鼠丼

神の言葉を鼠が語る

<661>

2015-05-13 10:20:44 | 日記
 毎度!ねずみだ。

 先日は「母の日」だった。普段世話になっていてながら感謝の言葉をかけない親不孝者ども、あるいは故郷を遠く離れて生活していて普段親と連絡をとっていない人たちが、せめてもの罪滅ぼしのためにカーネーションやらなんやらを送って自己満足するというイベントである。

 私は「母の日」だとか「父の日」だとか、個人的には嫌いである。実家から車で30-40分の場所に住んでいることもあり、夫婦ともに実家にはマメに顔を出している。とっくに親離れしている私達とは裏腹に、いつまでも子離れできない彼らの顔を見に行くのである。ちょっとした手土産やらおかずを作って持っていったり、車で連れ出して外食したり。年がら年中感謝の意を表すようにしている。

 私はマメなほうであるが、私以上にマメな奥さんが「何か買っていかないと。」と言い出したので何か見繕おうと新宿に出かけることにした。奥さんは何にしようか決めていなかったようだが私は買いたいものを既に決めていた。

 以前父親の喜寿の祝いに(私の親父と奥さんの父親は同じ歳なのだ。)夫婦湯のみを買って渡したことがあった。清水焼の素敵な湯飲みだった。
 で、今回も夫婦茶碗。こんどはご飯用に九谷焼のものを購入した。
 手焼きの素朴さが手にしっくり馴染む、なんとも滋味溢れる茶碗だ。パッと目が合って手にとってその納まりの良さが気に入った。高かったが購入即決だ。

 以前の湯飲み茶碗の時もそうだったが、この手の食器は使う人に対して押し付けがましくないのがよろしい。派手な自己主張をするでもなく、使う者の手の中で実に謙虚に納まっている。まるで我々の手の中に納まるべく形作られたかのようなフォルム。一見全く計算されていないようで、その実、計算しつくされているかのようで。実に日本的である。

 ウチの夫婦も信楽焼きのご飯茶碗を使っている。あいにく夫婦茶碗がなかったので同じ大きさのものを使っているが、40歳を超えてようやくこれら食器の良さが分かるようになった。

 母の日の前日、母親から「コシアブラと竹の子があります。天ぷらにするので是非いらっしゃい。」というメールがあったので、茶碗とカーネーションを手土産に実家を訪れた。
 倹約しながらの人生を送ってきた母親にとって九谷焼のご飯茶碗は驚きに値するらしく、必要以上に感激していた。

 両親ともに歳を重ねた。いつまで夫婦そろってご飯を食べる日が続くか分からないが、それまでの間この九谷焼の茶碗でご飯を食べ、以前渡した清水焼の湯飲みでお茶を飲んでほしいものである。

 じゃ、また。