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「ウォーキング三昧」in 滋賀

「ウォーキング三昧」は2013年3月以来発信して来ましたが2019年5月1日、「スローライフ滋賀」に移行しました。

ぶらり一人ウオーキング 館山・ 洲ノ埼海軍航空隊(洲ノ空)を訪ねて(3)

2013年10月30日 06時00分00秒 | 戦争遺跡

↑城山砲台があった現館山城
州ノ埼海軍航空隊は1943年(昭和18)6月、全国でただ1つの兵器整備練習航空隊で現在の館山市笠名から大賀の一帯にあった。その中心に小さな「天神山」があるがここには「コンクリート防空壕跡」があるようだがみつけられなかった。次回もう一度探してみよう。
現在の館山海上技術学校前に「海員学校」があったとされるが今は海上自衛隊の宿舎になっている。また、州ノ埼航空隊を南北に「トロッコ軌道」があったが今は国道を縦断する細い道ではあるが残っており、当時存在したことを想像させる。トロッコ軌道の端は山側にやや登る「射撃場」、「土塁式掩体壕」があったのでそのための軌道だったのだろう。
山の西側には「戦闘指揮所地下壕」や「本土決戦128高地抵抗拠点」跡があるようだ。やはり戦局が悪くなっていたので決戦の準備をしていたのだろう。次回のウォーキングには行ってみたいところだ。
民間の建物になるが旧鈴木邸赤門残っている。赤門は現在は赤門整形外科内科として存在している。
いずれにせよ、次回はこれまで行けなかった館山の旧海軍関連施設跡をまた訪ねてみようと思う。
↓下の写真をクリックすると大きくなります。

↑天神山
  
↑トロッコ軌道があった道
   
↑鈴木邸と赤門

↑小高記念館


ぶらり一人ウオーキング 館山・ 洲ノ埼海軍航空隊(洲ノ空)を訪ねて(2)

2013年10月29日 06時00分00秒 | 戦争遺跡

↑第二海軍航空補給廠館山補給工場跡
今回は館山・ 洲ノ埼海軍航空隊(洲ノ空)ウォーキングの続編である。
洲ノ埼海軍航空隊(洲ノ空)」についは前編で書いたが続編は海軍の町館山の海軍関連の史跡である。
北条海岸を館山航空基地方面に歩き、旧安房水産高校(現館山総合高校)角に「海岸ホテル跡」らしきところがあり館山総合高校の施設になっているみたいだ。またその対面の海岸には「館山桟橋会社跡」もあったが更地、駐車場になっている。
その先の海岸に「南部総合造船所跡」がある。造船所跡の敷地はガススタンドになっていた。
事務所の片に特別許可を頂き敷地内に入れて貰った。海の縁には元の造船所の形跡が残っていた。
もう少し先に「水産講習所」(現東京水産大学)があり、「魚雷艇基地準部隊跡」は水産講習所の隣りにあったようだが今では全くその形跡はない。
現館山湾桟橋近くには今は埋め立て地となっているが「軍需部倉庫跡」、「第二海軍航空補給廠館山補給工場跡」らしきところがある。特に第二海軍航空補給廠館山補給工場は今もその風情を残している。
洲ノ埼海軍航空隊(洲ノ空)からの帰路、館山神社、城山公園前に「憲兵隊決所跡」があったらしい。現在の交番あたりがその場所になろうか。その周辺に「旧松岡旅館」と言われた「池田荘」と言う古い建物の旅館がある。ここは旧昭和電工跡と憲兵隊決所跡にも近く当時使われていたのではないかと思われる。
戦後60年以上にもなり、石碑でもあればその場や存在が分かるのだが館山航空隊など一部以外、民間に払い下げ又は接収返還で民地になっており当時を思い出させるものは殆どない。

↓下の写真をクリックすると大きくなります。
  
↑海岸ホテル跡と思われる場所
 
↑館山桟橋会社跡
   
↑南部総合造船所跡
  
↑水産講習所」(現東京水産大学)
  
↑柏崎埋め立て地と軍需部倉庫跡
 
↑憲兵隊決所跡
  
↑旧松岡旅館(現池田荘)

ぶらり一人ウオーキング 館山・ 洲ノ埼海軍航空隊(洲ノ空)を訪ねて(1)

2013年10月28日 06時59分07秒 | 戦争遺跡

↑旧「州ノ崎海軍航空隊」の石碑(現国立海洋技術学校)
台風一過の10月27日(日)の9時~13時、館山に存在した旧海軍の「州ノ埼海軍航空隊跡」を訪ねて家を出た。本当に久しぶりのウオーキングだったが今回は15kmになってしまった。
右膝の痛みと右肩の不調が気になったが具合を試す意味で歩いてみた。やはり右膝痛は治っておらず痛みがあったが姿勢を正し、速度を上げずゆったりと歩いた。何とか4時間、15kmを歩いた。

さて、今回のウォーキングの模様について書く。
館山は舘空こと館山海軍航空隊の町として有名だが同じ館山の舘空の隣りに「洲ノ埼海軍航空隊(洲ノ空)」もあったのだ。
地図と実際に歩いてみてこの2つの航空隊は1943(昭和18)年に兵器整備練習航空隊として開隊され。現館山海上技術学校がその場所である。戦況がいよいよ厳しくなり本土決戦を意識した日本軍は総攻撃や特攻の訓練も準備をしていた時期での開隊である。
現在の地形からはわかりづらいが地図と実際に歩いてみて隊の名称こそ異なるが2つの航空隊は隣同士であり、館山航空隊を南側に拡張したものと言えなくはない。
いずれにしても当時は広大な基地であったことは間違いない。海洋技術学校付近を歩き当時のものがないか探したが見つからず海洋技術学校の受付で尋ねてみた。「洲ノ埼海軍航空隊」は現在の国立海洋技術学校の地に本体があったが今は当時を思い出させるものは「石碑」以外なにもない。
昔ここに州ノ崎海軍航空隊あり」の石碑は旧の正門(現在は裏門)の隣にひっそり建立されているが国道から少し入ったところなので普段見る人はいない。
洲ノ埼海軍航空隊の本館のある国立海洋技術学校の敷地以外、戦後民間に払い下げられ現在は民家となっているため当時を思い起こさせるものは少ないが元洲ノ埼海軍航空隊基地内には練兵場や射撃場があった。練兵場は現在の館山自動車教習所エリアに、射撃場は館山自動車教習所の後ろの山側に岩肌があることからもここにあったことを窺わせる。また、山の斜面に小さな防空壕跡を1つ見つけた。もっと入念に調べれると防空壕は他にもあると思われる。
今回は時間の関係もあり山側の跡の散策は出来なかったので次回もう少し探してみよう。
↓下の写真をクリックすると大きくなります。
   
↑旧洲ノ埼海軍航空隊の正門(現国立海洋技術学校の裏門)と石碑
  
↑現国立海洋技術学校
  
↑防空壕跡
 
↑射撃場跡

↑海軍のまち 館山のMAP

南房総市鋸南町旧海軍「人間魚雷回天」地下壕跡

2013年09月24日 06時00分00秒 | 戦争遺跡

↑水上・水中の特攻兵器を格納した地下壕
南房総の戦争遺跡巡りの一環として今回は旧海軍第1特攻戦隊「侵洋」基地跡のある千葉県鋸南町岩井袋港を訪ねた。
岩井袋は旧海軍第1特攻戦隊第18突撃隊本部基地があった場所である。
岩井袋港は小高い山に囲まれ、昔からクジラなどの沿岸漁業が盛んであったという。この小さな港に水上・水中の特攻兵器を格納した地下壕が今もあると知ったので早速訪れたのだった。
基地には、特攻艇「海竜」(19トン2名乗り)、60トン5名乗り特攻艇の部隊もあったと言う。
現在の地形と当時の地形は異なっているだろうが港から近い小山に2つの岩盤の壕があった。高さ4-5m、奥行き20m程度の大きさである。民家の裏で良く探さないと見落とすが小山にも2つ壕があった。多分、格納をカモフラージュするためであったのだろう。
近所の方にうかがったが昔はもっとあったという。港は造船所だったと言うがそれらしい感じのものも残っていた。しかし、戦後70年近くなり昔のことは風化している。

↓下の写真をクリックすれば大きくなります。
     
↑小山の岩の山肌の地下壕
   
↑民家の裏にある地下壕
   
↑岩井袋港
   
↑岩井袋港に残るドックの面影

「ニイタカヤマノボレ一二〇八」  行田無線搭(海軍無線電信所船橋送信所)記念碑と海軍省の石柱

2013年08月19日 06時17分07秒 | 戦争遺跡

↑旧日本海軍無線電信所船橋送信所(海軍行田無線搭)のモニュメント

↑船橋市山手にある旧海軍省の石柱
2013年の終戦記念日も終わった8/17-18の週末、船橋の自宅に帰った。
8/18(日)、これまで気になっていた「旧日本海軍無線電信所船橋送信所(海軍行田無線搭)の旧跡がないか公園内をうろついて見たが新たな発見は何も見つからなかった。
4月19日(金)のこのブログでも紹介したが船橋の行田公園は旧日本海軍無線電信所船橋送信所(海軍行田無線搭)」だったところで太平洋戦争勃発で真珠湾攻撃の暗号文「ニイタカヤマノボレ(新高山登れ)1208」がこの行田から送信されたところである。
公園管理人に尋ねてみたがモニュメントと事務所内に掲示されている全景の航空写真以外、今は何も残されていない。
しかし、話の中で行田は旧海軍ゆかりの地であるので公園外の所々に旧海軍に関係するものが少し残っていると聞いた。その管理人は公園近くの民家に旧海軍を表す石柱が民家に今も残っていると教えてくれた。
早速、それを探すため行田公園を出て山手付近の入りくんだところをうろつき廻り最終的に2本の石柱を見つけた。
それは行田公園から10分程度の「山手」の民家の一角に今も残されていて
「許可ナキ者は 入る可カラズ 海軍省」と書かれていた。
今の民家から当時の面影は感じることはできない。よってこの石柱は何用のものか推測するしかないが石柱の大きさ、民家の敷地の広さ、行田公園=元送信所からの距離からして、これは旧海軍の「官舎」か「送信所施設」の門柱ではないだろうか。これは私個人の想像で根拠はない。
でも、この小さな石柱から65年以上も昔を勝手に想像逞しくできるのは実に楽しいことでもある。
まだ他に何か残っていないか調べてこの辺りをまた徘徊してみよう。
以下の写真をクリックすると大きくなります。

↑いつもはひっそりとする行田公園の一角にある旧日本海軍無線電信所船橋送信所(海軍行田無線搭)のモニュメント



↑昭和40年代は初めまであった元送信所のアンテナ群(インターネットより)
  
↑船橋市山手の民家に残る旧海軍省と記された石柱
    
↑夏でも涼しいグリーン一杯の行田公園

南房総ぶらり一人ウォーキング 館山航空隊及び沖ノ島ウオーク

2013年05月27日 05時39分38秒 | 戦争遺跡

昨日(5/26)は「海上自衛隊館山航空基地」と基地の崎の「沖ノ島」を目指してウオーキングした。先週の日曜日には館山城に登り眼下に基地があることが分かっていたので館山の北条海岸を一路西に向かってウオークした。自宅から距離にして4km程度のところにある。
館山は東京湾の要塞として明治初めから砲台が築かれ館山航空隊は1930年(昭和5年)、海軍の5番目の実戦航空部隊として創設された。しかし太平洋戦争時にも直接館山基地から出撃したことはなく艦載機の訓練基地であったと言う。
現在の館山航空基地司令部は今でも使われている。戦時中は滑走路もあったようだが現在の基地には滑走路はなく艦載用のヘリ基地となっている。基地の中には勿論入れないが入口からの撮影は問題ない。毎年10月から11月に基地の一般公開がある。
基地の西の先端に沖ノ島があるが基地一周は許可されておらず沖ノ島で折り返すことになる。
沖ノ島は周囲1km程度の小島であるが現在は砂で繋がっており徒歩で入れる。釣り、シュノーケルなどを楽しむ人が多く居る。島内は迷路のような道があり島内を廻ることができる。
今回初めて知ったが戦後米軍が上陸用艇で上陸したのはこの沖ノ島だったのだ。
航空基地と沖ノ島からの帰路、「赤山地下壕跡」の標識があった。日曜も地下壕に入れることが分かったので200円を支払いヘルメットと懐中電灯を借り入った。地下壕総延長1.6kmもあるが250mだけ公開されている。中は薄暗く迷路のようになっており真っ暗なところもある。航空隊のために終戦前に地下壕を掘ったようだ。確かに地下壕は基地から直ぐのところにある。
館山にはこんなところに戦時の歴史が残っている。私は戦史が好きなので館山の戦争遺跡を勉強し関係のあったところをウォーキングしたいと思う。

↑航空基地のゲート

↑フェンス越しに見る航空基地

↑沖ノ島を目指す(戦後米軍が日本本土上陸したのは実は沖ノ島からだった)

↑途中、修理中の大きな船

↑沖ノ島全景

↑沖ノ島公園

↑沖ノ島入口(砂地で繋がっている)

↑沖ノ島の島内説明

↑沖ノ島から見た基地

↑沖ノ島にある宇賀神社

↑迷路のような島内の道

↑波で浸食された島内の岸

↑浸食された岸壁

↑渚の駅から出港した海中遊覧船は沖ノ島まで来ていた

↑沖ノ島前の航空基地のフェンス(基地を周回することはできない)





「ニイタカヤマノボレ一二〇八」  行田無線搭(海軍無線電信所船橋送信所)記念碑

2013年04月19日 05時26分35秒 | 戦争遺跡

「千葉県立行田公園」(船橋市)は船橋歩こう会の「中山法華経寺イヤーラウンドコース(14km)」の途中にあり、「旧日本海軍無線電信所船橋送信所(海軍行田無線搭)」だったところである。
太平洋戦争勃発のあの有名な真珠湾攻撃の暗号文「ニイタカヤマノボレ(新高山登れ)1208」がこの行田から送信されたところである。
行田公園は旧海軍の無線送信所だったことは良く知られているが私は不覚にもこれまでその記念碑を見ることがなかった。それが何とイヤーラウンドコースを歩いていたとき偶然見つけたのだ。
行田公園は2つの公園で成り立っているが中間に道路があるため両公園を結ぶブリッジがあり、いつも私はブリッジを渡っていた。何とそのブリッジの下に旧海軍行田無線送信所の「船橋無線搭記念碑」があったのだ。今回は何気なくいつもと違った下の道を歩いたためブリッジの下で記念碑を見つけたのである。もう何十回と歩いているに知らなかったことを恥じる。
私は戦史関連の本をよく読むがこんな歴史的な「ニイタカヤマノボレ(新高山登れ)1208」の送信所記念碑を身近に見て暫く記念碑前で佇んだ。いつも歩いているこんな近くに重い歴史があったのだ。旧海軍無線電信所船橋送信所は当時53ヘクタールもあったようだが残念ながら今はその面影は全くない。現在の行田公園が円形になっているのが唯一の面影であろうか。
因みに柏の葉公園は戦前は旧日本軍の陸軍が使用していた軍用地で、戦後米軍の無線送信所があったが返還後は現在も航空自衛隊の送信所がある。
貴方も船橋の行田公園又は付近をウォーキングされた時、是非記念碑もご覧になられては如何ですか。


↑船橋無線搭記念碑

↑船橋無線搭記念碑文
船橋無線塔記念碑の碑文は次の様に書かれている。
ここ下総台地の一角にかつて無線塔が聳えていた。大正4年(1915年)に船橋海軍無線電信所が創設された。大正5年にはハワイ中継でアメリカのウイルソン大統領と日本の大正天皇とで電波の交信があった。広く平和的にも利用されたのでフナバシの地名がはじめて世界地図に書きこまれた。大正12年(1923年)の関東大震災の時には救援電波を出して多くの人を助けた。昭和16年(1941年)の頃には長短波用の大アンテナ群が完成し、太平洋戦争開幕を告げる「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の電波もここから出た。船橋のシンボルとして市民に親しまれていたが昭和46年(1971年)5月解体され栄光の歴史を閉じた。


↑千葉県立行田公園案内図 (記念碑は「現在位置」表示のところにある)

↑行田公園内の木々

↑広い公園内を探検する近くの幼稚園児

↑公園内で週2回競歩の練習をする船橋行田健康ウォーキングクラブ