浅井亮政・久政・長政

2017年08月12日 | 近江の思想

    

☑ あ

作成日:2017.0810|更新日:  

♞ 浅井 亮政(あざい すけまさ)

☑生誕:1491~1542 北近江国 
☑略歴:北近江の国人である浅井氏の庶流、蔵人家・浅
    井直種の子として誕生。幼年期は不詳、浅井氏
    嫡流で従兄弟浅井直政の娘蔵屋と結婚し嫡流を
    継承。☈1517 主家で北近江の守護、京極高清と
        不仲に☈1523 京極氏での家督争いが起こると尾
        上城主
の浅見貞則を盟主として京極高延に味方
        し守護
の京極高清、守護代の上坂信光が籠もる
        今浜城を襲って勝利(今浜城の戦)。守護代と

        なった浅見貞則が京極家の実権を掌握し、専横
        を揮う。☈1524 小谷城を築城し居城。国人を
    糾合し浅見貞則を攻めて追う。これにより北近
    江の実権を掌握。☈1525  浅井亮政の台頭に危
    機感を覚えた南近江の守護、六角定頼と対立。
        越前国の朝倉氏に救援を求め朝倉宗滴の調停を
        受けるが、六角定頼に小谷城を攻められ敗北、
        開城し、京極高清とともに一時美濃国へ逃れる。
       (小谷城の戦)☈1528 上坂信光が京極高慶を擁
        して敵対、内保河原で戦うが勝利。(内保河原
        の戦)☈1531 箕浦河原の戦で六角勢に敗北.

        1534 京極高清を小谷城に招き饗応、和睦。☈
    1535  海津の戦で六角定頼に敗北。☈1538 鎌
    刃城の戦で
 六角定頼に敗北、その際佐和山城を
    
失う。国友河原の戦で六角定頼に敗北、小谷城
    
に立て篭もる 京極高清が死没すると、その子
    
京極高延を擁立 ☈1540  養父、浅井直種が死没
        ☈1542年 享年52 死没
☑分野:武人/戦国大名

♞ 浅井 久政(あざい ひさまさ)     

☑生誕:1526~1573  近江国小谷城
☑略歴:浅井亮政の長子として誕生、生母側室馨庵。北
    近江の戦国大名・浅井氏2代目当主。☈1542年
    父浅井亮政の死没により家督を相続 その後、
    六角家の勢力に押され、配下となる。☈1559年
    嫡男の浅井長政により隠居させられる。☈1560
    年 子の浅井長政が、初陣である野良田の戦で
    六角(義賢)承禎を破り、北近江に独立。その
    際援助を受けた越前国の朝倉義景と同盟☈1567
    年 美濃国を版図に入れた織田信長とも同盟し、
    信長の美貌の妹、お市の方を浅井長政の正室に
    迎えるも、浅井家の後ろ盾であった越前国の朝
    倉氏と織田氏の関係から結婚には反対。☈1570
    年 上洛に成功した織田信長が、越前国の朝倉
    義景討伐に際し、以前から朝倉氏との誼から信
    長攻めを主張。☈1573年 小谷城の戦で織田勢
    に攻められ、長政と共に自害、享年48
☑分野:武人/戦国大名 




♞ 浅井 長政(あざい ながまさ)     

☑生誕:1545~1573 浅井久政の嫡男として、六角氏の
    居城・南近江の観音寺城下(現在の滋賀県近江
    八
幡市安土町)で生まれる。幼名は猿夜叉丸。
☑略歴:戦国時代の武将。北近江の戦国大名。浅井氏の
        3代目にして最後の当主。浅井氏を北近江の戦
    国大名として成長させ、北東部に勢力をもって
    いた。妻の兄・織田信長と同盟を結ぶなどして
    浅井氏の全盛期を築いたが、後に信長と決裂し
    て織田軍との戦いに敗れて自害。浅井氏は滅亡。
    官位は贈従二位中納言。☈1559年 父の浅井久
    政を隠居させ、家督を相続、六角家から来てい
    た妻を離別。☈1560年 初陣である野良田の戦
    で六角義賢を破り、北近江に独立。その際援助
    を受けた越前国の朝倉義景と同盟、信長との同
    盟☈1570年 金ヶ崎の退き口(織田信長を裏切
    り朝倉義景、織田信長、京都へ退却(金ヶ崎の
    退き口)、姉川の戦で、織田信長に敗北、志賀
    の陣を経て織田信長と一旦和睦、織田信長の比
    叡山焼き討ち☈1573年 小谷城の戦で、織田勢
    に本拠小谷城を攻められ父浅井久政が自害、妻
    のお市の方や3人の娘を羽柴(豊臣)秀吉に引
    渡し自害。浅井家は滅亡(享年29)
☑分野:武人/戦国大名 

系譜

浅井氏は始祖を正親町三条公綱(公家の嵯峨家)の落胤
とする家系伝承を持ち、本姓を藤原氏と称するが、江北
に古くから土着している豪族に浅井氏があり、平安時代
や鎌倉時代の記録に既に名が見える、古来の浅井氏に、
公家の子息が入り婿したとも伝えられる。室町時代には、
守護・京極氏に従う国人領主の一つとして頭角を表す。
やがて梟雄・亮政が越前・朝倉氏の後援によって国人一
揆の盟主格であった浅見氏を倒し、江北第一の勢力とし
て台頭するに至った。※4

天下布武 織田-浅井同盟

近江の一豪族の浅井氏が一躍脚光を浴びることとなるの
は日本の王権制樹立(天下布武)を目指した "織田信長
野望" にある、とはいえ、信長は美濃攻略後に井ノ口
を岐
阜と改名した頃から「天下布武」という印章を用い
てい
るが、訓読で「天下に武を布(し)く」から、「武
力を
以て天下を取る」「武家政権を以て天下を支配する」
いう意味に理解されることが多いが、その真意は、軍
力ではなく、中国の史書からの引用で七徳の武――武
用いて、暴を禁じ、戦を止め、大を保ち、功を定め、
を安んじ、衆を和し、財を豊にする――とは、政者の
を説く内容の「武」であったと解釈されている。※7


従来、「天下布武」とは天下統一、全国制覇と同意であ
ると解釈され(織田信長合戦全録、谷口克広  中央公論
2002)、信長は「天下布武」達成のために領土拡張戦争
を行ったとされてきた。しかし2010年代の歴史学では、、
戦国時代の「天下」とは京都を中心とした五畿内(山城、
大和、河内、和泉、摂津の5ヵ国。現在の京都府南部、
奈良県、大阪府、兵庫県南東部)のことを意味し、「天
下布武」とは五畿内に足利将軍家の治世を確立させるこ
とであり、それは足利義昭を擁して上洛後、畿内を平定
し、義昭が将軍に就任した永禄11年9月から10月の段階
達成された事、とされている。※7

 
南近江は織田政権の生命線※5

信長は、足利将軍家の血縁者(足利義昭)これを押し立
て京へ入り将軍の座へ祭り上げ、「将軍
家の再興」を旗
印にし権力の地固めを行い、将軍の名で商人や
寺社に献
金させる、あるいは将軍の名で上洛命令を出し、従わぬ
大名は征伐し、その領地を奪うなどで、次に、信長が考
えていた最も有力なルート――美濃国を経て近江国に入
り、そこから京へ入る――まず美濃国の斎藤義龍を倒し
そのために最もよい方法は近江国の大名と同盟を結ぶこ
ことで、儒長が同盟可能な近江の大名は2人。北近江の
浅井長歌と南近江の六角義賢、長政から――室町時代以
来の名門大名である六角よりも、新興勢力でクーデター
で成立した、重臣の意見に左右されにくい政権基盤が強
固で信長の政権出自の類似性もあり浅井方を選ぶことに
なるが、その同盟条件は次のように考えられている※4。

  1. 玉美漫画の斎藤氏、南近江の六角氏を織田・浅井
    の共通の敵として共同してこれにあたる。
  2. 浅井は織田の上洛および京の支配を認め側面から
    これを援助する。
  3. 同盟を強固なものとするために、長政は信長の妹
    お市を正室として迎える(斉藤家との縁を切りた
    い織田方の強い意思を反映)。

この同盟がこそが、その後の浅井一族の数奇な運命を決
定していこのだがそれを簡単に整頓する。

同盟破棄・信長包囲網

✓ 金ヶ崎の戦い

新興勢力である信長の「政権構想」(国づくり構想)は、
守旧派勢力(室町公武教諸派)と大きな軋轢を生み、室
町幕府(足利義昭)のしかけた包囲網との激闘段階に入
る。1570年(元亀元年)、信長が長政と交わした「朝倉
への不戦の誓い」を破り、徳川家康と共に琵琶湖西岸を
通過して越前国の朝倉方の城を攻め始める。長政は義景
との同盟関係を重視し、織田徳川連合軍を背後から急襲。
信長は殿を務めた木下秀吉らの働きにより近江国を脱出
する※8。この事変により、信長が最も信頼していた徳
川家康と浅井長政の浅井に裏切られたことで、信長の生
涯を通じてのトラウマとなりこれ以降の信長の軍事的行
動様式を規定し残酷な頭首に変貌する。

✓ 姉川の戦い

同年6月、長政は朝倉軍とともに、近江国・姉川で織田
徳川連合軍と戦う(姉川の戦い)。先鋒の磯野員昌が織
田軍の備え13段のうち11段まで崩す猛攻を見せ、織田軍
は敗走の用意をしていたという逸話はあるものの、信憑
性は薄い――長政没後の浅井三姉妹の数奇な運命と絡み、
徳川家に嫁いだお江の方により江戸時代に長政に従二位」
の高官位に贈られているように、信長公記に記載されて
いない「長政の十一段破り」が捏造されたとみるのが合
理的である。※5、9。結局この戦は、織田徳川連合軍
の勝利に終わる。なお、当時浅井軍の名もない足軽だっ
藤堂高虎は、姉川の戦いに参戦し、織田軍に対し多く
の武功を上げて長政から感状を送られている。

この戦いの後、信長に脅威を覚えた本願寺(野田城・福
島城の戦い
)が、反信長の意志を表した(信長包囲網)。
9月には朝倉軍や延暦寺・一向宗徒と連携し、再び信長へ
の攻勢を強め(志賀の陣)、坂本において森可成や織田
信治らを討ち取る。信長が足利義昭に和睦の調停を依頼
し、さらに朝廷工作を行い、12月に信長と勅命講和。浅
井氏と協力関係にあった延暦寺は、1571年(元亀2年)
9月に信長の比叡山焼き討ちにあい壊滅する。一見する
と残忍な戦闘行為ではあるが、信長からすれば、宗教宗
門の政教分離・武装解除政策を意味するが、後の豊臣・
徳川の「八宗九宗」「バテレン追放令」「キリスト教禁
止令」として継承されていく。

✓ 小谷城の戦い

1572年(元亀3年)7月、信長が北近江に来襲。長政は
父の代からの同盟者である朝倉義景に援軍を要請、義景

は1万5千の軍勢を率い近江に駆けつける。同年9月、
軍・足利義昭の要請に応える形で武田信玄が甲斐国を
進発。長政・久政親子宛に書状を送る。同年12月、北近
江の長政領に在陣の朝倉義景の軍が越前に帰国。義景の
撤退により、北近江に縛られていた織田軍も美濃に戻る。
翌年2月に信玄は進軍を再開し、家康領の野田城を攻め
落とすも信玄の急死により武田軍は甲斐に退却。

1573年(天正元年)7月、信長は3万の軍を率い再び北
近江に攻め寄せる。長政は義景に援軍を要請、義景は2
万の軍で駆けつけるが織田軍勢は北近江の城を即座に落
とし、浅井氏の救援は不可能と判断した義景は越前国に
撤退。撤退する朝倉軍を信長は追撃して刀根坂にて壊滅
させ、立て直す隙を与えずそのまま越前国内へ乱入し朝
倉氏を滅亡(一乗谷城の戦い)させ、全軍を浅井氏に向
ける。
本拠の小谷城を織田軍が包囲。信長は不破光治・
木下秀吉を使者として送り降伏を勧めたが決裂。8
月27
日父の久政が自害。9月1日、長政は小谷城内赤尾屋敷
にて自害、 享年29。



蓋し、浅井三代は浅井三姉妹として現在の今上天皇まで
その系譜が脈々とながれている。それも、ポスト応仁の
乱に独自
の確固たる構想力(理念・ビジョン・戦略)を
携え登場した希代の英傑織田信長により光を浴び、この
地北近江に戦国ロマンの華を添える。        



【エピソード】    

 


【脚注及びリンク】
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  1. 小谷の歴史|小谷城戦国歴史資料館 
  2. 小谷城コース|戦国の舞台 近江を歩く 
  3. 負けるたびに強くなる…浅井亮政の底力: 今日は
    何の日? 
  4. 浅井久政 Wikipedia 
  5. 英傑の日本史 激闘織田軍団編 浅井長政 株式会
    KADOKAWA
  6. 野良田の戦い Wikipedia 
  7. 織田政権 Wikipedia 
  8. 金ヶ崎の戦い Wikipedia 
  9. 姉川の戦い Wikipedia
  10. 滋賀県出身の人物一覧 Wikipedia   

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