靴下にはそっとオレンジを忍ばせて

南米出身の夫とアラスカで二男三女を育てる日々、書き留めておきたいこと。

コギト・エルゴ・スム

2011-06-24 23:58:52 | 思うに
近代以前の 「神思う、ゆえに我あり」


「我思う、ゆえに我あり(コギト・エルゴ・スム)」 で始まった近代


これからは 「神思う、ゆえに我あり、我思う、ゆえに神あり」 でどうだろう


私がここで「どうだろう」、てったって何がどうなるものでもないんですが。(笑)


個々の「我」というフィルターを通して表された「神」は個々独自の形をしており、
それでも形を超えたところではひとつであり。

そしてその形を超えひとつとなる場は、「我」一人一人の中心にある。

我と神 ひとつに

 


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5 コメント

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Unknown (Unknown)
2011-06-25 04:52:18
『神』と言うと、どうしてもキリスト教の神をイメージしてしまいますが、ここではそうじゃないですよネッ?
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またまた記名を忘れました (ちゅうりんげん)
2011-06-25 05:07:05
ここは自動で記名されないのですね!
『我思う、故に神有り』は納得です。神が僕をこの世に残さなかったら、此処で考える事は出来なかったからです。8年前、神は僕をこの世に残す事を選択したのです。今は『与生』を生きてます。しかし、左半身は痺れたままで生かされています。
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Unknown (とりのさとZ)
2011-06-25 21:01:10
 ごめんなさい、同意できません。

 「我思わなくても」神は存在しています。

ただ、「我思えば」神の存在はより強く明らかになる、ということだと、私は思うけど・・・。
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ちゅうりんげんさんへ、コメントありがとうございます! (マチカ)
2011-06-26 06:00:12
自動明記の件、お手数おかけします。

8年前、脳梗塞から回復されたちゅうりんげんさんの「神は僕をこの世に残す事を選択した」という言葉、深く心に響きます。左半身の痺れとともにまさに「与えられた生」を日々実感として全身全霊で感じながら暮らされてらっしゃるのですね。

まだまだ観念だけ、言葉だけの私を思い知ります。言葉にするのは初めの一歩、どうその言葉を生きているかなのだと思います、日々精進していきたいです。

こうしてちゅうりんげんさんにお会いできたこと、心よりの感謝を込めて。


「神」についてですが、デカルトが否定し、自身は無神論だとして通した「神」は当時17世紀のキリスト教の神だったのだと思います。

「神」という言葉を用いるのは、本当に難しいのですが、私が感じ、ここで言う「神」は、言葉で様々に表されている「神」の源にあるエネルギーのような存在。そういう意味ではキリストの「神」で「も」あり他の宗教の「神」で「も」あり。

「神思う、」なんていう言葉で表されると、まるで「人格的」なイメージですが、エネルギーのようなものだと感じてます。
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とりのさとZさんへ、コメントありがとうございます! (マチカ)
2011-06-26 23:06:02
より考えるきっかけを与えていただいてありがとうございます。

感覚を言葉で表していく難しさを感じつつ、自身の感覚を離れた言葉を発さないよう気をつけつつ:

近代以前の「神」は、当時の教会組織や王を唯一絶対の「神」としたもの。

デカルトの「我」は、それまでの教会組織や王に虫けらのように踏み潰されてきた「個」にスポットを当てることになった。

「我思う、ゆえに我あり」は過程として必要だった。それまでの「神」もすべて否定する必要があった。「我」、「個」をまずは打ち立てるために。

けれども、その「我」が行き過ぎてしまっている。もうこのままの方向で進んでいってはもたなくなっている。だからといって「我―個」を「全」によって再び打ち消し踏みつぶす方向に進んでいくのがいいわけでもない。

そこでこれからは「我-個」を突き詰めることでいきつく「神―全」の存在が必要になるのじゃないかと。我を突き詰めてたどりつく神。「我-個」と「神―全」の究極のバランス、「我―個」を突き詰めることでいきつく我と神が重なる場、個と全が重なる場。

「神思う、ゆえに我あり、我思う、ゆえに神あり」はそんな「我と神が合一」した状態。

ただ「我と神の合一」はこの世で実現されたことが今だかつてない。そしてこれからもないのでしょう。なぜなら「神」は無限だから。それはただ方向としてあるだけ。無限に続く道、たどりつくことはなくとも目的地は示されている。

「神になる」というたどりつくことのない目的地へむかって進んでいく。

>「我思わなくても」神は存在しています

おっしゃる通りだと私も思います。「常に在る神」に「なる」ために歩いていくのだと。

>「我思えば」神の存在はより強く明らかになる

おっしゃるように、我思うことにより、より「神」に近づくことができます。


ただ、矛盾するようですが「我と神の合一」は常にあるともいえると感じています。常に、この世ではないところで。別の次元やあの世などとよばれるところに。人はそれを垣間見ることがあり体験することがある、そして、その合一の状態をこの世にできる限り真の合一に近い形で下ろし、表していこうとする、この世に下ろした時点で「違う」のですが、できる限り近い形で。


伝わりにくいとしたら、それは私の力不足ゆえです。大地に根をはったとりのさとZさんの言葉に触れ、ひょろひょろと積み重ねた言葉は崩れ落ちます。日々精進していきます。感謝を込めて。
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