超人少年伝説

源氏物語千年 紫式部が突然現れ 紫式部氏思想を書くことになった

法律に殺された社会

2009-12-25 07:04:45 | Weblog
現代は法律によって国家が破壊された。

法律が絶対に正しい。
これは平行線が交わらない、即ち、排除原理の免疫系だ。

*。
絶対完全のなくなった世界、
百点満天のない社会、
ここに聳え立つ国家バベルの塔。

国家は間違っていても正しく、社会は正しくても間違っている。
この倒錯が、国家原理主義だ。

*。
国家は絶対に正しい。
この絶対が国家基準だ。

これは妄想だ。
だから反対を叩き潰す。

この能力が、国家能力だ。

      *。
国家は完全&絶対の誤りを自白した。

国家原理主義が国家のアリバイだ。

それは完全に誤っている。

*。
だがその誤りは証明されない。

国家はただの文章だから。

即ち、国家が完全に正しいというのは妄想であった。

*。
国家の誤りは、現実が実証する。

戦争と死刑、それが国家の誤りのトートロジーだ。

だがそれを見ることは、理性に出来ない。
理性も妄想だから。

    *。
これを超えた対偶恒等式だ。

自由と正義の対偶は、殺人と強盗だ

殺人を自由と上書きし、強盗を正義を上書きした。
それだけのことであった。

自由と正義の正体は、殺人と強盗だ。

*。
世界を両面から見る対偶恒等式だ。

秀吉も両面かな見なければならない。

現代人は 化石である

2009-12-25 06:34:30 | Weblog
現代は人を殺して、化石にして、それを弄くって喜びとする。

人は命を殺し、死体にして弄ぶ。
ここに命のない世界が生まれる。

命を殺した自分をいたぶる。
幽体分離して、命を殺し、その体を生きる。

命のない体、
人はこれを生きている。
これが金と官能と人情だ。

かってころをセックス・スクリーン・スポーツといった。

ここには死の本能だけがある。
ここには命はない。
その影があるだけだ。

それが消費社会だ。

   *。
人は高度の知性を作って、これを可能にした。
知性は命を殺す作業だ。

すると本能が盛んになる。

*。
命を殺すことが、人間疎外であり、
命を殺された疎外感が、心の闇だ。

命を殺された無力感と喪失感、
命をなくした寂寥感と孤立感、
自己暗殺から生まれる飢餓感と精神の貧困、
この世界に魂を揺らし、呑み込ませる。

*。
そこに人は満足し、
即ち、魂を自殺させる。

魂を殺すことが人の満足だ。

何もなくなる。
それが安心だ。
思い荷物を降ろしたような快感がある。

これは妄想だ。

      *。
妄想に魂を殺し、
その自己喪失を喜ぶ。

魂を殺して、そこを魂の置き場所にする。
命を破壊し、それを繋ぎ合わせ、それを喜びとする。

命は化石になった。
その復元を喜びとする。

*。
自己の命を殺し、その化石を復元する。
それが人の生きること、人の生きる意味となった。

これが記号化された消費社会だ。

この倒錯に気が付かない。
それを解明したゲーデルの不完全性定理だ。

言葉は 死の世界である

2009-12-25 05:46:10 | Weblog
ゲーデルの不完全性定理は生の世界の観測装置である。

言葉や文章や言説、ステートメントは死の世界であり、
文章にすることは、生を死で書くことである。

実に生そのものは書けない。
生は現存在を存在不可能にする可能性である。
現存在は、生を存在不可能にする手続きだ。

現存在は、死の世界である。
言葉になった世界は、死の世界である。
即ち、死は現存在を存在不可能にする可能性だ。

*。
人は生を死の世界から表現する。
それが文章である。

判決文も文学も、政治経済も、死の世界である。
これが記述の本質だ。
生は記述できない。

ロックや漫画は、生を記録したものである。
その記録から生を再現しても、それは死の世界である。
だが生と死を繋ぐ舞台である。

死と生の間に、舞台=ステージが出来た。
生を見る世界だ。

    *。
ハイデガーの現存在は、ステージ論である。
これは新しい生き方だ。
だが生そのものではない。

生を感覚する世界だ。
それがロックやマンガだ。

*。
判決文も文学も、政治や経済も、
死の世界から、生を再現しなくてはならない。

それは生があって出来ることだ。
その生を、舞台上に、再現する。

*。
判決文も文学も、政治や経済も、
生と多数の人が、再現する舞台である。

その前に生がなければならない。

その生を演技して、観客にその生を届けるのだ。
ロックや漫画は、生そのものを、観客に届けることだ。

   *。
判決文や文学は、生を観客に届けることだ。

政治や経済は、生を舞台で再現することだ。
その舞台に人が参加する。

*。
その前に生がなければならない。

それは源氏物語の構造である。
それは命を記録したものだ。

命があって、記録がある。
それを人は体験する。

     *。
命のない、判決文や文学、政治や経済は妄想である。

これが現代人の墓場となった。
そこには死しかない。

現代は死を生きている。

*。
これが権力が無力を殺して生きることだ。

即ち、国家は間違っていても正しく、国民は正しくても間違っている世界だ。

これが死の世界の本質だ。
否定の肯定の結果、生と死の取り違えが起きた。

      *。
現代は、妄想を生きたのだ。
そこではそれを否定するものの排除が行われる。
これが妄想の証拠だ。

これがいじめ社会であり、
被害者と加害者の自己同一化だ。

誰もがいじめられ、被害者で加害者だ。
いじめられまいと取り入る。
これがいじめることといじめられることの自己同一化現象だ。
それは否定の肯定だ。

これは生を失った世界の特性だ。

*。
現代人は皆死んでいる。

これをひっくり返す日本忍者道だ。