藤本太郎兵衛

2017年10月16日 | 近江の思想

   

 
  
  

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作成日:2017.0810|更新日:  

♞ 藤本 太郎兵衛(ふじもとたろうべえ)

琵琶湖治水の先覚者 藤本太郎兵衛 親子三代

 人々を悩まし続けた「水込み」

滋賀県には509本もの一級河川が存在し、このうち
琵琶湖に流れ込む河川は118本にのぼる。高島市内か
らも多くの河川や地下水が琵琶湖に注ぎ込んでいるが、
なかでも安曇川は、流域面積が310平方キロメートル
にのぼり、野洲川に次いで2番目の面積、豊富な水量を
もたらす重要な河川のひとつ。その一方、琵琶湖から
流れ出る自然河川は瀬田川が唯一となる。現在は、南郷
の洗堰により、水位と水量が管理されているが、かつて
の瀬田川は川幅が狭く、山からの土砂が流れ込み川底に
溜るなど、流出する水量は少なく不安定となっていた。
また、琵琶湖の洪水は、河川の洪水とは異なり、その面
積の広さから水位上昇、低下ともに時間がかかるため、
ひとたび大雨が降ると行き場を失った水が琵琶湖に滞留
し、湖面の上昇によって沿岸が浸水する「水込み」と呼
ばれる水害に悩まされてきた(浸水日数が237日に及
ぶ記録も残っている)。

私費を三代にわたり投じる

 江戸時代以降、この水害をなさらくすために瀬田川
の川底を浚渫。流出水量を拡大する治水工事の実施が、
琵琶湖周辺の村々から嘆願するも、浚渫による下流域で
の洪水を心配した江戸幕府が着手ためらう。そんな琵琶
湖治水という大きな難題に、高島郡深溝村(現新旭町深
溝)の庄屋であった藤本太郎兵衛が立ち上がる。瀬田川
の土砂は自普請(農民自らが費用を出し合って行う工事)
による浚渫の必要性があると湖岸の村々に説き、177
カ村の賛同を得て、天明4年( 1784年)に工事を始
めるが、充分な効果を挙げることはできず、二代目太郎
兵衛(重勝)による老中    松平定信への直訴や瀬田川
下流の村々への説得が続けられ。そして初代太郎兵衛
から満50年目の天保2年(1831年)、三代目太郎
兵衛(清勝)の時に幕府からの許可をとりつけ、瀬田川
の全長14㎞、出役31万人、工事費76544両(約
2億5000万円)におよぶ治水工事が竣工された。こ
の浚渫は、琵琶湖周辺200カ村の悲願を達成させる大
工事となり、「天保の御救大浚え」と呼ばれ今もなお語
り次がれている。

 

【エピソード】 

 

 

【脚注及びリンク】
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  1. 藤本太郎兵衛の像/こころに残る滋賀の風景 - 滋
    賀県 
  2. 36.治水の先覚者藤本太郎兵衛(高島市新旭町) -
    近江史を歩く
  3. 琵琶湖の歴史洪水と瀬田川浚渫についての土木史
    的研究 竹林征三、今井範雄 土木史研究第15号199
    5年6月
  4. 琵琶湖治水の先覚者 藤本太郎兵衛親子三代 広報
    たかしま 2015年3月号 No.182
      
  5. 治水の歴史|水のめぐみ館「アクア琵琶」  
  6. 滋賀県出身の人物一覧 Wikipedia   

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