあって、ビジュアル面でお客様を楽しませる役割は ぬえ一人だけになってしまったのですが、前日夜のミーティングからようやく参加した ぬえの意見やスタッフさんの要望にも佐久間さんは耳を傾けるし、当日も桜井松島町長、熊谷利府町長さまなどの重要な参加者や、芸術面での後援を得たイタリアのアーティスト団体「ピストレット財団」など重要な関係者の接待もありながら終始落ち着いて仕事をこなしていたお姿が印象的で、今後も被災地支援活動でご協力させて頂くつもりでおります。

今回は上演の画像がなくて申し訳ありません。。

野蒜の「Kibotcha」

2020-04-30 08:57:54 | 能楽の心と癒しプロジェクト
去る3月11日の石巻・鹿島御児神社さまでの奉納の前日、ぬえはNHK-FMの「FM能楽堂」の収録がありまして、それから東北道を走って宮城県に入ったのはすでに午後10時近くでした。

笛の寺井さんと寺田さんも同じく前泊ということで、宿の予約を早めにしておいたのですが、それが今日ご紹介する「Kibotcha(キボッチャ)」です。

場所は石巻ではなく、そのお隣りの東松島市・野蒜(のびる)なのですが、宿泊予約サイトで野蒜に宿があると知った ぬえはびっくり。この辺りは9年前の東日本大震災の津波で壊滅的な被害を受けた場所で、東松島市民によれば「あのへんは全滅だな。。」という言葉も聞いたことがある地区なのです。このあたりには「貞山堀(ていざんぼり)」という運河があって、ここを海から遡った津波によって、その周囲に集まって建てられていた住宅や野蒜駅が全壊している様子は ぬえも震災3か月目に目にしております。

貞山堀は仙台空港の南、岩沼市の阿武隈川の河口から、途中仙台港と山が迫る松島で中断はしますが、海岸線に沿って延々と50km近い長さで石巻まで続く運河で、正確には南部の貞山運河と中部の東名運河、それに北部の北上運河という、建設時期も異なる3つの運河の総称として使われています。東日本大震災では海からの津波が川を遡上して内陸に被害を及ぼしましたが、とくに石巻ではかなり内陸にまで運河が入り込んでいまして、ここから溢れ出した海水が周辺に浸水被害を起こしていました。野蒜の辺りでは海岸からと運河からの海水は浸水ではなくもろに津波となって集落を襲ったもののようです。

さてそんな場所にある「Kibotcha」は旧野蒜小学校の校舎を改装したもので、宿泊施設もありますが主な目的は防災を学ぶ場で、しかも対象は子どもたちなのだそうです。遊びや様々な体験を通して防災の意識や避難の方法などを教える「防災キャンプ」などのイベントもあるそう。ちなみに野蒜小学校は津波の被害を受け、その後ほかの小学校と統合される形で消滅しました。「Kibotcha」の入口の受付では1階の天井すれすれのところに浸水した水の跡が今でも残されています。野蒜駅も海から離れた場所に再建されましたが、どうも周辺はあまり賑やかではなさそうでした。。

宿には夜遅くに到着したものであまり画像は撮れませんでしたが、こちらが宿泊した1~2名用のお部屋。





。。ん~、教室を細かく分けて部屋にしたためなのか、不思議な造作。あまりくつろげる感じではありませんでした。広い部屋もあるようですが、防災キャンプなどに使うことを考えるとドミトリーかも。しかし1階にあった大浴場は、よくまあ学校施設をここまで作り変えたねえ、と思うほどの広さがありました!

なお当日の宿泊客はプロジェクトの3名のみ。どうやら3月初旬でありながらすでに新型コロナウイルス問題で新規の宿泊予約を断っていたようで、すでに予約を済ませていた ぬえたちだけがキャンセルされずに宿泊できたようです。

震災によって被災した建物を再利用した例はいくつもありますが、「Kibotcha」は ちょっと他とは変わった面白い、また有益な取り組みだと思います。通常の宿泊客のためにも、東松島の名所? を走り回って、そこに隠されたアイテムを集めると、ごほうびに大量のカキがプレゼントされるイベントなどもあるみたい。翌日の石巻での奉納を前にしながら心動いた ぬえでしたが、残念ながら現在はこのイベントも休止しているみたいです。残念。



こちらは付近の野蒜海岸。かつては海水浴場として人気があったそうですが、まだ防潮堤の工事も始まっておらず、土嚢が並べられてありました。。

9回目の3.11 石巻・鹿島御児神社さまで奉納上演

2020-04-27 15:30:03 | 能楽の心と癒しプロジェクト
史上初の「緊急事態宣言」が出され、外出自粛要請・マスクやアルコール消毒液の不足。。と、いまは大変な状況が続いています。能楽師も舞台も教室もすべてが停止してしまって苦んでおります。。

そんな中、時間だけは持て余すほどありますので、ずっとサボっていた報告を順次アップしていこうと思います。

一番最近の特筆すべき活動としては、去る3月11日。。9回目となった東日本大震災の日(これ、うまい言い方はありませんかね。災害だから「記念日」ではどうも具合が悪いし。。)に、石巻の日和山の頂に鎮座する鹿島御児神社さまで奉納上演を致しました。

考えてみれば3月11日という日は犠牲者の追悼をする日であって、イベントはしにくい日なのですが、能がもつ鎮魂と慰霊、そして未来へ向けた祝福の心が現地で理解され、我々「能楽の心と癒やしプロジェクト」は震災の翌年、つまり一周忌から今日まで1度も欠かすことなく3月11日の、それも発災の時刻の午後2時46分に奉納上演を行わせて頂いております。

今回の奉納上演の会場となった鹿島御児神社さまは、じつは昨年の3月11日に続いて2回目の奉納となります。というのも去年の奉納は大雨に祟られて、社務所の中で奉納をしなければならなかったのです。

この石巻の日和山は、すぐ直下の崖下が震災のときに大きな被害を受けた門脇・南浜地区で、そこを見下ろす位置にあることから石巻の。。というより東日本大震災の一種の象徴となった場所です。山の上に建つ石の鳥居から門脇地区や海を見下ろすこの構図はどなたも一度はテレビやネットでご覧になった事があるのではないかと思います。


(撮影:佐藤栄一氏)

とくに去年はワキ方下掛宝生流の吉田祐一氏がはじめて活動に参加してくれましたのに、この象徴的な大鳥居の前で奉納できなかったのはとても残念でした。吉田氏はそのまた前年に偶然にお話していた中で ご出身が石巻市の小さな漁村である荻浜で、ご実家は震災による津波で全壊、と伺ってびっくり。吉田氏もプロジェクトの活動をご存じなくて驚かれたようで、それでは、と翌年の石巻・鹿島御児神社さまでの奉納に参加してくださったのでした。

鹿島御児神社さまも、プロジェクトは震災の年に奉納をお願いしてみましたが、当時はとても受け入れられる状態ではない、とお断りされた経緯があります。じつは今年の奉納のあとに奥様から詳しくお話を伺いましたが、神社は近在の被災者が押し寄せて臨時の避難所のような状態だったそうです。それから月日は流れ、久しぶりに奉納のお願いを申し上げたところ、なんと神社さまも「震災の年に奉納をお断りしたことは今でも気になっていました」とのお気持ちだったそうで、すんなりと奉納のお話が決まりました。

これほどの偶然が重なっただけに昨年の奉納の荒天は本当に残念で、今年も再度の奉納をお願いして神社さまも快くご承諾くださいました。ちょうど神社さまも去年の春は拝殿の改装が成ったところでしたが、その後本殿の新築も整い、プロジェクトの奉納は追悼や慰霊のためだけでなく、当地を守る神が新たなお住まいに鎮座されることを祝い、当地の繁栄と祝福を祈願する絶好の機会となりました。もともとプロジェクトの活動は震災の犠牲者への追悼だけではなく、むしろ残された方々の心を癒やす事に重点が置かれています。だからこそ「能楽の心と癒やしプロジェクト」という名なのですし、活動場所も被災地区というよりは避難所、仮設住宅などで、生活を再建しようとする住民さまに向けての活動です。

さて今年の3月11日は晴天に恵まれました! 早めに楽屋入りしましたが、奉納会場の設営やご祈祷を受けている間にいつの間にか発災時間まであと30分。。なぜいつも最後はバタバタになるんだろう。吉田氏と寺井氏に装束を着付けて頂き、なんとか奉納の時刻に間に合うことができました。

今回奉納した曲は「龍田」です。秋の曲のように思えますが能の設定は冬。シテの龍田姫は奈良盆地をはさんで向かい合う佐保山の佐保姫と対をなして平城宮を守る女神です。風の神でもあり水をも司る女神が住む龍田山は、さらにイザナギ・イザナミが天の浮橋から差し下ろして海の中から淡路島を誕生させた、天の沼矛を安置していて、女神はその矛を守護する役割もあります。


(撮影:寺井宏明氏)

いわば龍田姫は自然を象徴し、国土の創生をも司る女神で、冬から春に向かう石巻が未来に向けて再生してゆくにはふさわしいと考え、今回はこの曲を選んだのでした。

奉納のメンバーは ぬえのほか、ご挨拶と解説を吉田祐一氏にお願いし、笛は少々体調が思わしくなかった寺井氏に代わってそのお弟子さんにの寺田林太郎氏、そして太鼓の大川典良氏です。吉田氏お流儀内でのお立場やこういう略式の上演方法で奉納することなど種々条件が整わず、能の中のお役ではなく挨拶と解説をお願いしましたが、同じ石巻出身者として市民に語りかける口調はすばらしいものでした。また大川氏は本来この3月11日には舞台の予定があって当初はお断りだったのですが、新型コロナウィルス問題によって公演が中止となり、急遽参加してくださいました。


(寺井宏明氏)

まだ現在(4月下旬)のような「緊急事態宣言」になる前で、宮城県ではまだ感染者も出ていない頃の奉納でしたが、参拝客のみなさんには吉田さんからお隣の人との間隔を取って頂くよう感染予防を呼び掛けての奉納になりました。今となってはこの頃はまだ感染対策にも余裕がありましたね。今や能楽師はなにも仕事がない状態が3か月目に突入しようとしていますが。。



ともあれ、この日は発災時刻が近づくにつれ、境内も多くの参拝者がお集まりになりました。故人を思っておうちで静かに過ごされる方、お弔いのためお寺に集う方も多いであろう中で、こうして被災地区を見渡せる場所で手を合わせる方もあります。震災のときに鳴らされたサイレンに合わせて1分間の黙祷が捧げられ、その後に石巻の未来に幸多かれと祈念しつつ能「龍田」を奉納させて頂きました。

気仙沼・羽田神社奉納

2018-09-04 01:45:45 | 能楽の心と癒しプロジェクト
8月12日の日曜日、気仙沼の羽田神社(はたじんじゃ)で奉納上演させて頂きました。
この朝、何度もプロジェクトの活動に参加くださっている太鼓の大川典良さんも到着。



大川さんはその前日には横浜で催しがあり、それが終わってから東北に駆けつける、とのことでしたが、なんせこちらの奉納の開始が午前10時。。
深夜に車で走って来る、とのことでしたので、がんばって気仙沼の宿舎(個人宅)まで来れば。。とお勧めはしたのですが、結局多賀城に深夜に宿泊することになったそうでした。
え。。多賀城から気仙沼までは車で2時間の距離。。
朝の奉納のためには、また多賀城から早朝に出発しなければなりません。
それでもこの日、無事に気仙沼に到着されました。相変わらずのバイタリティ。

さて羽田神社は気仙沼では有名な神社だそうで、それというのも「お山がけ」という神事が国の重要無形民俗文化財に指定されているからです。
「お山がけ」は数え七歳の男児が神社の裏にある羽田山に登って奥院に参拝し、無事の成長を祈願する行事で、全行程は2時間ほどのようですが、さすがに小児のことですから登山には同伴者が必要。しかし両親の同伴は我が子への情けを断ち切るためか禁止で、通常は祖父や叔父さんがつきそうのだそうです。

子どもさんは登山がつらくて泣いたりしないのですか? と総代さんに ぬえは聞いてみたのですが、子どもはつらいようだが途中棄権の例はないです、むしろ同伴のお爺さんが先に音を上げたりしますね(笑)とのこと。

まあ、こういう神事は似た例もありそうなものですが、こちらの神社の「お山がけ」は広く気仙沼全域。。それこそ町村合併以前の唐桑地区や本吉地区からの参加者もあるそうです。さらにはお祭りの際の御輿の渡御も、羽田地区だけではなく気仙沼の広い範囲を廻るそうで、この神社がいかに崇敬されていたのかが分かります。前日に泊めて頂いた ゆかぽん家でもこの「お山がけ」に参加したことがあるそう。

さて羽田神社の拝殿・本殿は急勾配の階段の上に鎮座しています。が、現在では参拝者もこの急段を登るのは難儀とのことで、我々プロジェクトの奉納場所も拝殿ではなくふもとの社務所となりました。ぬえもがんばって装束を階段で運び、拝殿で着付けて奉納するつもりだったのですが。。社務所で良かった。。もとい、残念でしたw

羽田神社は気仙沼の水梨地区あたり、だとは神社の住所を見て見当はつけていたのですが、実際はかなり山奥、といったところで、それでも奉納上演にはかなりの参詣者が集まってくださいました。






(↑撮影:小野寺由美子さん)

能「羽衣」の奉納のあとには いつものように能楽体験会も。



終演後。。と言っていいのか、楽屋に割り振られた社務所の一角に飾られた「吊し雛」の紐がもつれていたのは能楽師3人ともが到着早々気になっていたところで。。

ぬえもこれが気になって、もつれた紐をほどこうとしていたのですが、途中で断念。

が、ほどなく別の能楽師。。太鼓の大川さんがこれに挑戦して、まさしく没頭状態にww





神社さまからは わざわざ昼食のご用意を頂いたのですが、もうこなると大川さんは食卓にお招きしても「はい。。すぐ行きます。。」と生返事をしながら、まばたきもせずに吊し雛との格闘を止めようとしません。

あーこう細かいところが気になるの、「能楽師あるある」かもしれないです。

結局紐はほどけませんで、大川さんは「次に当地に来るときは必ず」と、宿命を背負わされて(誰に?)、次の活動場所である石巻に移動したのでした。ははは。


大槌町から気仙沼へ

2018-08-27 08:26:08 | 能楽の心と癒しプロジェクト
ちょっと時間が経ってしまいまいましたが、その後の報告です。
 
初めての大槌町での活動は町内・安渡(あんど)地区の公民館で行われました。
新しく、モダンな公民館でしたが、じつは安渡地区はもともと海に近い場所にあって、震災時も被害が大きかったようで、公民館も津波の被害を受け、この建物も震災後に再建されたものだそうです。
 
上演曲は「羽衣」で、初めて活動する場所では必ずこの曲を上演することにしております。
終演後は恒例の体験会も行い、楽しい催しとなりました。











(撮影:新宮夕海氏)
 
終了後に宮城県・気仙沼市に移動。
 
今回は旧知の住民さんの「ゆかぽん」家に泊めて頂きました。
高台に建つ住居の裏には広い旧家があって、ここに泊めて頂いたのですが、震災当時はこの家が臨時の避難所になり、その状態が長期化するにつれて「みなし仮設」(賃貸アパートなど自治体が建設する仮設住宅ではないが、被災者が生活する場所として認定された施設)となっていたとのこと。
 
気仙沼での活動は久しぶりですが、なんとこの日、ゆかぽんが呼び掛けてくれて、これまでにプロジェクトの活動に支援頂いたみなさんが集まってくださり、お庭でバーベキュー大会になりました!
 
仙台でお勤めしている ゆかぽんの長女と、盛岡で大学生活を送る長男もお盆で帰省して、なんとも賑やかなパーティーになりました。二人ともプロジェクトの能楽体験に参加したことがありますが、当時はたしか小中学生。。もうあれから7年も経ったのだもんね。
 
。。が、話題はやはりいつの間にか震災のことに。
分けてもこの夜、集まった方のうちのお一人から、震災関連死についての重い重い体験談を伺う事になりました。
 
詳しくここに内容を書くことはできませんが、震災の犠牲になった両親の跡を追ってしまった少年の話。。あまりにも重く、悲しい。生き残った命を「死なせてしまうのは もう見たくない」と、この話者さんは締めくくりました。
 
。。
 
じつは ぬえは震災の体験談というものを ほとんど聞いた事がありません。
実際に被災地の瓦礫や倒壊した建物を見には行くんだけれど、その惨状を見て決意を新たにして避難所や仮設住宅に向かいます。
しかしプロジェクトの活動は被災した住民さんに楽しんで頂くことを目的としているので、そこで被災体験を伺うことはありません。宿泊したときなど、住民さんと膝をつめてふれ合う場面で断片的な体験談を伺うことが何度かありましたが。。
 
それだけに、この夜に聞いた少年の死の話はショッキングでもあり、7年経っても 当事者にしかわからない重い心の傷を、この街は抱え続けているのを実感しました。
 
震災の記憶の風化がかつて言われ、今はそれさえ話題に上らなくなった昨今ですが、伝えてゆくべき事もまた、あるのだと思います。

風の電話

2018-08-15 10:18:33 | 能楽の心と癒しプロジェクト
怒濤の被災地支援活動をすでに終え、東京に帰る途中です。
今回もいろんなものを見、聞きして、内容の濃い活動となりました。
かいつまんで、にはなりますが、ご報告申し上げようと思います。
 
8月10日、大槌町の町役場で笛の寺井宏明さんと、能楽写真家で 今回の大槌町での活動をコーディネートしてくれた新宮夕海さんと現地集合で落ち合い、実際に大槌町での活動を受け入れ、各方面との調整や準備に奔走してくださった佐々木慶一町議さんや、その佐々木さんを紹介頂いた藤原勝志ともお会いして、翌日の上演内容や段取りの打合せをさせて頂きました。
 
が。。この集合時刻にまだ余裕があった ぬえは、集合の前に もう3度目になった 大槌町にある「風の電話」に行ってきました。ぬえにとっても亡くなった大切な人に会う貴重な場所。。
 
ところが、「風の電話」のすぐ下には。。1年前に ぬえ自身も着工をこの目で見た三陸自動車道が完成していました。
開通はまだのようでしたが、もうすぐここをビュンビュンと車が疾走するのですね。。


 
もういくばくもなく、亡き人と語り合う静かな時間は失われてしまうのでしょう。
そうして、建設された三陸道は土盛りされて、もう「風の電話」から大槌湾の海は見えなくなってしまっていました。。
 
もうひとつ、大槌町には有名なものがありまして、それが「ひょっこりひょうたん島」です。
 

 
大槌湾に浮かぶ小島で、正しくは「蓬莱島」、もしくは弁財天を祀っているので地元では「弁天島」とも呼び習わしているのだそうです。
 
昔のテレビの人形劇番組に出てくる小島のモデルになった、とも言われていて、この名前でも有名なのですが、実際にはこの島が人形劇のモデルなのかは不明で、台本を書いた井上ひさしさんが東北の出身で、代表作の小説『吉里吉里人』との関係が思われる「吉里吉里」という地名が大槌町にあることからの連想なのかもしれない、とのこと。
 
そんな「ひょっこりひょうたん島」ですが、じつは ぬえはもう何回かこの大槌町を訪れているのに なぜか一度も目にしたことがありません。
 
それがこの度は場所を教えていただき、そのうえなんとこの島は堤防で陸続きになっている、という情報まで得て、それならば、と島に行ってみることにしました。
 
藤原さんの案内でついにたどり着いた島は。。あれ? 以前に写真で見たのと少し印象が違うような。。
 

 

  
じつはこの島は震災の時に津波が超えて行ったそうで、そのときに灯台も弁財天を祀る祠も壊れてしまったそうで、それらは震災後に再建されたのだそうです。
灯台の形が以前と変わったのか、津波によって島が削られて形が変わったのか。。