金森長近

2018年11月05日 | 近江の思想

    

☑ か

作成日:2018.11.05|更新日:  

 金森 長近(かなもり ながちか)
先読みに闌けた近江育ちの不殺戦国武将
 ☈ 金森長近(1524-1608)は、戦国-江戸時代前期の武将,
大名。大永4年生まれ。織田信長,のち豊臣秀吉につかえ、
天正13年秀吉の命をうけ飛騨(岐阜県)の三木氏をほろ
ぼし,高山に城をきずく。関ケ原の戦いには徳川家康にし
たがい,功により美濃上有知(こうずち)など2万3000石を
加増され、飛騨高山藩主金森家初代となる。居城は上有
知の小倉城。6万1000石。茶人としても知られた。慶長13
年8月12日死去。享年85。美濃出身。本姓は大畑。初名は
可近。号は素玄。 茶の湯,蹴鞠などに堪能で,茶は養子可
重、さらにその長男宗和に受け継がれ,宗和は茶の湯金森
流の祖となる。

 2013.11.19

後に飛騨国高山城主となる金森長近は1541年(天文10年)
までこの地で育ち、父の姓大畑から改名し、金森を名乗
る。
戦国時代には、近在である三宅の蓮正寺と連携した
城としての機能が整えられ、湖南地域の一向宗徒の拠点
となっていた。金森の一向宗徒は、織田信長の近江入国・
比叡山焼き討ちの直前に、1571年(元亀2年)6月から9月
にかけて反抗。金森には近在の村々から一向宗徒が集結
したが、石部・常楽寺に本陣を構えた信長配下の佐久間
信盛によって攻められ、比叡山焼き討ちを優先した信長
と一時は人質を交換して和睦。



しかし、翌1572年(元亀3年)には信長は近在の百を越える
村々が「金森・三宅への出入や荷担をしないよう」とい
う起請文をとられ、町域はいったん荒廃しかけたが、同
年、信長により、楽市楽座の制札が与えられ、以後宿駅
・市場の二つの性格を持つ集落となった。その後江戸時
代に、琵琶湖渡航の主要港が矢橋港になると志那街道の
役割が薄れ、金森も衰える。

●守山市立図書館オープン 金森長近の書棚設置
11月1日、守山市の新市立図書館がオープン。記念式
典で宮本和宏市長は「新図書館は『本の森』をイメージ
した知の広場。温かみある空間で、ゆったり時間を過ご
してほしい」と利用を呼び掛けた。施設をデザインした
建築家の隈研吾さんらも加わり、テープカット。新図書
館一階の地域資料コーナーには、地元ゆかりの戦国武将、
金森長近に関する書籍やレプリカ像を納めた書棚が設置
された。江戸時代に長近が飛騨高山藩(現在の岐阜県高
山市)の初代藩主を務めた縁で、以前から守山市と交流
がある高山市の金森公顕彰会が、書籍とレプリカ像を寄
贈。同市の家具会社、日進木工がこれらを収める書棚を
贈った。書籍は百冊あり、レプリカ像は高山市の城山公
園にある銅像を小さくしたもの。

長近は幼少期から十八歳まで、現在の守山市金森町で過
ごしたとされるが、金森自治会の沢井進一会長によると、
当時の生い立ちを示す資料はほとんど残っておらず、足
跡にも不明な点が多いという。また、顕彰会の三川洋史
理事長(45)は、寄贈した書籍をきっかけにして、守
山市で長近への関心が高まることを期待。研究が進み、
新たな発見が生まれるとい」と願ったという(中日新聞
滋賀版 2018.11.01)。



●寺内町としての金森
14世紀に金森を支配していた川那辺厚春が本願寺五代
目法主の綽如に帰依し、金森は天台宗から浄土真宗に信
仰の基軸を大きく変えていった。その子川那辺在貞の時
代には金森惣道場が開かれるにいたり、さらにその子川
那辺矩厚は、存如に帰依し道西と名乗るようになった。
金森惣道場(金森御坊)を中心として民家を環濠で取り囲
んだ寺内町が形成されたのは、この道西の時代であると
考えられている。江戸時代の「金森地図」(金森御堂保
存)には、周囲に濠を巡らし、土居を築いた跡が見られ
ることから、金森は宗教的性格と防御の城郭的機能をあ
わせもった典型的な寺内町ということができる。現在も
周辺には濠跡とともに大門や城ノ下などの地名が残され
ている。当時、二百軒を越える集落であった。


1465年(寛正6年)、比叡山僧兵による「寛正の破却
にり大谷の地を追われた本願寺派の指導者・蓮如は高弟
であった道西のもとに身を寄せた。さらに、付近の門徒
衆を結集し比叡山の山徒衆に反抗。これを金森合戦とい
い、史上初めての一向一揆である。1466年(文正元年
)11月には「報恩講」を勤修した。蓮如は1469年(文
明元年)は対岸の堅田へ移動したが、金森は本願寺派の
中心地として栄え、金森御坊を中心とする計画都市が形
成された。


戦国時代には、近在である三宅の蓮正寺と連携した城と
しての機能が整えられ、湖南地域の一向宗徒の拠点とな
っていた。金森の一向宗徒は、織田信長の近江入国・
比叡山焼き討ちの直前に、1571年(元亀2年)6月から9
月にかけて反抗した。金森には近在の村々から一向宗徒
が集結したが、石部・常楽寺に本陣を構えた信長配下の
佐久間信盛によって攻められ、比叡山焼き討ちを優先し
た信長と一時は人質を交換して和睦した。しかし、翌
1572年(元亀3年)には信長は近在の百を越える村々が「
金森・三宅への出入や荷担をしないよう」という起請文
をとられ、町域はいったん荒廃しかけた。しかし同年、
信長によって楽市楽座の制札が与えられ、以後宿駅・市
場の二つの性格を持つ集落となった。その後江戸時代に、
琵琶湖渡航の主要港が矢橋港になると志那街道の役割が
薄れ、金森も衰えた。

 Wikipedia

現代の金森
守山市金森町として、本郷・城之下・上代・川向・信楽
の5地区を有する自治会として活動している(約450世帯)
(かつての寺内町は本郷地区)。また、金森山柿(約70世帯
)は自治会として独立している。金森川と案内川河川公園
で、ゲンジボタルの保護活動と絶滅が心配されているハ
リヨ育成活動が行われている。


近年、自治会内を南北にくすの木通り(市道古高川田線)
が通った。さらにJR守山駅から市道泉町金森線がくすの
木通りを通過して滋賀県道42号草津守山線(湖南街道)ま
で東西に横切り、交通の便が格段に向上した。また県・
市の区画整理事業の対象となっており新たな住宅地の建
設が続いている。医院、スーパーマーケット、県立守山
中学校、市立守山南中学校、県立守山高等学校、立命館
守山中学校・高等学校、守山市民ホールなどが近接して
いる。
 

  

【脚注及びリンク】
-------------------------------------------------------  

  1. 守山・新市立図書館オープン ゆかりの武将・金森
    長近の書棚設置:中日新聞(CHUNICHI Web) 2018.11.
    02賀県 
  2. 守山で講演会-地元出身の飛騨高山初代藩主「金森
    長近」テーマに - びわ湖大津経済新聞 2013.11.19
  3. 金ケ森城(滋賀県守山市)の詳細情報・周辺観光
    ニッポン城めぐりめぐり
  4. 歴史のまち 守山  
  5. 治水の歴史|水のめぐみ館「アクア琵琶」  
  6. 滋賀県出身の人物一覧 Wikipedia    

-------------------------;------------------------------