靴下にはそっとオレンジを忍ばせて

南米出身の夫とアラスカで二男三女を育てる日々、書き留めておきたいこと。

一昨夜の体験に思う

2011-09-01 23:19:21 | 思うに
一昨夜のこと。

いつものようにキャンドルを囲みそれぞれが感謝の言葉、そして子供たちと抱き合いおやすみの挨拶を交わすと、ブランケットの温もりに潜り込んだ。

出張へ行っていた夫も戻って少しリラックス、夜集まったレゴ・リーグもわいわいと楽しかった、小説もほんのちょっとずつだけど進めて、教育関係のリサーチをもっとしたいな、しかし「観る」ということは本当にパワフルだなスカンとぬける、明日は久しぶりの「作って食べる会」ああ楽しみだあ、今日も一日ありがとうございます・・・、そんなことを思いながらいつしか眠る。

顔には笑みを浮かべながら。


深夜にバチリと目が覚める。時計をみると2時少し前。

圧倒的な重さがあたりに立ち込めている。「不安」と言う言葉にはもう入りきらない。「自分の不安」と囲ってしまうのならば、自分というものなど一気にぐしゃりと潰れてしまうような重さ。

以前なら一気に気が狂ってしまっていたかもしれないほどのもう「不安」とも呼べない「感覚」。重い闇。それでも、今ではとても静かな気持ちで眺めている自分がいる。

思う、一体全体これはどういうことなんだろう? 


何人かの知り合いの顔が浮かび、そして見知らぬ人々の姿が次から次へと通り過ぎる。

「観る」ということで私は何かを置き去りにしていたのだろうか? その置き去りにしてきたものが忘れ去られた反動でとてつもない力となって溢れ出しているのだろうか? それとも「観る」というトゥールを得たことによって溶かしていくためのより大きな課題がやってきているのだろうか? 今まで気がつかなかった奥深くに隠されたトラウマのようなものとか?

やがて圧倒的な温もりがやってくる。その温もりの光に包まれ、圧倒的な闇は小さな点に集約され温もりの中心に収まっていく。闇の点は消えないまま、それでも圧倒的な温もりに包まれている。


朝目が覚めると、少し重い。しばらく身体を動かし、まだ半分寝ぼけたような子供たちと話しているうちに、温もりが湧き起こってくる、その温もりは以前に増して強く、その日何度か涙が流れる、何だか嬉しくてありがたくて、といったような涙。



「隙」という言葉が浮かぶ。隙のない武士、というようなイメージが。

光と闇のバランスが崩れると、「隙」ができる。

私はあの「観る」ことで闇を消し去ったと、光だけみてうっとりと隙だらけになっていたのかもしれない。


「観る」ということは自身を「使いものにする」ためにあるのかもしれない。

まずは不安や闇に自身が飲み込まれないよう整え、自身を闇と対峙させておくために。



闇はなくなりはしない。多分、世界中に苦しむ人々がいる限り。

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