鼠丼

神の言葉を鼠が語る

<789> 230127 実家に虎がいた話(夢十夜の六)

2023-01-27 19:00:47 | 短編小説
 こんな夢を見た。

 妻と二人で空き家になった実家の整理をしている。お袋が亡くなったのは12月の末、寒い日だったのに、整理している部屋には西日が差しておりむしろ暖かい。時刻は夕方近くのはずなのに、まだ日があるところを見ると季節は冬ではないらしい。
 あれからずいぶん日が経ったのだろうか。

 お袋が生前使っていた財布を玄関で見つける。中にはお札やら小銭が入っており、ついさきほどまで使っていたかのようだ。
 ずっとお袋がその財布を使っていたと考えると、急に悲しい心持になる。財布を両の手で包んで、「お母さん、お母さん」と何度も呼んでみる。私は彼女の生前いつも「お袋」と呼んでおり、涙と共にお母さんという言葉が急に口を突いて出たのに驚く。

 しばらく部屋の中を整理していると、巨大な猫が現れる。どうやらこの家の猫のようで、人を見ても驚く様子はない。
 しかしよく見ると猫ではなくトラであった。尋常ではない大きさになって私を威嚇している。慌てて棚の上によじ登るが、トラは棚の下をうろうろと歩き回ったり私を見上げて吠えたり。
 なぜ実家にトラが住んでいるのか分からないが、私は隣の部屋で荷物を整理している妻に、部屋にトラがいるから入ってこないように大きな声で注意する。

 しばらくして、ふと母親が生前トラを飼っていたのではなかったか、というぼんやりした思いがよぎる。そう考えるとむしろトラの事を忘れていた自分に驚く。トラを飼うのはよほどの金持ちに違いない。タイだかどこかの寺院でトラを飼っているというのを聞いたことがるが、この国ではまず聞かないのだが。それでも実際にトラが家の中をうろついているのだから我が家で飼っていたに間違いはない。さて、トラの名前はなんであったかついぞ聞いたことがなかった。
 二年もの間実家は空き家になっていたはずだが、その間トラはどうやって生き延びていたのか不思議だ。庭に出て鳥やら野良猫やらを捕えては食していたのやもしれぬ。とにかくトラの奴はまるまると太っているので食うものには困っていないのだろう。
 
 それでも依然として私に狙いを定めて棚の下をぐるぐる歩き回っている。私は生きた心地がしないが、それでもトラに食べられるわけにはいかないので棚の上で縮こまっている。

 すると急にふすまが開き、お袋が立っている。寝たきりで動く事すらできなかったお袋ではなく、若々しい姿である。歳の頃なら40才くらいか。よく履いていたお気に入りのスカートにざっくりとした白いセーターを着ている。
 彼女は部屋に入ってくると私に笑いかけ、これは私が飼っているトラだから心配しなくても良い、というような事を言う。足元にすり寄ってくるトラの頭を母親がなでるとトラの奴めは急にごろごろと喉を鳴らし始め、全く猫のようになってしまった。
 私は安心して棚から降りると母親にどうしてトラなんぞ飼っているのか、と聞く。彼女は父親が亡くなったあと寂しくてやりきれないので猫をもらったのだが、年を経てトラになってしまったような事を言っている。

 いくらなんでも猫と間違ってトラをもらう話はないだろうとお袋に問いかける。困った様子で、トラになったのはそれなりの理由があるのよ、と分かったような分からないような事を言っている。

 お前が家を出た後、庭の一部をお隣さんに貸しているが良いか、とお袋が言うので庭に出てみると庭にキャベツが植えてあるのに気づく。まあお袋の好きにすれば良い、というような事を答えると、そうかい悪いねえと喜ぶ。庭は私が住んでいたころに比べずいぶん広くなっていた。キャベツは延々と向こうのほうまで続いている。
 トラの奴めは私を食べるのを諦めたのか、キャベツ畑のなかで横になって日向ぼっこを始めたようだ。まったく呑気なものである。

 私はお袋がこんなに元気なのだから家の整理はしなくてもよいのじゃあなかろうか、とぼんやり考える。たしか家を取り壊すために整理を始めたはずだったが、お袋とトラが住んでいる以上、まだまだ家を壊すことはできないと思い始めた。

 そこで目が覚める。

 いずれは実家を取り壊して処分しなければならないが、もし実家がなくなったら私は実家の夢を見なくなるのだろうか。実家で過ごすお袋や親父の夢を見なくなってしまうのだろうか。

 そも、40年近く過ごした実家を壊すことを決心できるのだろうか。

 夜中に目が覚めこんな事を考えている横で、妻が寝息を立てている。
 

<788> 230123心に穴が開くという事

2023-01-23 18:45:08 | 日記

 毎度!ねずみだ。

 親しい人が亡くなって「心にぽっかりと穴が開く」というような話しをよく聞く。私もお袋が亡くなって周囲から同じような事を訊かれる。
「お母さんが亡くなって心に穴が開いたような感じじゃない?」と。

 でも、(少なくとも私の場合は)この言葉は正しくないような気がする。

 私の場合、まだいろいろとやる事が多くて穴が開いている暇がない、というのが現状。気が張っているのだろう。
 十分に親孝行をしたし、毎週顔を見に行って心の準備ができていたから急に「ぽっかり」とは穴は開かない。後悔が全くないと言えば嘘になるが、それでもできる事は全てしたし、これからも、そうしていくつもりである。

 ただし、時々不意打ちのように感情が揺さぶられる事がある。

 妻が自分の母親と話している時に「お母さん」と呼び掛けているのを隣で聞いていて、「あ、俺にはもう<お袋さん>と呼べる人がいないんだ。」と気づき、急に涙が溢れそうになったり。誰もいない実家で一人整理をしながら、お袋が生前使っていた小物を手に取った際に、急に鼻の奥がツンとなり唐突に涙が襲ってきたり。
 足元に急に開いた小さな穴というかほころびに心の準備無しに足をとられる事がよくあるのだ。
 忙しい毎日に忙殺されこれからも親父やお袋が残した数々の案件を整理していくなかで、ほんのささいな綻びにつまづかない日は永遠に訪れそうにない。

 世の中の人たちはどうやってこうした日々に向き合っているのだろう。

 それでも。

 人は楽しかった思い出だけをつなぎ合わせて振り返る事でしか自分を慰めることはできないし、時折誰も見ていないところで急につまづき、思いっきり号泣するしかない。

 じゃ、また。


<787> 230119 お袋が会社にやってきた話(夢十夜の五)

2023-01-19 18:47:33 | 短編小説

 ある日会社の事務所に行くと、私の机の椅子に母親が座っている。

 驚いて「どうしたの?」と聞くと、なんでも暇だからお前の働く職場が見たくなった、というような事をごにょごにょ言っている。不思議と周囲は別に気にも留めないようだが、私としても仕事があるのであまり母親の相手はしていられない。

 なんだか手持無沙汰な様子でそわそわしながら座っている。お袋が読めそうな雑誌があるので、「これでも読んでいてよ。お昼になったらご飯を食べに行こう。」と話すと、そうだねえ、そうしようかねえ、と答える。

 そうしてあっという間にお昼になった。「お袋、じゃあご飯を食べに行こうか。すぐ下の階が社食だからそこでも良いかい?」と聞くと、もじもじして周囲をチラチラ見ている。
「でも、会社でお昼を食べると、ずいぶんかかるんだろう?今日はあまり持ち合わせがなくってねえ。」と小さな声で恥ずかしそうに言う。どうやらあまりお金を持っていないらしい。

「心配しなくて良いよ。昼飯くらい奢ってやるよ。」と言うと、お袋の顔がパッと明るくなった。「そうかい、悪いねえ。」

 そうして二人で連れ立って社食に向かった。


 そこで目が覚める。短い夢だった。

 今まで夢に出てくるお袋はほとんど忙しくしていた。夢の中で私が実家に行くと決まって料理を作っており、「おまえが来るって言ってたから料理しているんだよ。夕飯まだだろ?」などとてんぷらを揚げていたり、鍋をかき回していたり。
 晩年、実際には起きる事も出来なくなっていた母親だったが、夢の中では「いつまでも寝ていられないよ!おまえに夕飯つくらなけりゃいけないだろ?」と。夢の中のお袋はいつでも元気だった。

 生きている間は、祖父の面倒を見て、二人の息子の面倒を見て、親父を看取って。ずっと忙しくて休む間もなかった母親だが、あの世に旅立ってようやく一息つく事ができて息子とお昼ご飯を食べに来たのだろう。

 翌朝、お袋の遺影の前にみかんと甘いものを供えた。


<786> 230106 ミニハンバーグにまつわる話

2023-01-06 18:47:10 | 日記
 毎度!ねずみだ。

 世界中の息子や娘がその父親や母親に関して語るとしよう。時間はいくらあっても足りないのではなかろうか。ましてや亡くなってしまった親に関して話そうとするならば、さらに時間が必要だ。

 という訳で今回も母親に関して記しておかなければならない話。

 独立して実家を出た後も、毎週日曜には顔を出していた。出先からの帰りに一度実家により飯をごちそうになる。その後自分の家に向かう。飯を食わせてもらうというのは建前で、親の顔を見るのが目的だった。
 週に一度顔を見に行くと、両親はともに喜び「最近どう?」と聞いてくる。「一週間前に話したばかりじゃないか。」と言いつつもとりとめのない話をし、昼飯をごちそうになる。それも親孝行の一環。

 例によって昼飯を食べに行ったある日の話。

 準備してないからなんでも好きなものを温めて食べてねと言われ、冷凍庫の中身を物色していると、そこのほうから冷凍ハンバーグが出てきた。弁当箱にミニハンバーグが載ったパッケージは冷凍庫の一番下に埋もれており、ずいぶん冷凍庫の中で眠っていたと推測される。

「子供が食べるようなハンバーグだよ?、どうしたのさ?」と聞くと、「浩一(兄の名前)が好きなのよ、それ。」と返ってきた。「だって、これ、子供が食べるようなハンバーグだろ?兄貴はもう50過ぎてるよ?おっさんがこんなの食べるの?」と言うと、お袋は「何言ってんのよ。子供のころからお弁当のおかずはハンバーグが一番好きだったのよ。」とさも当たり前のように言う。
「で、最近兄貴は実家に来る?」と聞くと、全然来ないような事を不満そうにごにょごにょ独り言ちる。「きっと忙しいんだねえ。しょうがないねえ。」と自分を慰めるように。
 そうして「でもね、いつ浩一が帰ってきて<お腹すいた!なんか食べたい!>って言うか分からないじゃないでしょ。だから買ってあるのよ。」と続ける。母親はさも「だからミニハンバーグを買っておくのは当たり前だ」と言わんばかりだ。

 いつ来るか分からない長男の為に。子供の頃弁当に入れて持たせていた、あのミニハンバーグを購入して冷凍庫に眠らせておく。ただひたすら長男が<お腹すいた、なんか食べたい!>と言って家のドアを開けるのを家の中で待っている。彼女はじっと待っている。
 これがうちの母親だった。いや、お袋だけでなく世界中の母親とはこんなものなのだろう。
「浩一は本当にハンバーグが好きでねえ・・・。」お袋が誰に言うとでもなく、笑いながら繰り返した。

 実家を後にして車の中、先ほどのお袋の顔を思い出した私は突然の涙に襲われた。びっくりするほど、涙は次から次へと流れ出た。

 車を停めて兄にメールを送る。
「実家に寄ってくれ!<お腹が減ったのでハンバーグが食べたい!>とお袋に言ってくれ。できるだけ早く!」

 息子への無限の愛を抱えたまま旅立った、母の人生を象徴する話である。

 じゃ、また。

<785> 230101 ピザパイの歌

2023-01-01 14:59:39 | 日記
 毎度!ねずみだ。

 新年が明けた。

 ということで昔の話を。

 私が小学校四年になるタイミングで、親父が愛知県から東京に転勤になった。転入生には往々にして2種類あり、ちやほやされる者といじめられる者に分けられる。私は後者だった。愛知の田舎から出てきたこともあり「言葉」が汚かったのが原因。
 田舎では明るかった私は口数の少ない少年に、目立たない少年になった。

 国語の時間、教科書の教材の一つに「ピザパイの歌」というのがあった。田舎の爺さんと婆さんが都会に出てきて、美味いものを食べようということになってピザ屋に入る。初めて食べたピザに魅了された爺さんが店で働かせてもらうことに。
 ある日店長は店の材料の減りが速いのに気づき夜こっそりと店の厨房を覗く。すると爺さんが歌いながらピザを焼いている。あまりに美味しそうなので店長はそのピザを食べさせてもらう。店のピザより美味かったため店長は爺さんに店でピザを焼いてもらうようにお願いするが、爺さんは断り田舎に帰る、という内容。
 爺さんが空中に放り投げる丸い生地の絵が挿絵として書かれていた。

 一読後、先生が「ここまでで何か質問がありますか?」と聞く。

 一番前に座っていた私は、よせばいいのに手を挙げる。「ピザってなんですか?」
 田舎から出てきたばかりで「ピザ」の存在を知らなかったのだ。一瞬教室は静まり返る。その瞬間私は「しまった!やっちゃった!」と気づいた。
 時すでに遅く、クラスは大爆笑の渦に。ここかしこから「えー?ピザ知らないの?」「あいつ、田舎者だからピザ知らないんだ。」という声が聞こえる。耳がカーっと熱くなるのが分かった。拳をぎゅっと握りしめて唇を噛む。絶対に涙を流さないように。泣いたら余計に笑われる。

 放課後、下を向いて帰る私の横をクラスの連中が「今日、ウチに来いよ。ピザ食べようぜ。」と声高に話しながら通りすぎる。自然と早足になり、家に近くなると走り出した。
 家のドアを開けるや否や、ほとんど叫び声にちかい声とともに涙が次から次へと流れ出た。驚いてお袋が「どうしたの!?」と声をかける。私は「い、田舎者だから、ピ、ピ、ピザ知らないって。」と言うのがやっとだった。悔し涙は一向に止まらなかった。私は話す代わりに教科書の「ピザパイの歌」の部分をお袋に見せる。お袋はすぐに理解し、私を抱きしめると「ごめんね、ピザなんて知らないよね。田舎にはなかったもんね。」と言った。
 しばらくしてようやく私が泣き止むと、お袋はエプロンをはずし、サンダルをつっかけ何も言わずに近所の小さな個人商店に走った。ピザを買いに行ったのだ。ただ残念ながら個人商店の品数には限界があり、教科書の挿絵にあるようなりっぱな丸いピザは置いてなかったようだ。玄関で立ち尽くしていた私の目の前に差し出された貧相なピザは、お世辞にもピザとは言えないようなものだった。

 こともあろうか、私は「こんなのピザじゃない!」と言ってしまった。当時の個人商店に、今ではどこのスーパーでも見かけるようなピザが置いてある訳がなく、辛うじてパッケージのラベルに「ピザ」と読める程度の、それでも私と同じくピザを見たことがない母親がなんとか手に入れてきたものに対して、「こんなのピザじゃない!」と言ってしまったのである。

 今度はお袋が泣く番だった。「ごめんね、ごめんね。」お袋も私同様に悔しかったのだろう。何度も「ごめんね。」を繰り返した。

 その後、お袋が買ってきたピザをトースターで温めて二人でもしゃもしゃと食べる事に。
 私はお袋に謝る気持ちでいっぱいだったので、なんとか「これが東京の味なんだね。」とだけ言った。そうしてまた私は泣いた。お袋も泣いた。

 それから何十年も経つ。実家に立ち寄る際にピザを買っていく度、この話をする。お袋も憶えていて、「そうね、あの時は参ったね。ピザなんて知らなかったからね。」と笑う。「あれだけ悔し涙を流したのは後にも先にも無いよ。悔し涙を流しながらピザ食べるなんてね。」と。

 だが、お袋、違うんだよ。初めの涙は確かに悔し涙だったけど、ピザを食べながら流した涙はお袋への感謝の涙だったんだ。とても大切な思い出なんだ。本当に、ほんとうにありがとう、と伝えたかったんだ。

 私はよく冗談でお袋に「お袋の通夜にはみんなにこの話するからね。」と言ったものだ。お袋も「そうだね、良い思い出だね。」と笑った。

 そうして12月の30日。暮れも押し詰まった寒い日。私は葬儀に集まった親類縁者に、お袋との約束通りにこの話をした。12月29日、お袋は先に亡くなった親父の待つ天国に旅立ったのだ。眠るように、本当に静かに息を引き取った。

 これが私の「ピザパイの歌」