鼠丼

神の言葉を鼠が語る

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2015-04-04 19:27:39 | 日記
 毎度!ねずみだ。

 先日、79歳になる父が、ふとこんな事を漏らした。
「今度車検が切れたら免許返そうかと思っているんだ。」

「ああ、ついにこの時が来たか。」というのが正直な感想。

 ここ何年かの間で車を擦ったりぶつけてちょっと凹ましたりしていたのは母親から聞いて知っていた。聞いていたがあえて知らないふりをしていたのだ。
 当然歳をとれば目も悪くなり、反射神経も鈍る。まあ大きな事故を起こす前に運転をやめてくれたら良い、くらいには思っていたのだが。最近高速道路の逆走などが取りざたされており、その当事者がすべて老人だったことも影響しているのかもしれない。
 正式には事故運転免許免許自主返納と言うらしいが、年老いた父親が免許を手放すのには逡巡があったのではないか。

 何年も前に手放したが、父親はワーゲン(ゴルフではなくカブトムシのほう)に乗っており、幼かった私はそのワーゲンが大変気に入っていた。かつて実家があった長野に行ったり、また近所に出かけるときでも1300ccの小さなエンジンは大活躍していた。私が免許を取って運転させてもらったのもこのカブトムシであり、父はこの車を大切にしていた。
 私の幼少期の「お出かけの思い出」にはその付属品として父の運転がかならず有った。

 人は成長する過程でいろんな物を手に入れる。
 それは自転車だったり、トランジスタラジオだったり。学生服であったり生涯の友人であったりパソコンであったり恋人だったり、車だったり伴侶であったり。持家だったり、会社でのステータスであったり。免許も勿論その一つだ。大学生になる前に免許を取り、ボロッボロの中古車で女の子をドライブに誘ったりもした。勿論今では助手席は妻専用になっているが、やはり車は生活の中で欠かせないものだ。

 考えてみると私たちは数えきれないほどのものを手に入れてきた。

 そして。

 老いるにしたがって手に入れた色んなものの中から、一つ、またひとつと手放してゆくのかもしれない。手に入れてきたたくさんのものはやがて重すぎて手に余るようになり、惜しみながらも手放さなければいけない、と考えるようになる。それが即ち「老いる」ということなのだろう。

 父親も老いた。79歳なのだから当然だが、たぶん多くの79歳より人生を謳歌してきた。その分手に入れてきたものも多いだろう。それらをいつまでも抱えていられるほど彼はもう若くない。
 つまりその事に気づいてしまったのだ。

 父親がその決断をするには勇気がいっただろうが、彼がそれを選択したのであればあえて反対することはしない。去年あらたに車(と言っても中古車だが)を買い与えたばかりでその車を払下げるのは若干勿体ない感もあったが、父親が決断したのであればまあ、それもよかろう。

 久しぶりに兄と話す機会があり、「オヤジが免許返納するってよ。」と伝えると「ふーん。」とだけ言っていた。口数の多い兄ではない。「まあ、父親が判断したんなら。」とだけ続けた。何か思うところはあるのかも知れない。

 オヤジよ。田舎に行くときは私が運転して行くから、心配ないぞ。それに今のオヤジにはやることがまだまだ有って、友人もさらに増え続けている。ボケている暇はないではないか。むしろ手放すものよりもさらに手に入れているもののほうが多いのではないか?

 じゃ、また。