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靴下にはそっとオレンジを忍ばせて

南米出身の夫とアラスカで二男三女を育てる日々、書き留めておきたいこと。

ブレーキ解除

2012-02-17 01:17:04 | 思うに
家にはオートマティック式のバンと、小さなマニュアル式の車がある。先日、この古い茶色のマニュアル式の車を運転していたときのこと。中々思うように進まない。アクセルを踏んでもいつものようにスピードが出ない。上り坂ともなるとウィンウィンと威勢のいい音をたてながらも走ったほうが速いのじゃないかという速さで進んでいる。

あっ、とようやく気がつく。助手席との間に手をやると、ハンドブレーキがかかったまま・・・。時々やってしまうこと。

このハンドブレーキを解除した瞬間、それまでとは打って変わって勢いよく進み始める感触。その度に思い出すことがある。

歩みを重くする要因を解除していく」ということ。

まるで大きな足かせをズルズルと引きずっているかのように歩いていることがある。

Stephen Coveyが整理していた「進みを抑止する要因」が分かりやすい:

カオスchaos(恐れfear、被害者意識victimism)
無秩序disorganization(無関心ignorance、無駄futility)
怠惰laziness(倦怠boredom、現実逃避escapism)
満足contentment(所有欲sense of ownership、自身にのみフォーカスしたヴィジョンself-focused vision)

ハンドブレーキが解除されているのなら、少しアクセルを踏み込むだけでもびゅんびゅんと進んでいく。少しの足の踏み加減が、進み具合にシャープに如実に表されていく。

あのハンドブレーキを下ろす瞬間の感覚、覚えていたい。

シナジー、違いを生かし合い

2012-02-10 00:53:07 | 思うに
エンパシックな理解の先にあるのが、シナジー。

シナジーは1足す1が2ではなく、3や4になっていく状態。1と1が合わさりそれまで思いもつかなかったような新しい創造物が生み出される化学反応のようなもの。

互いの違いを受け入れ認めるだけでなく、違いを心の底から祝えるとき、シナジーが可能となる。

心臓は血液をパンプし、肺は酸素を血液に送り込み、手は掴み、足は地面を蹴り、脳は信号を送り筋肉が身体を動かし。肺が心臓と同じ動きをしようとし、足が手となり、脳が筋肉の真似をするのなら、身体は成り立たない。各箇所がそれぞれ違う機能を果たすからこそ、各箇所の働きをはるかに超えた創造物、身体という存在が可能となる。

自身を抑えて相手に合わせるのでもなく、自身に合わせさせ相手を抑え込むのでもなく。違いを生かし合い新しい着地点を共に創りだす。奥底の安心感(security)を土台に、自身を開き未知の創造へと飛び込んでいく。


子ども達一人一人の違い、夫婦間の違い、その違いを祝うことから始めていきたい。

誤解を解く

2012-01-27 23:57:49 | 思うに
人間関係の問題の大きな原因が「誤解」と聞いたことがある。

同じデータ現象をどう解釈するかのくい違い、

同じ言葉をどう定義するかのくい違い。

理解しようとすること、

自身の見方フィルターを安易に当てはめジャッジするのでなく、

相手の文脈にたって理解しようとすること。

そんな簡単に相手のことが「分かる」なんてありやしない。

理解し続けようとすることが、「誤解」を解かす。

失敗から学ぶ、歴史から学ぶ

2012-01-15 01:56:41 | 思うに
時々思い出すのが、歴史家ギボン氏(Edward Gibbon 1737-1794)によるローマ帝国を滅亡に導いた5つの原因。

1. 家族構造の崩壊
2. 個人の責任感の弱小化
3. 過度な課税と政府の支配干渉
4. 快楽主義、暴力、不品行を増大させる悦楽の追求
5. 宗教の衰退


失敗から学ぶ、そう日々子どもに言い聞かせていることをちょっと当てはめてみる。

1.家族の形は色々だとしても、子どもを取り巻く最小単位を建て直していくことの重要性。
2.日々自身を振り返り、子どもにも教えていく。
3.そんな流れもあちらこちらに。関心をもち目を離さないことから。
4.何を「喜び」とするかの見直し。
5.人間を超えたものへの畏敬の念を思い出す、子どもにも教えていく。宗教という組織に限らず、自然、個々の内の無限にフォーカス。

一つ目の創造

2012-01-15 01:33:09 | 思うに
3つの創造」ということを書いたけれど、この一つ目の創造、心の中で描き「思う」といった時点で外に与える影響というのも確かにある。ただそこで終わりでなくそれは始まりであるということ。

数年前シカゴとモントリオールを旅したときに訪ねた科学館の体験型展示を思い出す。頭にベルトのようなものをつけ二人向かい合う。二人の間には透明な管が通っていてその中にはピンポン玉大のボールが。互いに集中してそのボールを相手側に押しやる。一切手を触れてはだめ。ボールを中央からより相手側に押しやることができたものが勝ち、というゲーム。

「リラックスした集中」が特定の脳波を生み出し、その脳波を読み取った機械がボールを動かしていくという装置。その特定の脳波をより整えることができた側が、ボールを押しやることができ、勝つ。

脳の状態のみで、実際に見える形の変化を生み出すことができるなんて!と随分と驚いた。技術がより発達するにつれ、いずれ「思う」だけで様々なことが実現していくということも可能なのかもしれない。あれやこれや妄想が膨らんだ体験だった。

一つ目の創造の大きさを思いつつ、二つ目、三つ目へ踏み出して。

三つの創造

2012-01-12 01:07:07 | 思うに
”All things are created twice” 「全てのものは二度創造される」という言葉を聞いたことがある。

一度目は心の中での創造。
二度目は現実的な身体を用いての創造。

手を用い言葉に落として書き出すことは二度目の創造の初めの一歩。
自身にとっては「全てのものは三度創造される」と言ってもしっくりとくる。

一度目、心の中
二度目、書き出す
三度目、実行

一度目二度目の、思い、書き出すことで終わった気になってしまうことがある。

三度目の創造、身体を用いた創造、それは時には頭で想像していた何倍以上もの時間や労力を地道にこつこつと費やす必要がある。頭で描いた創造と現実的な創造がうまくかみ合わないこともある。三の実行を通しまた一度目二度目に戻り再構築し、また実行に向かい、そんな繰り返しを続けることで創造がより確固としたものになっていく。

若い頃を振り返ると、一の心の創造ばかり肥大、もしくは一と二の心や書き出し整理をすっとばしやみくもな三の実行のみ、だったり。何ともちぐはぐしていた。といって今しっくりとうまく合わさっているかというと、昔よりはということなのだけれど。

一度目二度目の創造で頭の筋肉はストレッチするけれど身体の筋肉は全くストレッチしないまま。三つの創造、筋肉のように使い鍛えていけば徐々に育っていくのだと感じている。

思うことあれやこれや

2012-01-09 02:03:23 | 思うに
わざわざ口で言わなくも形にしていかなくても、そう思うことでもどんどん形にしていく必要があると感じている。それは言語や文化背景の違う者同士が家の中で共に暮らしているからということがあるのだろう。以心伝心、とはなかなかいかない。

多分こうした異なる者同士の接触が世界中に目に見える(tangible)発展を生んできたのだろう。ネットの発展などで異なるものが個人レベルで入り混ざって行くこれからの日本も今まで何となく感覚で捉えられていたものをどんどん形や言葉にして行く必要があるのかもしれない。言葉にしていくことでそぎ落とされてしまうものは必ずあるけれど、だからこそよりよく表す努力をし続ける。

書かれた文化と書かれていない文化。ユダヤの強さは言葉で書き留められていることにある。離散を余儀なくされた故、どこにいてもユダヤであれるフォーマットが整えられている。何千年も前からの知恵知識歴史伝説が書き留められ、その書き留められたことに対しての議論が書き込まれ続けている。

多分人類はより見えないものを察知する能力を磨く方向へと今後進んでいくのだろう。それでもまだまだ言葉にしていかなくては。精一杯の行為の過程が今後に繋がっていくのだから。センシティブな言葉、言葉と言葉になる以前の境界にあるような言葉が察知されやすくもなっていく。個人レベルで個々の奥にあるそれまで捉え切れなかったことをどんどん出して。

あれやこれやの妄想、載せようか迷ったけれど、多作多捨で。

自身の言葉に耳澄まし

2012-01-03 00:00:07 | 思うに
自身が繰り返している言葉に耳を澄まし、言い換えてみることで、ぱっと目の前が開けることがある。

ホント思い通りに行きやしない  → 思い描く方向へ進んでいくために何ができるだろう 
この子はこんなこともできないで!→ どんな方法で教えていけばこの子にこれが身につくのだろう
あの人ったらこんなこと私にして → あの人との関係改善のために何かできることがあるだろうか
ちょっと私に当たらないでよ   → 彼の気持ちが落ち着くようお茶でも入れてあげようか
掃除してもしてもすぐに散らかして→ 片付ける習慣を身につけさせるにはどうしたらいいだろう。
                   いつもきっちり片付けさせてる~さんに今度聞いてみよう。
時間がない!          → どうしたら時間を搾り出すことができるだろう。どうアレンジしよう。

何か問題がある、何か気にかかることがある、ならば解決のために何ができるかと考え動いていく。

しゃがみこみ「あれされたこれされた」と嘆く時間を、「ああしようこうしよう」と動き回る時間へ。

選択「させられる」のではなく選択「する」。自身の主体性を立ち上げて。

IQという「ものさし」

2011-11-23 00:55:03 | 思うに
IQテスト、上三人も心理学者と一対一でいくつか受けたことがある。英語を用いたものや言語を用いないもの。「世界共通」という例題をいくつか見せてもらいながら結果の説明を聞く。5歳くらいで受けるIQテストは、パターン認識、図形、間違い探し、記憶、迷路などから成っている。

12歳くらいまでのIQテストのスコアには、年齢が大きく絡んでくる。5歳で10歳の問題が解ければIQ200なんてこともあり得る。前倒しで問題が解けるのなら高いIQ。だからといってそれらのスコアが全く変わらず一生続くわけでもなく、小学校一年生時のIQよりも小学校3年生以降のIQの方が大人になっても変動が少ないとされているけれど、後になって単に早熟だっただけということもあり得る。

IQテストを見て思ったのは、「知性」のほんの一部分を切り取り測ったものということ。「ものさしの一つ」にすぎないということ。「ものさし」があれば、高い低い長い短いという順列は生まれるけれど、「ものさし」を変えるのなら全く違う高い低い長い短いになる。

山間部や離島などの辺境地域に暮らす子の方が都市部に暮らす子よりもIQテストのスコアが低いという比較結果もあるようだ。世界中の様々な地域に暮らす民族的にも、IQテストで高いスコアを出す人々とそうでない人々がいるという。

IQテストは「普遍的な頭の良し悪し」を測るわけではなく、単に世界で色々な意味で力を持っている集団が掲げる「ものさしの一つ」、そう思う。

もっと様々な「知」を測る「ものさし」があればいいのにと思うことがある。鳥の声を聞き分けられる、海の状態で魚の群れの動きが分かる、空の色で明日の天気が分かる、野生動物の糞を見てその動物がどんな状態であるか分かる、仮面を彫るのに最適な流木を見分けられる。辺境の村々に暮らす子ども達はそんな「ものさし」で測れば、とてつもない高スコアをはじき出すのかもしれない。

そんなことを思いながらネットを見ていたら、潜在能力を測るPQ(後HQに。英語のWikipediaにはPQ、HQどちらもないのだけれど)や創造性を測るCQなんて試みもあるらしい(失敗しているらしいけれど)と知った。情緒面社会性面を測るEQ、EIなどはよく聞くけれど。

他者の気持ちが分かる、正直であれる、見返りを求めず他者を思いやれる、そんなことに飛びぬけた能力を表す人々もいる。人前に出ることなく静かに笑っているそんな彼ら彼女。

世界が様々な「ものさし」の溢れる場であったら。この「ものさし」にはひっかからないけれど、あの「ものさし」では飛びぬけている、そんな一人一人違った得意分野が生かせ合えたら。そんなことを夢想しつつ。


参照:ウキペディア(知能指数、PQ)、Wikipedia(EQ、EI)

ゴールに向かって

2011-11-17 01:41:49 | 思うに
この先一年くらいを目処に、形にしていきたいものがあり、何とかかんとか日々少しずつでも進んでいこうとしているのだけれど、あまりにもそのゴールが遥か遠くに見えて途方にくれることがある。

「だめだめ、全然だめ、あなたにそんなことできるわけないじゃない」そんな自身の内に聞き慣れた声が大きくなる。砂浜でうつむいてカニと戯れていたくなる。(笑)

ゴールへ至る道を整理し、できそうなゴールに細分し目の前に置いていく。それらのゴールを一つ一つクリアし積み重ね。内に様々聞こえる声には「はいそうですか、叱咤激励ありがとう」と答えつつ、身体で確実な一歩一歩を踏み出していく。

皆さんの歩いていく道、応援してます。

ここ何日間を通して

2011-11-11 01:59:54 | 思うに
ここ何日かの出来事や読んだり書いたりしたことから学んだのは、結局「変わっていけると信じることの力」、ということなのだと思う。

今ある状態や状況は「過程」であり、がんじがらめに固定されたものではない。

「失敗」も「成功」さえもよりよくなるための「過程」として。


終わりなき過程、その進む方向を決めるのは、今ここで踏み出す一歩。

「この一歩が後の7世代に影響を与える」、そんなネイティブ・アメリカンの諺を思い出しつつ。

リスを食べた、ハエを殺した

2011-10-30 01:02:05 | 思うに
山の中で玩具の銃で遊んでいてリスを撃ち殺した子どもに親がそのリスを食べさせた、という話を昨日友人と話していたときに聞いた。

似たような話をこれまでも何度か聞いたことがあった。

猟に出かけ、子供が弓矢などで射殺したリスを食べさせたという話。「殺したのなら食べるというのがルール」その親たちも言っていた。火をたき、毛をむしり、丸焼きにして食らいつく。

普段他人に殺してもらい処理してもらったものを店で買って食べているわけだけれど、それがいかに全過程の一部を切り取っただけのものかと、はっとさせられる。

上の例は皆元々ヨーロッパから渡ってきた祖先を持つ人々の話だけれど、昔先住民の人々の村で聞いた話を思い出した。

そのアラスカ南西部の村では子どもが5.6歳になり「初めてハエを殺した日」を祝う。「殺すことができたということは、一人で生きていけるということなの」そう先住民の女性が教えてくれた。

命は他の命を犠牲にすることによってなりたっている。そのことを忘れず、多くの命の上にこうして生かされていることに感謝し暮らしていきたい。

失敗を通して

2011-10-26 00:16:13 | 思うに
失敗に対して寛容、こちらに来てとても感じることのひとつ。

寛容というより、失敗にあまり関心を払わないといった方があっているのかもしれない。

そこから立ち上がれるか立ち上がれないかも本人次第。立ち上がらなくても忘れられるだけ。ただもし立ち上がって再びそれなりのものを生み出すのなら、過去の失敗にこだわらず人々は両手を広げ受け入れてくれる、そんな雰囲気がある。

週末ちょっと間抜けな失敗をし、そんなことを再び感じていた。日本だったら「腹切り」もの(笑)だったかもと思うような失敗。周りのドライさがありがたかった。おかげさまで歩みに集中できうまくいった。立ち直るよう気持ちを整えていくのも自分次第、周りからの雑音のない静寂の中でそう集中できる時。

周りを見ているとこれは私が移民「よそ者」である(多少早い遅いはあれどこの国はほとんどが移民で成り立っているのだけれど)からということでもなく、行き渡った雰囲気のように感じている。

個の信頼尊重、そこからくる徹底した自己責任。周りは自分が動かなければ何もしてくれないが、同時に雑音もたてない。

過去の「失敗」にも「業績」にさえもよりかかることなく、「では今どうあるのか」ということに立ち返らせてくれる。

ここ何日かの体験を通し再び強く感じていたこと。

「仲裁者(ミディエイター)」

2011-09-27 00:02:59 | 思うに
長男長女次女の通う公立小学校では、4年生以上になると「仲裁者(ミディエイター)」という係りがある。各クラスから4、5人、全校で50人近く。

放課中生徒間で何かいざこざがあった場合、平和的に双方ウィンウィン(win-win)となるよう「調停・仲裁(ミディエイト)」する係り。

10日程前「ミディエイターになれたの!」と迎えの車に乗り込むなり長女が嬉しそうに言った。3日間1日中授業をぬけトレーニングを受けるという。そして先週終わりトレーニング修了式があった。

ミディエイター養成プログラムのテキストを片手に毎晩トレーニング内容を興奮して話す長女。とても貴重な体験をしたよう。

生徒に解決の仕方をトレーニングし、生徒間のいざこざを生徒同士で解決させようというのはとてもいいことだと思う。

ミディエイター養成プログラムによるミディエイトの手順:

1.ミディエイターとしての自己紹介、ミディエイトを始めるにあたっての注意事項説明
2.聞く
3.解決策模索
4.解決
5.レポート

1では、相手を遮らない、真実を告げる、解決への努力、などへの双方の同意。

2では、「何が起こったの?」、「どういう気持ちになった?」と双方に質問、ミディエイターは返答を「そのまま繰り返す」。

3.「どんな違うやり方があったと思う?」「解決するためには今どうしたらいいと思う?」と双方に質問、返答を「そのまま繰り返す」。その他にも解決に向けての創造的な「質問」をする。「あなたが相手だったらどう感じる?」などなど。「カエルの選択」なども用いて。

4.解決に双方が同意したことの確認。解決を祝う。

5.レポート用紙にミディエイトしたことを記入提出。

ミディエイターの意見を押し付けるのでなく、いざこざの本人同士が解決策を導き出す手伝いをする、という姿勢を教えられたらしい。ミディエイターはあくまでも起きたことや気持ち考えを整理することを手伝うのみ、答えは本人たちから。



ミディエイターという職業があるというのを知ったのはこちらに来てからだった。ミディエイターになることを目的とする大学の専攻もあるらしい。世界中あちらこちらのいざこざを熟練ミディエイター・プロ集団で何とかできないものか。

仲裁のプロとはいかないまでも、仲裁のフォーマットを知っておくのはいいだろう。その上に自分なりの「創造的な質問」も考えていき、改良もしていき。

まずは家の中でもミディエイターを持ち回りで、と思ったり。兄弟姉妹間だけでなく夫婦間のいざこざにもどうだろう。子供にミディエイトされるならすっと目が覚めるだろうなお互い。(笑)


実際のミディエイト体験を通して、様々なことを学んでいってほしい。

祈り

2011-09-25 00:00:08 | 思うに
奥深くに何度もよみがえる祈り。

エゴを、ふと目を離すと自身のハンドルを握っているこのエゴを、鎮め溶かす力を。


アッシジのフランチェスコを象徴として胸に。

「Prayer of Saint Francis」

Let me be an instrument of your peace.

Where there is hatred, let me sow love.
Where there is injury, pardon.
Where there is doubt, faith.
Where there is despair, hope.
Where there is darkness, light.
Where there is sadness, joy.

O Divine Master,

grant that I may not so much seek to be consoled, as to console;
to be understood, as to understand;
to be loved, as to love.

For it is by self-forgetting that one finds.
It is by forgiving that one is forgiven.
It is by dying that one awakens to eternal life.

「聖フランチェスコの祈り」

平和を奏でる道具であらせてください。

憎しみのあるところに愛を、
傷みのあるところに赦しを、
疑いのあるところに信を、
絶望のあるところに希望を、
闇のあるところに光を、
悲しみのあるところには喜びを。

神聖なるマスターよ

慰められることばかり求めるよりも慰めることを、
理解されるよりも理解することを、
愛されるよりも愛することを。

人は自分を忘れてこそ、見いだし、
赦してこそ、赦され、
死んでこそ、永遠の命に目覚めるからです。


『これはフランチェスコの作ではない。初出は、パリを本部とする信心会 La Ligue de la Sainte-Messe の機関誌 la Clochette の1912年12月号であり、作者は同信心会の創始者 Esther Bouquerel 神父であるとされる。初期は、特にフランチェスコに捧げたものではなかった。にも関わらず、「平和の祈り」は聖フランチェスコの精神をよく伝える祈りであるとされ、多くの人に愛唱されている。』(ウキぺディアより)