「ウォーキング三昧」in 滋賀

「ウォーキング三昧」は2013年3月以来発信して来ましたが2019年5月1日、「スローライフ滋賀」に移行しました。

南房総 ひとり富山(とみさん)伏姫ハイキング(10/4)

2014年10月05日 06時00分00秒 | 南房総ウォーク

↑富山(とみさん)の山並み
南総里見八犬伝」の始まりとなった富山(とみさん)はJR内房線岩井駅から歩くことが一般的だ。
富山(とみさん)は、房総丘陵の山の一つで2つの峰からなる双耳峰。標高は北峰(金毘羅峰)が349.5m、南峰(観音峰)342.0m。展望台からは東京湾を一望でき、天気がよければ雄大な富士山が姿を見せることもあるとかであったが今回は曇り日と木々で全く見えず。
私は山登り、ハイキングはやっていないので300数十mの山でも登りは苦手だ。
今回(10月4日(土)は福満寺から登り、伏姫籠穴に降りてくるコースで歩いたが福満寺を出て直ぐ登りが待っていた。1-2合目で既に心臓がぱくぱく!5合目から7合目は更にきつい登り。
途中3回休憩。今回持参した「SHINANO」の携帯用ハイキングポールが大いに役だった。
山頂がどこか分かりにくかったが南峰と北峰の両方に登り、伏姫籠穴方面に下山した。
途中、何組かのハイカーに出会ったが殆ど一人。2時間のお手軽ハイキングであった。
次回は隣の「伊予ヶ岳」に登って見たいと思っている。


↑さあ、とみさんのハイキングコースへ

↑今回は福満寺からとみさんへ登ります

↑早速、急な登坂のコースが待っていた

↑やっと1合目、既に心臓ぱくぱく。小休止。

↑二合目

↑急な階段の登ります

↑四合目

↑途中で休憩。SHINONOのポールが強い味方だった

↑五合目

↑七合目

↑八合目

↑九合目

↑とみさん南峰付近

↑とみさん南峰の朽ちた観音堂

↑とみさん北峰方面へ

↑皇太子も登ったとみさん記念の愛の鐘

↑里見八犬士終焉の地碑

↑とみさんの見取り図


↑伏姫籠穴方面に下山


↑下山途中

↑伏姫籠穴(8/25のブログで紹介済みで今回省略)

↑今回のコース地図

100名城めぐり(20城目登城) 滋賀・近江4名城(観音寺城)

2014年10月04日 06時00分00秒 | 日本100名城

↑観音寺城跡
9月19日(金)、小谷城、彦根城、安土城に続いて4城目の観音寺趾を訪れた。
観音寺城は私の実家からそう遠くないところにあり近くには何度も行っているがが城跡は見たことがなかった。

観音寺城は西国32番札所「観音正寺」の傍にあったのだが戦国時代(主に安土桃山時代)前に東近江を統治した佐々木氏、六角氏の居城である。
近江源氏の佐々木氏、後に近江守護六角氏の居城で、小脇館、金剛寺城を経て六角氏の本拠となる
標高432.9メートル、南北に伸びる繖(きぬがさ)山の山上に築かれる。南腹の斜面に曲輪を展開、家臣や国人領主の屋敷を配した。総石垣で、安土城以前の中世城郭においては特異な点とされる。天文年間には城下町・石寺も置かれ、楽市が行われていた。周辺は琵琶湖や大中の湖、美濃から京都へ至る東山道、長光寺集落から伊勢へ抜ける八風街道があり、それらを管制できる要衝に位置する。(Wikipediaより)

西国32番札所巡りでは多くが「観音正寺」を訪れるが観音寺城は歴史からも、城があったことも忘れ去られている。地元の人も観音正寺のことを語っても観音寺城のことを語る人は殆どいない。今回、佐々木城趾の道が分かったので次回帰ってきた時にでも探してみよう。但し、道なき道で迷いそうであるが。。。。
只、この観音寺城が100名城の1つとしての考理由は恐らく「歴史上の重要性」であろうが史跡の整備保存や案内、地元のバックアップなどが極めて薄い。折角、全国から名城ファンが訪れるであろうが失望を与えるのではないかと残念である。


↑西国32番札所「観音正寺」の大仏様の脇見を下って行く

↑今は観音正寺となっているが明らかに城壁を右に下って行く

↑途中階段があった(当時もあったのだろうか)

↑本城があった広場

↑観音正寺途中に佐々木城の看板があった

100名城めぐり(19城目登城) 滋賀・近江4名城(安土城)

2014年10月03日 06時00分00秒 | 日本100名城

↑安土城趾登り口
9月19日(金)、3城目として安土城趾を訪れた。
滋賀・近江生まれの私は度々訪れているところであるが久しぶりだった。
只、今回の最後に観音寺城を訪れることと、時間がなかったので天守があった山頂へは登らなかった。
安土城は現存せず、城趾のみである。
戦国史に敢然と輝く恩田信長が建築した当時壮観な城だった。しかし、本能寺の変にて明智勢により消失し短期間しか存在しなかった幻の城に近い。私が子供の頃、再建の話もあったが実現せず、未だに城趾のみであり残念だ。しかし、城趾で想うだけでも夢を膨らませることができる。
資料館では模型であるが当時の城をみることができる。

戦国史に興味のある方は滋賀・近江は歴史の宝庫だ。織田信長(安土城)、木下藤吉郎(長浜城)、石田三成(佐和山城)、明智光秀(坂本城)、浅井長政(小谷城)、蒲生氏郷(近江日野城)、佐々木六角(観音寺城)、京極高次(近江大津城)など、名だたる武将が戦国の時代を駆け抜けている。



↑安土城趾入口

↑安土城天守閣模型(模型だけ1億円したと言う)

↑安土城天守閣内部模型

100名城めぐり(18城目登城) 滋賀・近江4名城(彦根城)

2014年10月02日 06時00分00秒 | 日本100名城

↑井伊直弼の居城、国宝彦根城

9月19日(金)、千葉の友人と共に小谷城趾から移動して登城した。
久しぶりの彦根城だったが平日にも係わらず観光客が多くいた。彦根城は幕末の大老「井伊直弼」の居城として有名で有り、現存する城の1つとして国宝となっている。

彦根城は江戸時代初期、現在の滋賀県彦根市金亀町にある彦根山に、鎮西を担う井伊氏の拠点として置かれた平山城(標高50m)である。山は「金亀山(こんきやま)」との異名を持つため、城は金亀城(こんきじょう)ともいう。多くの大老を輩出した譜代大名である井伊氏14代の居城であった。(Wikipediaより)

丁度この時期、中井貴一主演の「柘榴坂の仇討ち」映画の公開日前日で、奇しくも、井伊直弼、桜田門の変にまつわる物語で、21日私も見て感慨深かった。
今回は9/19の午後、彦根城をあとにし、安土城に向かった。


↑正面の橋を渡れば登り口

↑この上の橋を越える

↑更に門を潜って

↑ひこにゃんが待つ天守閣の広場


↑立派な天守閣

↑裏からみる彦根城の石垣

↑お堀

↑井伊直弼の生家

↑お庭


100名城めぐり(17城目登城) 滋賀・近江4名城(小谷城)

2014年10月01日 06時00分00秒 | 日本100名城

↑今はなき小谷城の本丸があったところ

9月19日(金)、千葉のウオーキング仲間一人を米原駅に出迎え、滋賀にある100名城の4つ(小谷城、彦根城、安土城、観音寺城)の順に廻ることにした。
小谷城は戦国物語には必ずと言って良いほど登場し、数年前のNHK大河ドラマ「江(ごう)姫」で脚光を浴びたが滋賀県の北部にある雪深いところに位置する。
もう40年以上前、仕事でこの辺りには何度も来ていたが当時は今以上にひなびたところであった。しかし、全く面影・記憶がない。
小谷城(おだにじょう)は、滋賀県長浜市湖北町伊部(旧・近江国浅井郡)にあった戦国時代の日本の城(山城)。標高約495m小谷山(伊部山)から南の尾根筋に築かれ、浅井長政とお市の方との悲劇の舞台として語られることが多い。戦国大名浅井氏の居城であり、堅固な山城として知られたが、元亀・天正の騒乱の中で4年間織田信長に攻められ落城した。その後、北近江の拠点は木下藤吉郎の長浜城に移され廃城となった。
今回は片道1時間の山頂は止め、二の丸まで400m歩いた。また、浅井長政の自決は本丸かと思っていたが部下の館だったらしい。その場所に今回初めて訪れた。
小谷は、織田信長の妹「市」の悲話と「三姉妹」は余りにも有名であるが、昔は山奥の奥深いところで生まれたのだと思うと感慨深い。


↑小谷城の案内板(山頂まで片道1時間ほど登る必要になる)

↑小谷城への番所跡


↑小谷城本丸後


↑長政の部下、赤尾家の跡


↑浅井長政自決跡