あれやらこれやら いろいろ沖縄

沖縄に住み30数年の県外居住者が見た沖縄の生活や人情・自然や文化、観光。「あれやらこれやら」気ままに。

沖縄の歴史 ~ ナナ・サン・マル(1978年7月30日) ~ 右側通行から左側通行へ

2021年08月05日 16時20分40秒 | Weblog
 1972年(昭和57年)、沖縄はアメリカ施政権下から本土復帰した。
市民生活に重大な影響を及ぼす交通の問題があった。
復帰前までは交通規則はアメリカ本土と同じ右側通行であった。
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 1978年7月30日を以て県下一斉に左側通行とすると決めた。
信号機、道路標識、道路標示、更にはバスも使い物にならない。
変えねばならいのは枚挙に暇がないほどの一大事業だ。
 バスは乗降口が反対になる。従って、運転席も変えねばならない。
バス会社が保有するバスが凡そ1300台。
新車1000台あまり、中古車数台、残りは改造した。
国庫補助金と財政投融資で156億円が投入された。
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 又、道路標識等は「カバーアンドテープ方式」(考案者の名をとって「久高方式」とも呼ぶ)を採用した。
7月29日午前10時~翌30日午前6時まで、緊急車両を除く全面通行禁止にした。
7月30日サイレンで以って左側通行が始まった。
これらのために、作業員600名、全国から警察官3000名が派遣され、高通指導などために8月末まで沖縄に留まった。

 運転は体で覚え、身体が反応するものだ。
事故が絶えなかったという。
30数年前、沖縄に赴任して来たとき、本通りから脇道へ入ると右側に停車している車を見て、
「一方通行に入ってしまったか!」と慌てたものだ。
今では、そういう車も少なくなった。
 この時期になるとウチナンチュウ(沖縄県人)との酒の席では「ナナサンマル」が話題に上った。
素朴な出来事が話題となり、笑いの種になり、場が盛り上がったものだ。
「そうして、アメリカゆ(世)からヤマトゆ(世)になった」でその夜は切り上げた。

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<ゆうな>オオハマボウ(大浜朴)
 海岸沿いの路傍に、山道に、今では街路樹にも見られる「ゆうな」。
「ゆうな」は沖縄で呼ばれる名前である。
わたしは「ゆうなの花」のわらべ唄がとても好きだ。
30数年前、案内された小さな酒場で、聴いた時思わずほろりと零しそうになった。
「ゆうなの花」というわらべ歌だった。
夏も終わった11月の頃だった。
本土から来たばかりのわたしには、沖縄の秋を感じることは出来なかった。
「ゆうなの花」を聴いた時、幼い頃の盆踊りや夕涼みを思い出した。
作曲は「芭蕉布」などで著名な作曲家普久原恒勇先生によるものだ。
普久原恒勇先生はたくさんの沖縄民謡、沖縄歌謡、童謡そして交響曲などを世に出している。

 「沖縄で一番好きな花は」と問われれば、今でも「ゆうな」と応える。
6月頃に咲き始める。
いつの頃に咲かなくなるのか判然としないが、秋口にも見かける。
多分、11月頃じゃないだろうか。
咲き始めは黄色だが、落下する頃は赤く染まる。

 咲き始めの頃のゆうなの花。
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 落花の頃のゆうなの花。
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 高木になったゆうなの花
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