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「ウォーキング三昧」in 滋賀

「ウォーキング三昧」は2013年3月以来発信して来ましたが2019年5月1日、「スローライフ滋賀」に移行しました。

南房総戦争遺跡 海軍特攻機「桜花」のカタパルト式滑走路跡散策

2014年02月12日 06時00分00秒 | 戦争遺跡

海軍特攻機「桜花」の下滝田基地カタパルト式コンクリート滑走路跡

海軍特攻機「桜花」の下滝田基地跡が南房総市(旧三好村)にあったことは知っていたがまだ探索したことがなかったので雪が散る寒い2月11日(火)の午前に旧三好村下滝田に向かった。
旧三好村は館山市の東に隣接する近いとこであるが低い山があり気温が低く、先週降った雪がまだ残っていた。
南房総市の旧三好村と旧富山町には海軍が本土決戦用に開発した特攻機「桜花」の秘密基地が上滝田、下滝館山、吉沢、平群の4ヶ所に建設予定だったと言われている。
特攻機桜花を離陸させるため火薬ロケット噴射による台車が高速で上を移動することにより短距離で射出するカタパルトを開発した。これらの基地は完成間近であったが桜花の実戦機は使われる前に終戦を迎えたそうだ。

旧三好村の下滝田地区を訪ねたが山間地で全く見当がつかず、村人に聞いたが詳しい場所が特定できなかった。諦めかけて偶然声を掛け尋ねた老人が親切にもその場所を教えてくれた。
「カタパルト式コンクリート滑走路跡」は山間部の民家の畑の中にあり大きな道からは全く見えない。コンクリート滑走路は全長50m位、幅2m弱で西の山側から東方面の谷側に向かっている。滑走路は両側に切り込みがある形状をしている。素人だから理由は分からないが想像を逞しくするとカタパルトのレール敷設や枕木を取り付け易く、また必要な時取り外しを容易にでもするためだろうか。
60年以上前は正に山の中であっただろうが敵に見つからない山中から短距離敵を迎撃する秘密基地、秘密の特攻機桜花の開発だったのだろう。滑走路があったが何処かに特攻機を格納する場所があったに違いないが今回はその探索は見送った。

更に、下滝田基地のカタパルトに用いられた「レール」が同じ南房総市下滝田地区にある「知恩院」の軒下に今も置かれているので訪ねた。鉄道用のレールとは異なるやや広めの「U字鋼」の形状をしている。高速で発射させるためU字鋼の中にローラーが走ったのではないだろうか。こんな山間部からだこそ特攻機の秘密基地の建設ができたのだろうが房総半島南部全体が事実上、海軍の要塞と化していたに違いない。

下の写真は原画より画素数を落としています。

↑旧三好村の下滝田地区平山バス停前の小道を山側に上って行く
   
↑西側の道を山側に向かって300m位歩く(小さな写真をクリックすれば大きくなります)

↑畑の中にコンクリートの塊がみえる

↑下滝田基地カタパルト式コンクリート滑走路跡

↑下滝田基地カタパルト式コンクリート滑走路跡(全長50m位)

↑下滝田基地カタパルト式コンクリート滑走路の先端部分

↑下滝田基地カタパルト式コンクリート滑走路のアップ

↑下南房総市の知恩院にある滝田基地のカタパルトに用いられた「レール」
 
↑知恩院の軒下に今もあるカタパルトに用いられたレール(小さな写真をクリックすれば大きくなります)

館山戦争遺跡 城山発電所跡散策

2014年02月11日 06時00分00秒 | 戦争遺跡

↑城山発電所跡(現、館山城がる城山公園の裏にある)

現在の館山城がある館山市の城山公園の山上には「城山砲台(城山高角砲台)」があった。その砲台の「城山発電所跡」が館山小学校に近い城山公園裏の側面岩に3個の壕が残っていると知り、2月9日(日)に訪れた。
城山発電所跡は現在は民家の中にありは物置変わりに使われている。壕の中には入らなかったが3つの壕は中でつながっているようで結構奥深く掘られている感じだった。
砲台があった山頂には「弾薬庫跡」らしきものが今も残っている。


↑民家の中で城山の裏にある城山発電所跡
   
↑物置に利用されている(クリックすれば大きくなります)

館山戦争遺跡 館山海軍砲術学校跡散策(2)

2014年02月10日 06時00分00秒 | 戦争遺跡

↑レンガ作りの館山海軍砲術学校の炊事場
館山海軍砲術学校」跡を求めて再前日に南房総の館山にも雪が降ったが2月2日(日)に続いて、2月9日(日)に雪が残る中、館山海軍砲術学校があった南房中学校に向かった。
今回の目的は館山海軍砲術学校の「化学兵器実験場」跡を探すことであった。
館山海軍砲術学校には「化学兵器科」があり、特殊部隊が近くの平砂浦で実地訓練していたと言われている。
あったと思われる辺りの地区の人に聞いたが知る人はなく辺りを歩き回ってみたが今日は見つけられなかった。もしかすれば最近できた太陽光発電パネルが設置されている所かも知れないとかの話も飛び出てきた。
この辺りは平砂浦に向かった広大な畑と多くのビニールハウスがあったがコンクリートの道が連なっており館山砲術学校の軍用道路だったことを想起させられる。
詳しい住所は不明だが館山市藤原であることは確かなようだ。今もその建物が残っているか定かでないが今回見つけられなかったので再度トライしてみたい。もしかすれば太陽光発電の場所になっているところかも知れないが。。。いずれにしても時間と共に戦争遺跡は消えゆく運命にある。

尚、今回化学兵器実験場は見つけられなかったが新たな発見もある。

1.館山海軍砲術学校の「平和記念塔」近くにあるブロックの建物は「「炊事場」跡だったことだ。インターネットでボイラー室と記載されていたものがあったが今回近隣の住民の方からその建物は炊事場であったことが判った。外観と内側を見てもボイラー室には見えず炊事場の方が似つかわしい。
2.館山海軍砲術学校の「平和記念塔」の建立リーダーの方は最近亡くなられたとのことだ。90歳近くの方だったそうで昔を知る人は減って行く。毎年6月1日に館山海上自衛隊の参加して式典があったがこれかれはどうなるか判らないとのこと。
3.館山海軍砲術学校の「裏門」が見つかった。正門より100mくらい北側で、現、南房中学校敷地内に2つの門柱が今も残っている。
4.旧館山海軍砲術学校内の小山の岩肌に掘った防空壕の跡。
5.戦車が格納されていた大形の戦車壕跡(現在は埋められていて中が見えない)

以下の写真は原画より画素数を落としています。

↑館山海軍砲術学校裏門の門柱
 
↑現在の南房中学校の敷地内にある

↑館山海軍砲術学校敷地内の川に掛かる頑丈な橋

↑小山の側面にある防空壕の跡
   
↑防空壕の跡(クリックすれば大きくなります)

↑館山海軍砲術学校の化学兵器実験場を探して広い畑。。。。。しかし、見つからなかった

↑館山海軍砲術学校近くの小山にある戦車壕

↑大きな戦車用の防空壕

館山戦争遺跡 館山海軍砲術学校跡散策

2014年02月03日 06時00分00秒 | 戦争遺跡

↑館山海軍砲術学校「平和記念塔」

以前ウォーキング途中立ち寄ったことがある「館山海軍砲術学校」跡を求めて再度、2月2日(日)雨の中、南房中学に向かった。
近くに平和記念塔があるとのことだったが見つからず、旧館山海軍砲術学校の正門前のお宅の方に尋ねてみた。親切にも当時の説明や資料写真を見せて頂いた。
館山海軍砲術学校は平砂浦まで続く広大規模であったようだ。残念ながら当時の面影を残すものは極めて少ない。
館山海軍砲術学校平和記念塔」は平成になって建立されたもので畑の中に佇んでいる。国道410号線から離れ、表示もないので訪れる人もなさそうだ。また平和記念塔から近いところに当時の「炊事場」の外側だけが残っている。見ただけではレンガ作りの建物はそれが何だったのか想像できない。
(注)インターネットでボイラー室と記載されているものがあったが現地の方に聞いた結果、「炊事場」であることが分かった。
当時、館山海軍砲術学校は「鬼の館砲」呼ばれるほど評判だったそうだ。終戦前に開設され結局4-5年程度しか存在しなかったが学生は大学や技術専門学校など技術系の生徒が1万人以上いたと言う。今風で言えば技術系将校育成機関だったのだろう。
南房総は海軍の館山航空隊、洲崎航空隊そして館山砲術学校の町であったのだ。故に、館山は海軍の軍都と言われるが正にそのものだったのだろう。

以下の写真は原画より画素数を落としています。

↑旧館山海軍砲術学校正門近くにある表示板(南房中学校前)

↑当時を表す写真(正門前を行進兵、正門正面のお宅の方に撮らせて頂いたもの)

↑正門前の現在

↑正門に頑丈なかかる橋

↑畑の中にある平和記念塔(民家と隣り合わせで目立ちにくい)

↑平和記念塔

↑平和記念塔の基部

↑小型の大砲と砲弾


↑建物の外側だけが残るレンガ作りの炊事場

↑逆方向から望む館山海軍砲術学校正門方面(この道は戦車が通っていたそうだ)

館山戦争遺跡 「海軍宮城浄水場」と「海軍補給工場格納壕跡」

2014年01月14日 06時00分00秒 | 戦争遺跡

↑海軍「宮城(みやぎ)浄水場」の海軍石柱

1月12日(日)、久しぶりに館山に残る数ある旧海軍の遺跡でまだ訪れたことがない遺跡を求め館山の山中を散策した。
今回は館山の山間部にあったと言われる軍関係の施設である。
赤山地下壕のあるところの細い道を深く山間部に入ったところに海軍「宮城(みやぎ)浄水場」と「海軍補給工場格納壕跡」があった。
山奥の「海軍宮城浄水場」の施設は今も鮮やかに当時のまま残っていた。自然のままの浄水の貯水池には鳥などが多く生息している。施設の外の道に埋もれかけていた海軍の石柱を偶然見つけた。よく見ると「海軍用」が見えるがその下は埋まって見えない。ここは確かに海軍宮城浄水場跡である。ここで浄水された水は館山海軍航空基地や洲崎海軍航空基地に供給されたのであろう。
次に、海軍宮城浄水場跡からの帰路、「海軍補給工場格納壕跡」を見つけた。ここは道路から山の道に徒歩で入らないと分からないところにあった。よくよく山を見ると細い道なのにコンクリート舗装されていた。山の小道に舗装、もしやと思い山の方に入ってみると案の定壕があった。更に探してみると3つも壕があったのだ。これは「海軍補給工場格納壕跡」に間違いない。これらの海軍補給工場格納壕跡は物置に使われている。
館山海軍航空基地や洲崎海軍航空基地の裏山に当たるこの辺りは正に要塞化された山中そのもので山中の道や壕の中は何処かで機能的につながっているような気がする。
更に欲をかいて3つ目に「燃料タンク縦穴跡」を探してみた。この辺りと言われている場所周辺を探し、近所の人に尋ねてみたが結局見つけられなかった。
戦後60余年、戦前は徐々に風化し、一帯は住宅化や開発され歴史的場所が消えて行く。館山や南房総の戦争遺跡は残さない限り早晩消えて行くだろう。
次回は「128高地抵抗拠点跡」辺りを散策してみよう。

以下の写真は原画より画素数を落としています。

↑館山市の宮城地区から茂名へ抜ける奥の山中にある溜池(海軍宮城浄水場のまだ奥)(小さな写真をクリックすれば大きくなります)

↑海軍宮城浄水場の正面

↑海軍宮城浄水場用の貯水池(今の自然が残され鳥などが生息していそう自然の宝庫)

↑浄化プールらしき施設

↑海軍宮城浄水場の建物

↑海軍宮城浄水場の建物

↑今も残る海軍宮城浄水場の建物

↑海軍宮城浄水場跡を下り、途中、山の方へ歩いて行くと海軍補給工場格納壕跡があった

↑海軍補給工場格納壕跡

↑更に奥に進む

↑2つ目の海軍補給工場格納壕跡

↑3つ目の海軍補給工場格納壕跡

南房総戦争遺跡 洲崎第2砲台跡散策(館山・坂田)

2013年11月18日 06時00分00秒 | 戦争遺跡

↑洲崎第2砲台跡(館山・坂田)

洲崎第2砲台跡館山市坂田地区の山中の雑木林の中にあった。
洲崎第2砲台は昭和2年に30センチ榴弾砲4門が完成したが昭和13年、満州軍に出したので一端砲座は破棄されたが本土決戦のため再開され、12センチ速射カノン砲2門と10センチカノン砲4門があったという。
場所は坂田(ばんだ)のバス停を洲崎方面近くに2本の門柱があるところ。この中には土砂の採取場がありダンプが頻繁に出入りしている。この門柱は当時のものである。
砲台跡は門柱を入り右側の細い道に入って行く。但し、行き止まりになるので車では行かないこと。
場所が分からなかったので近くの畑仕事をしていた女性に尋ね、詳しく教えて貰った。
直ぐ先の右側に大きなコンクリート塊基部の家がある。これが弾薬庫跡であるが現在の民家はその塊を基部として利用され建てられている。
雑木林を先に進むと右側の雑木林の中に「洲崎第2砲台跡」が眠っていた。洲崎第1砲台跡が東京湾が一望できる山頂にあったが洲崎第2砲台跡は山中に近いところにあった。
砲台の先の雑木林は木々で通りにくかったが先に弾薬庫と思われるコンクリートの建物、トンネルが残っていた。特にトンネルの中はレンガは張ってあって60年以上前のものとは思えない。
これらは雑木林の中に密かに存在しており訪れる人はない。


↑坂田(ばんだ)のバス停を洲崎方面近くに2本の門柱


↑洲崎弾薬庫跡

↑雑木林になっている


↑雑木林の右側に洲崎第2砲台跡





↑弾薬庫らしき建物

南房総戦争遺跡 洲崎第1砲台跡散策(館山市西岬)

2013年11月17日 06時00分00秒 | 戦争遺跡

↑洲崎第1砲台跡(2013年11月16日)
11月16日(土)、洲崎第1砲台跡(館山市加賀名)を訪れた。
洲崎第1砲台は1928(昭和3)年起工、1932(昭和7)年完成で、巡洋艦生駒の主砲45口径30センチカノン砲2門砲塔1基が設置されていたという。
洲崎第1砲台跡は11月6日(水)のブログに少し触れている。11月4日(月)に一度その辺りを訪れ探して見たが見つけられなかった。
今回2回目のチャレンジとして事前にインターネットで情報を得て訪れたが実は前回その場所に辿り着いていたのだが見つけられなかったのだ。
しかし、今回参考とした情報は2002年時点のもので10年以上経っている。
洲崎第1砲台跡のエリアは「ポピーランド」と言う分譲リゾート地の中にあって現在は個人所有地となっている。よって宅地開発、住居建設によって当時の「洲崎第1砲台跡」の原型は消えつつある。現在は個人所有地であり勝手に周囲の敷地をうろつき廻るのことはよろしくない。

砲台跡は西岬小学校裏の小山にあり、「ポピーランド」の入口からL地区に向かって登って行くことになる。ポピーランドの「L地区」にあることは分かったが今回も場所的には間違っていなかったものの具体的な跡が見つけられない。たまたま東京から自分のリゾート宅に来ていた所有者に砲台跡の場所を尋ねてみた。有り難いことにこの方は親切に教えてくれた。プリントアウトした2002年当時の写真を見せたが今は変わっているという。しかし、砲台跡は残っており、幸運にも今日は所有者が来ているので断って写真を撮らせてくれるよう頼めば良いと教えて貰った。
高台に上り家の所有者に断って写真を撮らせて貰った。
比較的大きな円形が当時の洲崎第1砲台跡は一部円形が崩れていたが十分想像させてくれる。砲台の地下構図物はまだ残っていたが2002年時点にはあったと思われる通風口は造成によって無くなっていた。ここだけではないが歴史物として保存しなければ何れは形はなくなるだろう。今日撮った写真は2013年11月時点の貴重な写真になるかも知れない。

↓↑ポピーランド」の入口と詳細案内板


↓西岬小学校裏山(ポーピーランド内)の高台にある洲崎第1砲台跡


↑結構大きな砲台跡


↑一部壊れかけている砲台跡

↑高台から望む館山湾(東京湾)

↑砲台のコンクリート地下構造物は今も残っている

↑どうやら通風口だったみたいが今は小屋になっていて見れない



↑砲台の裏下の坂の雑木林の中にある砲台地下入口


戦争遺跡 第1特攻戦隊「震洋」基地跡散策(館山市波左間)

2013年11月06日 06時00分00秒 | 戦争遺跡

↑館山市波左間港近くにある魚雷「震洋」の滑り台
館山にある戦争遺跡の1つである「第1特攻戦隊「震洋」基地跡」を訪ねた。
戦史によると第18突撃隊は1945(昭和20)年、一人乗り人間魚雷「震洋」58隻を主力とする第59震洋隊に志願兵176名の若者が配備された。
館山市波左間海岸の特攻基地建設には300名の兵士が送り込まれ、震洋の格納壕、住居、燃料、食糧などが地下壕に突貫工事で掘られ、航空機から発見されないように小さな民家に紛れて配置されていた。
波左間港の近くの海岸にはコンクリート製の滑り台(発進用スロープ)や係留施設が波間に見えていた。今回訪れた時は水面が高かったが戦後60余年、朽ちて来ていると近所の方に聞いた。
「震洋」を海岸まで移動させるためのコンクリート道路が敷かれていて、海岸には波左間海岸から200m位のところに小山があるが震洋の格納壕、燃料や食糧の地下壕があったと言うが残念ながら震洋の格納壕跡は今回見つけられなかった。ただ山肌には何ヶ所かの壕があった。この辺りには多数存在したらしい。
近所の方に場所を尋ねたが大抵の方はその存在を知らなかった。時代は遠くなりにけりである。
その他に今回、洲崎第1砲台跡(館山市加賀名)洲崎第2砲台(館山市坂田)を探したが見つけられなかった。詳しい場所が不明、住宅や地形が変わっているので素人では見つけるのは難しい。地元の人に聞いても知らない人が大半で昔のことを知る人でないと辿り着けない。
いつかもう一度探して見たい。
↓写真は原画より画素数を落としています。(小さな写真はクリックすれば大きくなります)
   
↑波左間海岸の震洋の滑り台

↑「震洋」を海岸まで移動させるための道路
 
↑点在する地下壕

戦争遺跡 東京湾要塞 南房総「大房岬砲台跡」散策(2)

2013年11月05日 06時00分00秒 | 戦争遺跡

↑要塞跡地の第2照明所(えん灯所)跡
11月3日(日)の午前、南房総市大房岬の「大房岬砲台跡」を訪ねたが今回は続編である。
大房岬は現在は南房総国定公園の一部(大房岬自然公園)であるが昔は砲台や魚雷の一大基地であった。東京湾を一望ができる房総半島は岩肌を利用した頑強な基地として適し、また対岸の三浦半島と共に挟み撃ちできる東京湾防衛を担っていたことは現地を訪れば分かる。
1928(昭和3)年から建設が始まり4年の歳月を掛け完成された大房砲台は前編で書いたが砲台は巡洋艦「鞍馬」の45口径20センチ砲が大房岬の先端部に2基(4門)設置され、砲身だけで120トン、砲塔の鋼板は30センチで総重量420トンもあったと言われる。4門あったうち現在残っている砲台跡は第2砲台だけである。
では、第2砲台に続いて砲台の施設を紹介しよう。
えん灯所(照明所)は現在のビジターセンターの隣にあり、今はない第1照明所サーチライトを格納していた。
大房岬の南側にある「第2照明所(えん灯所)」はコンクリートの大きなものである。えん灯所は敵の飛行機を照らし出すサーチライトが配備されていたが大房岬での現存する最も大きな要塞跡地として残っている。
発電所」は第2照明所サーチライト用としてヂーゼル発電機が設置されていた。当時は大きなものだったに違いない。
兵器庫」は中央部にあり、現在は涌水池になり入口は半分水没しているが残っている。
兵舎」は駐車場近くにあったが段々になった跡地だけが残っている。
岬の南東の海岸には「魚雷艇基地(洞窟)」があった。
海岸には魚雷発射のための「魚雷射ホ」レールが海に延びている。レールは満潮時は水面下で見えないが今回訪れた時は干潮で見ることができた。海岸の岸壁には魚雷格納用の洞穴が今も残っている。この付近に釣り人が多くいるが昔ここが魚雷基地だったことに関心を示す人はいない。
これまで館山を始め南房総の戦跡を訪れているが今も数多く戦跡が残る大房岬一帯を訪れる価値は非常に高い。
基地跡がある大房岬自然公園はJR富津駅から5km程度であり、往復+散策にはウォーキングにも最適かもしれない。車なら富津インターネット下車で10-15分程度である。

以下の写真は原画より画素数を落としています。(小さな写真はクリックすれば大きくなります)


   
↑第2照明灯(えん灯所)(今は雑木林になっているが大房岬で一番大きな施設)

   
↑要塞の付近とその内部

↑えん灯所(第1照明所用のサーチライトを格納していた)

↑兵器庫(現在は涌水池になっており半分水の中)

↑発電所(サーチライトの50馬力27KWのヂーゼル発電機があった)

↑魚雷射ホ(魚雷発射の為のレール。満潮時は水面下)

↑魚雷艇基地(洞窟)
    
↑海岸からみる魚雷発射レール

↑兵舎跡(今は雑木林になっている)

↑大房岬の戦跡MAP

大房岬自然公園のサイトは以下の通り。
http://taibusa-misaki.jp/

戦争遺跡 東京湾要塞 南房総「大房岬砲台跡」散策(1)

2013年11月04日 06時00分00秒 | 戦争遺跡
↑大房第2砲塔跡(口径20センチカノン砲)
11月3日(日)の午前、南房総市大房岬にあった「大房岬砲台跡」を訪ねた。
大房岬は南房総国定公園の一部となっており一帯は「房総の魅力の500選」にも選ばれたレクレーションの場所となっている。
大房砲台は1928(昭和3)年から建設が始まり4年の歳月を掛け完成された。砲台は巡洋艦「鞍馬」の45口径20センチ砲が大房岬の先端部に2基(4門)設置され、砲身だけで120トンもあったと言われる。また砲塔の鋼板は30センチで総重量420トンもあったようだ。
こんな大きな砲台跡を求めて大房岬に赴いた。砲台跡は砲台の部分だけレンガで覆われていたがその大きさは直径7-8mくらいである。砲台後方の雑木林の中に頑丈なコンクリート造りの「地下弾薬庫跡」が残っている。。
砲台跡から300mのところにコンクリートの「観測所」があるとされていた。観測所は砲台の射撃指揮所で戦後米軍により爆破されたと言われており、今もその当時のコンクリート片が散乱しているとのことであったが場所が特定できず結局みつけることはできなかった。
その他の施設は続編に続く。

大房岬自然公園のサイトは以下の通り。
http://taibusa-misaki.jp/

以下の写真は原画より画素数を落としています。(小さな写真はクリックすれば大きくなります)


↑大房岬から見る内房の湾

↑運動園地付近のところにあった「小発電所」だが今は雑木林

 
↑要塞跡地にある「弾薬庫」(現第1展望台付近にあり第1砲塔用の施設。但し、第1砲塔跡は今はない)

↑当時を想像される第2砲塔跡(現在は花壇になっている)

↑第2砲塔の直ぐ後方にある「弾薬庫」

↑幕末の砲台跡(但し、当時を思い起こさせるものは見当たらない)

↓大房岬戦争遺跡MAP

大房岬自然公園のサイトは以下の通り。
http://taibusa-misaki.jp/