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「ウォーキング三昧」in 滋賀

「ウォーキング三昧」は2013年3月以来発信して来ましたが2019年5月1日、「スローライフ滋賀」に移行しました。

ふるさと講座「終戦70年 館山の戦争遺跡の真相を探る」(8/22)

2015年08月23日 06時00分00秒 | 戦争遺跡

↑「終戦70年 館山の戦争遺跡の真相を探る」の講演があった館山コミュニティセンター

8月22日(土)、終戦70年を記念したイベントの1つである「終戦70年館山の戦争遺跡の真相を探る」の講演に参加した。
7月26日(日)に館山市博物館での資料展示会にも行ったが今回は館山の戦争遺跡に関する講演である。

初めて館山コミュニティセンターに行った。会場には40名程度の参加者だったが案の定若者は皆無であった。
館山を含む南房総の戦争施設を見て歩いているがまだ見たことがない施設や詳しい背景など興味ある話が聞けた。特に赤山地下壕の詳細についての話は殆ど初めてのことばかりで有益であった。

館山は海軍の軍都だった。今も多くの遺跡が残っている。その大半は十分保護されているとは言えない。今や私有地となっている多くの戦争遺跡をどのように残して行けるかは課題である。


↑「終戦70年館山の戦争遺跡の真相を探る」を講演する館山地域史研究会会長 川村巌氏

↑館山の大形戦争地下施設「赤山壕」の新たの真相

↑赤山壕は実は地下4階建ての構造物だった(初めて知った!)

終戦70年企画「収蔵資料展 戦時のたてやま」見学(7/26)

2015年07月27日 06時00分00秒 | 戦争遺跡

↑収蔵資料展 戦時のたてやま

ウオーキング例会も夏枯れで、かつ、今週は船橋に帰れず、7月26日(日)、先にこのブログでも紹介した館山の「収蔵資料展 戦時のたてやま」を見るため館山城のある城山公園内の館山博物館本館を訪ねた。
2年余前南房総に赴任し、ウオーキングなども兼ね館山・南房総の戦争遺跡を訪ねているが今年は終戦70年に当たり各地で終戦70年の企画を催している。
期待して訪ねたが展示品も期待に反して少なかった。
戦後70年の経つので資料の保存や収集するのは難しいのだろう。その意味では写真の展示がもっと多くあっても良かったかも知れない。現存し、見ることができる館山の戦争遺跡は殆ど見ているので新発見はなかった。
しかしながら少ない展示品ではあったが当時の貴重な資料は興味深かった。時間的に早かったせいもあるが「収蔵資料展 戦時のたてやま」を訪れる人も殆どなかった。
昨今は安保問題が騒がしいが時は移ろい、人は時に疎しなのだろうか。
尚、展示資料の撮影は禁止だった。


↑真夏の館山城(館山博物館本館は館山城の城山公園内にある)

↑館山博物館本館

↑館山博物館本館前のモニュメント

館山終戦70年講座

2015年07月01日 06時00分00秒 | 戦争遺跡
今年は戦後70年になり、各地で色んな企画がされている。
軍都館山でも今回紹介する企画があるので紹介する。また、このブログでも南房総の戦争遺跡を紹介しているので興味のある方はご覧下さい。
南房総に残る遺跡を自分の足で歩いてみるのも良いだろう。

終戦70年企画「収蔵資料展 戦時のたてやま」
1.日時: 2015年7月11日~9月6日
2.場所: 館山博物館本館

ふるさと講座「終戦70年 館山の戦争遺跡の真相を探る」
1.日時: 2015年8月22日(土) 10:00~11:30
2.場所: 館山コミュニティセンター
3.受講料: 無料
4.定員: 150人
5.講師: 館山地域史研究会会長 川村巌氏

安房学講座「千葉県の戦争遺跡と館山」
1.日時: 2015年12月5日
2.場所: 渚の駅たてやま 海辺の広場レクチャールーム
3.参加費: 200円
4.定員: 60名
5.講師: 県立中央博物館主任上席研究員 佐藤誠氏





11/30 南房総戦争遺跡 大房岬戦争遺跡巡り (南房総富浦)(案内)

2014年11月27日 06時00分00秒 | 戦争遺跡
館山の「また旅倶楽部」では11月に南房総戦争遺跡のウオーキングを開催するので紹介する。

大房岬は東京湾の入口にあり、首都防衛のための重要な拠点として要塞化された大房戦争遺跡と海に囲まれた崖や自然林を散策する。

大房岬戦争遺跡巡り
月日:11月30日(日) 09:30~15:00
集合:大房公園駐車場(南房総市富浦)
距離:5km(高低差あり)
参加費:600円

南房総戦争遺跡 金谷砲台山散策

2014年05月26日 06時00分00秒 | 戦争遺跡

↑浜金谷フェリー港の反対の砲台山

この砲台山に砲台があると聞いていたので下見を兼ねて5月24日(土)に浜金谷フェリー港を訪れた。もう何度も来ている浜金谷フェリー港であるが昼食フレンドから砲台山のことを聞かされていたので今回初めて行ってみた。

南房総内房の浜金谷フェリー港の反対側に低い山があるがそれが金谷砲台があった砲台山である。
浜金谷港から国道127号線(内房なぎさライン)を木更津方面に歩くと「砲台山入口」のバス停があるがその周辺には登り口はない。

↑インターネットより
かつて砲台山には「砲台山ハイランド」と言う観光遊園地のような施設があり、リフトで上がれるようになっていた。(20年以上前に閉鎖され当時の面影は見つけにくい)
一方、当時からも林道脇から無料で砲台山に登れる道があったようでそれが今回探した林道脇の登り口である。
国道127号線を金谷トンネル手前まで進み、その手前を左折すると林道入口(林道金谷元名線)がある。林道は舗装されているが何処まで行けるか分からない。林道を1km弱登って行くと右側に砲台山への登り口がある。しかし、現在は私有地の看板と共に立入禁止となっており勝手に登れない。2011年にアップされたインターネット情報では登って行けそうであるが今は禁止されているので砲台跡がどうなっているか分からない。


↑2011年にインターネットにアップされた砲台跡らしき写真
金谷砲台は大正年代末期に作られた東京湾要塞の一つであり、当時はカノン砲が4門あったらしい。
【カノン砲:カノン砲(カノンほう、加農砲)は、火砲(大砲)の一種で同口径の榴弾砲に比べて砲口直径に対する砲身長が長く、高初速・長射程であるが重量とサイズは大きく、やや低仰角の射撃を主用する】



↑インターネットにアップされて砲台写真。いつ頃か不明)(但し、砲台そのものは昭和40年代にレジャー施設用に作られた偽物で本物は戦後撤去されている

残念ながら現在は砲台山の戦争遺跡は私有地で立入禁止となっており、勝手に砲台山に登ることができない。


↑国道127号線(内房なぎさライン)にある「砲台山入口」バス停

↑国道127号線(内房なぎさライン)金谷トンネル(手前を左折したところに林道がある)

↑トンネル手前を左折し100m程度前進

↑林道「金谷元名線」の看板がある

↑林道を上って行く

↑砲台山への入口(閉鎖されている)

南房総戦争遺跡 陸軍高井ヶ谷砲台砲側壕

2014年05月02日 06時00分00秒 | 戦争遺跡

↑高井ヶ谷砲台の側壕入口

3/12のブログで紹介した「高井ヶ谷砲台の壕」の中に、土地所有者の許可を得て初めて中に入った。中は暗かったが綺麗に掃除がされ、コウモリと虫がいたが壕の中はじめじめ感もしなかった。壕の中は崩落も全くなく当時を趣そのままである。
壕の中は結構長い。抗戦用として作られたのだろうか。館山の赤山の大形の壕とは比べるべくがないが戦後70年近くにもなるのに崩落もせず残っている正に戦争遺跡である。


↑高井ヶ谷砲台跡

↑高井ヶ谷砲台の側壕

↑高井ヶ谷砲台の側壕入口を少し入ったところ
↓高井ヶ谷砲台の壕の中












シリーズツアー(戦跡を歩こう)「房の大山登山と戦跡巡り」(4/27)

2014年04月17日 06時00分00秒 | 戦争遺跡
館山と南房総地域で活動している「また旅倶楽部」ではシリーズツアー「戦跡を歩こう」を計画しているのを知ったので紹介する。
まずは4/27の「房の大山登山と戦跡巡り」から4回シリーズで始まる。
今回は洲崎半島のてっぺん「房の大山」に登って絶景を楽しみ、周辺に点在する戦争遺跡を廻る約6kmのコースだ。ツアー参加者には人気のイラストマッププレゼントも貰えるそうである。
私も初めてだが参加してみようと思う。

日時:2014年4月27日(日)9:30~15:00 小雨決行
料金: 600円/人 保険料込
集合場所: 坂田海岸駐車場
住所:館山市坂田359-1付近
歩行距離:約6km 高低差あり
持ち物: 昼食・飲料・雨具
服装: 歩きやすく調整しやすい服装に帽子など日よけ対策とスニーカーやトレッキングシューズなどで。両手をフリーにしておけるリュックなどを使用を勧めている。
主催: また旅倶楽部
申込み: また旅倶楽部 0470-28-5086 月~金曜日8:30~16:30祝日及び特別日を除く
※申込み受付は実施日の2週間前から2日前まで。

館山戦争遺跡 海軍館山砲術学校「落下傘訓練プール」跡

2014年04月11日 06時00分00秒 | 戦争遺跡

↑館山砲術学校「落下傘訓練プール」跡
旧海軍館山砲術学校のエリアにはもう何回も訪れているが落下傘降下訓練用のプールは初めてだった。
館山砲術学校では、特別陸戦隊の落下傘降下訓練が行われていたと言う。その訓練に使われたと言うプールを今回探しに出掛けた。
プールの存在は聞いていたがそれは房南中学と隣り合わせのネットで囲んだ敷地内に今も残っていた。
一見でプールだと分かるがこれが落下傘降下訓練に使われていとは分からない。また戦後60年近くになり周辺は住宅として開発されているのにこのプールだけが当時のプールのまま残されているのはなぜだろう。
上から方がよく見えそうなので裏側の別荘地の山に登ったが適当な場所が見つからず再度トライしてみたい。
当時、落下傘降下訓練期間は3ヶ月だったそうで隊員は20mの高さからプールに突き落とされたとある。道理で50mほどのプールの片方かなり深くなっている。ここで訓練後、館山航空基地で実際に落下傘を使った降下訓練が行われたらしい。


















南房総戦争遺跡 陸軍高井ヶ谷砲台跡

2014年03月12日 06時00分00秒 | 戦争遺跡

↑高井ヶ谷(たかいがやつ)砲台跡(向かって右側)
南房総市にもかつて砲台があったと聞いていた。しかし正確な場所が分からない。私はこの地の人間でないので土地勘がなく旧三好村は山間部なので特に難しい。
その中で「御庄(みしょう)」と言うところに砲台があったとのことで出掛けたが場所が分からず別な場所である「高井ヶ谷(たかいがやつ)砲台跡」を3月8日(土)と3月9日(日)の両日、南房総市の旧三好村の山名地区を訪れた。
陸軍「高井ヶ谷砲台」は現南房総市山名地区(元三芳村)の山間にあった。
高井ヶ谷砲台は東京湾要塞第一砲兵隊(房13367部隊)第二中隊が駐屯していたと言われ、敗戦濃厚となった昭和19年に連合軍の上陸阻止を目的に作られた。当時30名位の部隊だったようで隊の専用宿舎はなく民家とテントで宿を取っていたと聞いた。
高井ヶ谷(たかいがやつ)砲台跡は現在鈴木さん所有の山林となっているが砲側壕と砲台後が残っている。初日訪れた時は、砲台跡らしき感じがしたがそれが高井ヶ谷(たかいがやつ)砲台跡か自信が持てず、2回目の日、鈴木さん宅を訪れ詳しいことを聞いた。それは確かに高井ヶ谷(たかいがやつ)砲台跡で、砲側壕は暗く照明がないと見えずまた現在は私有地であり勝手に侵入するのも問題であり断ってから入るのがマナーであるので入るのを止めた。
この壕は入口こそ小さいが中はかなり長く掘られ、コウモリが住んでいるようだが戦後70年近くにもなるのに崩落もせず綺麗に残っているようだが鈴木さん及び有志が壕の中を清掃したと言う。
次回、鈴木さんの許可を得て懐中電灯を持参して壕の中に入ってみる予定である。
因みに高井ヶ谷砲台の砲側壕は昨年ブームとなったNHKのあまちゃんのロケにも使われたそうだ。
旧三好村には4門の砲台があったと言う。高井ヶ谷砲台の観測所は山の上にあったようで現在は道がなく土地勘のある人でないと迷子になり、またイノシシも出るので一人では行かないようにいさめられた。まだまだ南房総にも戦争遺跡探索の楽しみがありそうだ。


↑鈴木さん宅で見せて頂いた当時の砲台の全景絵

↑高井ヶ谷(たかいがやつ)砲台跡

↑高井ヶ谷(たかいがやつ)砲台の砲側壕

↑砲側壕の入口

↑砲側壕の入口付近

↑砲側壕の入口直ぐの左側

↑砲側壕の入口から少し入ったところ

↑砲側壕の中から入口側をみたところ

館山戦争遺跡 館山海軍砲術学校<化学兵器実験場跡>散策(3)

2014年02月18日 06時00分00秒 | 戦争遺跡

↑館山海軍砲術学校化学兵器実験場跡
館山市にあった「館山海軍砲術学校」に「化学兵器科」が存在し、当時日本で細菌戦の訓練を行っていた唯一の学校で全国から極秘に150余名の「化学兵器班」と言う特殊部隊があり、この部隊は広い平砂浦海岸で実地訓練を行っていたのだ。
館山海軍砲術学校内にはかつて「ガス講堂」と言われるレンガの建物はあったが現在は存在しない。

しかし、「化学兵器実験場跡」と言われるコンクリート製の異様な形の建造物が畑の片隅に残っていた。
2月15日(土)の午後、先週に続いて「化学兵器実験場跡」を求めて平砂浦の藤原地区の畑の中をさまよい歩いた。広大な大地にビニールハウスや竹藪、草木などで視界が妨げており今回も見つけられず帰る途中、ウォーキングしていた老夫婦にダメ元で尋ねてみた。あにはからんやそれらしき異様な建物があると言うではないか。その方向を改めて探したが見つからず諦めてまた帰る途中、またその夫婦に会い、その旨伝えると着いてきてくれるではないか。

結果、ついに探し求めていた建造物を畑の中に見つけた。私もその直ぐ近くまで来ていたのだが見つけられずにいた。
化学兵器実験場跡」と思われる建物は黒い色をした天井がアーチ状のコンクリート製の建物で、入口が1つあり、小さな窓がある。現在は物置にされているようだがこの建物が昔何に使われていたか知る人もいない。今ではこの異様な建物の存在、所在地を知る人や関心を持つ人は殆どいない。「ガス講堂」がかつて存在したがどこにあったのだろうか。
化学兵器と言う極秘実験だけに機密保持が徹底されたこともあり今もベールに包まれている。
第2次大戦終戦前には日本軍も極秘で化学兵器を開発していた訳だ。実戦に使われたか知るよしもないがこれらの事柄も歴史に正しく残されているのだろうか。

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↑館山海軍砲術学校敷地であった広い平砂浦の畑に今も多く残るコンクリートの道




↑館山海軍砲術学校化学兵器実験場跡

↑農場近くにあった頑丈なコンクリート(館山海軍砲術学校内の何かの基部らしい)