雨森 芳洲

2017年06月07日 | 近江の思想

   

☑ あ 

作成日:2017.06.07|更新日:

♞ 雨森 芳洲(あまもり ほうしゅう)  

☑生誕:1668年6月26日-1755年2月16日/近江国伊香郡
    雨森村(現・滋賀県長浜市高月町雨森)
☑分野:儒学者/対馬藩外交官(朝鮮方佐役) 
☑略歴:1679年、12歳の頃より京都で医学を学び、1685
    年頃、江戸へ出て朱子学者・木下順庵門下に入
    る。同門の新井白石、室鳩巣、祇園南海らとと
    もに秀才を唱われ、☈元禄2年(1689年)、木
    下順庵の推薦で、当時、中継貿易で潤沢な財力
    をもち、優秀な人材を探していた対馬藩に仕官
    し、☈元禄5年(1692年)に対馬国へ赴任、こ
    の間、長崎で中国語を学ぶ。☈
1698年元禄11年
    朝鮮方佐役(朝鮮担当部補佐役)を拝命。☈17
    02年)、初めて朝鮮の釜山へ渡り、☈1703年か
    ら1705年にかけて釜山の倭館に滞在して、朝鮮
    語を学び、この間、朝鮮側の日本語辞典『倭語
    類解』の編集に協力し、自らも朝鮮語入門書『
    交隣須知』を作成]。 また、江戸幕府将軍の就
    任祝いとして派遣される朝鮮通信使に、6代・
    徳川家宣の正徳元年(1711年。正使は趙泰億)
    と8代・徳川吉宗の享保4年(1719年。正使は洪
    致中)の2回、通信使の江戸行に随行(吉宗の時
    の使節団製述官・申維翰著『海遊録』に、雨森
    芳洲の活躍を描く)※1、☈
1720年、朝鮮王・
    景宗の即位を祝賀する対馬藩の使節団に参加し
    釜山に渡るも、朝鮮人参密輸など朝鮮政策に対
    する不満から、1721年、朝鮮方佐役を辞任。☈
    1729年、特使として釜山の倭館へ赴任、1734年
    対馬藩主の側用人に就任、藩政に関する上申書
    『治要管見』や朝鮮外交心得『交隣提醒』を記
    す。☈
1755年(宝暦5)、対馬厳原日吉の別邸
    で没す、享年88。
 

 

☑ プロフィール&エピソード

雨森芳洲は、江戸時代中期の儒者。諱は俊良のち誠清(
のぶきよ)通称は藤五郎・東五郎、号は芳洲、字を伯陽、
漢名として雨森東を名乗り、中国語、朝鮮語に通じ、対
馬藩に仕えて李氏朝鮮との通好実務にも携わった。新井
白石・室鳩巣ともに木下門下の五先生や十哲の1人に数
えられる。朝鮮との外交を担当した雨森芳洲
は、道理と
親交に基づく「誠信の交わり」を目指したといわれる。

☑ 朝鮮通信使がやってきた

✓1711(正徳元)年10月、朝鮮国王の国使・朝鮮通信使が、
 対馬、大阪、京を経由して、江戸に着いた。総勢 500
 人近い使節団が大名行列のように練り歩き、なかには
 馬術の曲芸師や強弓を引く武芸者がいたりし見物人た
 ち の目を驚かせる。

朝鮮通信使の目的は、1709(永宝6)年に将軍綱吉が
 没し、家宣が将軍になった祝賀。将軍の代替わりのた
 び、大規模な使節団が送り込まれる。この時、
新将軍
 の侍講、すなわち師である新井白石が、この朝鮮通信
 使接遇役を担う。白石は、華やかな通信使到来の舞台
 裏で様々な波風が立つ。
※10

✓白石と芳洲は、ともに江戸の儒学者・木下順庵の兄弟
 弟子。芳洲は通信使接遇に関する白石の改革案に異を
 唱える。白石の改革案の一つに、朝鮮国王から将軍に
 送られる国書の宛名――将軍を外交の場において「日
 本国王」と呼ぶ前例が室町時代にもあり、従来の「
 君殿下」から「日本国王」に変更しようとするが、芳
 洲は、まず「大君」という言葉はいろいろな意味で使
 われ、将軍を指すこともできるが、王といえば意味は
 一つ、その地の主権者ということである。そして日本
 国王と言えば日本の主権者という事になり、天皇の尊
 厳を冒すとして異を唱える。

✓白石は、大坂の客館に入った使節を日本側の使者が訪
 問する際、通信使が階の下まで降りて出迎えるよう要
 求したり、また国書中に先の将軍・家光の名の一字の
 「光」が入っているので書き換えを要求するなど、朝
 鮮側に威圧的な態度をとりこれが 対馬で出迎え、使節
 団に常時同行していた芳洲を悩ませる。

☑ 誠信の交わりとは何か

✓芳洲は61歳の時に、対馬藩主に対朝鮮外交の心得を説
 いた『交隣提醒』を著す
。そこでは多くの外交紛争の
 事例を挙げた上で、最後に互いに「欺かず争わず」の
 「誠信の交わり」を説く。「争わず」とは対立点につ
 いて妥協して、とにかく丸く収めようとすることでは
 ない。主張すべきは主張して、互いの理解に至った後
 で生まれる本当の友好であると。こういう「誠信の交
 わり」を実現するためには、相手への文化的理解と、
 筋の通った合理的主張が両輪となる。300年近くも前に
 近代的な外交を説く人物を輩出する。

✓思想的には大陸思想(小中華思想)を信仰し、自身が
 日本人である事を悔やみ「中華の人間として生まれた
 かった」と漏らした記録が後世に伝わる。

✓当時日本で流行していた男色を、芳洲も嗜んだようだ。
 申維翰は、日本の男色趣味を「奇怪極まる」と眉をし
 かめ芳洲に苦言を呈したおり、「学士はまだその楽し
 みを知らざるのみ」と逆に諭されたという。

 

☑ 芳州の名言

 桜に百年の樹少なく、松に千年の緑多し。繁栄の極む
 るの家は数世を出でず、質朴を守るの家は百世を保つ


☯桜は古来、花王と称され日本の国花とし、古くは花と
いえば桜を指した。それと比べて、松はいたって地味な
樹木。桜のように散ることもなく、常に緑をたくわえ、
非常に長い年月栄え続ける。人間もこれに似たところが
ある。華やかであればあるほど、栄える時は短いことも
ある。


【エピソード】    

    

 

 

【脚注及びリンク】
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  1. 雨森 芳洲 Wikipedia 
  2. 雨森芳州|近世|歴史に残る人や文化財|わたし
    たちの市の歩み - 長浜市 
  3. 申維翰『海游録 朝鮮通信使の日本紀行』 姜在彦
    訳、平凡社東洋文庫
  4. 週刊東洋文庫1000:ジャパンナレッジ~『海游録
    朝鮮通信使の日本紀行』申維翰 著、姜在彦)訳注 
  5. 雨森芳洲―互に欺かず争わず真実を以て交り候、
    ミネルヴァ日本評伝選
  6. 人物 朝鮮の歴史 李 離和著 明石書店
  7. 雨森芳洲の涙 賈島 憲治 風媒社
  8. 雨森芳洲―朝鮮学の展開と禅思想 信原修 明石
    書店
  9. 東アジア交流ハウス雨森芳洲庵
  10. No.791 江戸時代の外交官・雨森芳洲 国際派日本
    人養成講座
  11. 朝鮮通信使と雨森芳洲
  12. 上垣外憲一『雨森芳洲―元禄享保の国際人』講談
    社学術文庫 ikipedia
  13. 滋賀県出身の人物一覧 Wikipedia    

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