鼠丼

神の言葉を鼠が語る

<805> 240425 結婚式と葬式と叔母の死(夢十夜の八)

2024-04-25 19:00:04 | 短編小説


1)こんな夢を見た

 実家である。20年以上昔に親父が乗っていた古いフォルクスワーゲンビートルに乗っている。これから妹の結婚式に行くところである。夢の中ではいつも若い親父やお袋は、いつもと違って相応の年齢、つまり私より年老いている。このフォルクスワーゲンは、いとこに貸したところぞんざいに扱われ、多摩川に流されてしまいそのまま廃車になったという悲しい経歴を持っているが、夢の中では現役で走っているようだ。

 季節は夏で、外でセミがジワジワとうるさい。親父が運転が心配だと言い出したので私が運転を代わる事に。式場に向かう途中ふと考える。我が家は兄と私の二人兄弟で、妹なんぞ居た試しがない。
 その事を両親に問うと、なんでも今まで私に隠していたが実は妹がいたと言い出した。なんとも酷い話である。生まれてこの方50年以上の間、妹が居たことを知らずに生きてきたのである。

 養子にでも出したのかしらんなどと考えているうちに式場に着く。なるほど妙齢の女性がウェディングドレスに身を包んで手を振っている。
 母親方の叔母たちの姿もある。お袋も含め5人姉妹の内生きている方が少ないはずだが、5人とも皆顔をそろえている。婆さんが5人も揃うとやたらやかましくていけない。久しぶりに5人そろったお袋の姉妹を見たが、皆ことのほか元気でその事自体はよろしい。

 それはそれとして妹をよく見ると、テレビでよく見る歌手である。なんと妹が歌手だったとは知らなかった。彼女はカラオケマイクを持ちながら周囲に手を振っている。やはり歌手というのは歌がうまいものだ、と変に納得する。
 初めて見る妹だったが、幸せそうなので兄としては胸が熱くなってくる。ところが相手が青年実業家だと聞くと、いずれ捨てられるのでは、と余計な事を考えた。
 兄のくせにサインを貰おうかどうしようか、と悩んでいる自分がいる。なんともなさけない。

 そこで目が覚めた。お袋の姉妹が全員そろう夢を久しぶりに見る。


2)翌日こんな夢を見た。

 暑い国に出張で来ている。行きかう人たちが皆頭から白い布をかぶっている。確かに異国ではあるが不思議と日本語をしゃべっている。
 
 街を歩いていると、婆さんが私の手を引っ張る。なんだと聞くと葬式があって私に参加して欲しいと言い出す。知らない人の葬式には参加できないと断ったが、強制的に長い人の列に並ばされる。

 皆一様に涙を流しておいおいと泣いている。よほど生前周囲から愛された人なのだろう。そう思いつつ列が全然進まない事にいらいらする。何しろ私は仕事で来ているのだ。
 周りが泣いているので私もだんだん悲しい心持になってくる。私の前に並んでいる女性に、どなたが亡くなったのか聞くと村の娘だと答える。そういえば列に並んでいる人の多くが少女である。彼女たちの友人が亡くなったのだろうか。

 葬儀の列に並び、照り付ける太陽にへきえきしているうちに目が覚める。

 結婚式の夢を見た翌日に葬式の夢を見るとはなんとも縁起が悪い。朝食を食べながら妻に見た夢の事を話すが、妻も出勤前でとりあってくれない。


 その夜。

 母親の姉(5人姉妹で母のすぐ上の姉、すこぶる元気である)から電話がかかってくる。

 出ると母親の5人姉妹の内、上から2番目の叔母が昨日亡くなった、との事だった。
 
 葬式の夢をみた日にそんな連絡が来るのはそこそこ不思議な話だが、それより前の日の夢に亡くなった叔母が出てきていたのにはびっくりする。死ぬ前に私に会いに来たのだ。人は死ぬ前に懇意の人の夢枕に立つ、というがそれは本当の事だ。
 幼い頃。病弱な兄を病院に連れて行く間、私は叔母のところに預けられた。私にとっては2番目の母親のような存在で、結婚した際にも泊りがけで真っ先に報告に行った、私と亡くなった叔母はそんな間柄だった。

 1年半前にお袋が亡くなり、昨年のお盆には5人姉妹の一番上が亡くなった。母親たちが暇を持て余したのかあっちの世界から呼んだのだろう。長野の施設でここ何年も寝たきりだったが、何度かLINEをつないでお袋の顔を見せたりした。最近は痴呆も進んで、あまり食事を摂らなくなったと聞いていた。長野にいるので簡単に会いに行くわけにはいかなかったが、夢の中で会いに来てくれたのでまずは良かった、と自分を納得させる。冠婚葬祭ぐらいしか親戚一派が顔を合わせる事はない、というのは本当のことのようだ。(たとえ夢であったとしても。)

 初盆には長野の寺に花を供えに行かねば。


<804> 240403 春はさなえの季節です なので

2024-04-03 19:18:02 | 日記
 毎度!ねずみだ

 子供の頃、春になると、は~るはさなえの季節ですぅ、というCMがこれでもか、というローテーションでテレビで流れていた。
 1975年から1982年の間に流れていた井関農機(ヰセキ)のCMである。うら若き桜田淳子が太もももあらわに稲を植えている姿にドキドキしたものである。いんや~ねずみも歳をとりました。
 
 それはそれとして、春は出会いと別れ、そして旅立ちの季節である。かく言う私も20221に異動願いを出し、まだ設立して間がない事業部へと移った。人生いたるところに青山あり、である。
 異動願いを出すのにはそれなりに決意が必要であるが、歳を経てからだとさらに気合と根性が必要である。通常誰もが「現状維持と安定」を望みがちで、事なかれ的に日々が過ごせれば良いと考える。経験者なら分かると思うが歳をとってから異部署でゼロから始めるのは、希望よりも不安の方が多い。
 
 それでも。金銭面やしがらみやら仕事の実績、家庭事情など数えきれない程のファクターを精査して、その結果たとえ僅差でも異動を選んだのであれば異動した方が良いのだ。

 同僚の女性、定年までもう少し、という方がこの4月から全く畑違いの部署に異動した。本人の希望なのでウェルカムな異動である。
 私のところに挨拶にきたので、「上手い所に飛び込んだね。」というと彼女はびっくりした様子を見せた。前の部署ではバリバリに仕事をしていた方なので、移動先を聞いて周囲からは「なんでまたそんなところに?」と驚かれたそうだ。ネガティブな周囲からの意見の中で「うまい所に飛び込んだね。」というポジティブな感想をしたのが私一人だけだったらしい。

 彼女が異動を決めたのにはこんな背景がある。

 今までの部署では出張のために家を空ける事が多く、娘さんが(相談したい時に相談したい母親がほとんど家にいなかったという理由で)不満が募ってとうとう不登校になってしまったそうだ。もちろん娘さんが不登校になった経緯はもっと複雑だったろう。それでも相変わらず忙しすぎて、そんな娘と向き合えなかったらしい。
 それでこれを機に出張の無い職種への移動を願い出たそうだ。これからは毎日定時に帰り娘と向き合う時間を確保したい、という。

 今までの実績が勿体ないというのが周囲の認識だったらしいが、私からすれば、娘さんと向き合う時間を最優先にしたいのであれば、その他のファクターなんぞ、クソみたいなものだと思う。彼女がそう判断したのであれば、周囲はそれを評価してあげるべき。

 長い間会社で人生をすり減らしていると、価値観は変わってきてくる。若い頃どうしても手に入れたかったものが歳をとってからは全く意味のないものになったり、逆に若い頃意味を持たなかったものが歳を経てからは大切にしたいものに変わったり。
 私自身、こうして定年まであと数年を残すだけになってみると、両手に乗るだけの、自分にとって純粋に価値あるものだけを少しずつ手に入れれば充実した余生を過ごせる、そんな気がする。

 だから、年相応に変わって来た「自分にとって価値あるもの」を手に入れるためには、全く畑違いの部署へは、気合を入れてえいっ!とばかりにジャンプして飛び移ってしまえば良い。 

 今回の結論。は~るはさなえの季節ですぅ、と同時に出会いと別れ、そして旅立ちの季節でもある。 

 じゃ、また。


<803> 240201 旧友からの手紙は嬉しいものである

2024-02-01 19:36:11 | 日記

 毎度!ねずみだ。

 学生時代の旧友から会社のアドレス宛にメールが来た。

 以前属していた職場の後輩が旧友の会社に訪問した際に、〇〇会社なら(私の)名前を知っているかな?と聞かれたらしい。よせばいいのに後輩は「知ってます!めちゃくちゃお世話になりました!」と言ってしまったらしく、旧友から私の会社アドレスにメールが届く、という運びに。

 学生時代。当時はバブル期だったこともあって、将来に対する不安などというものとは無縁な4年間を過ごした。就職なんてなんとかなるだろ、というノリだった。
 その友人が山形から出てきてワンルームマンションに住んでいたこともあって、あっという間にたまり場になっていた。私達はしょっちゅう遊びに行き、夜中まで(というか明け方まで)麻雀を打ったりビリヤードに行ったりギターをつま弾いたり。

 あれから35年が過ぎ去り身体は衰えてしまった。しかし気持ちはいつまでも歳をとらないので、あっという間に当時に引き戻される。 

 いや、懐かしい。本当に懐かしいの一言に尽きる。

 仲間でもなく同士でもなく、親友でもなく。
 「ただの友達」という響きが良い。関心と無関心の間、しがらみの有る無しのちょうど間。つかず離れずの、本当にちょうど良い距離に居てくれるのが「友達」である。

 この歳になると友達があらたにできる事は少ない。(友達という関係になるにはある程度エネルギーが必要なのかもしれない。)別に大事にしてもしなくても奴は友達である。何年も会わずとも友達である。それはこれまでもこれからも変わる事はない。おそらく彼も同様に思っているだろう。

 今はお互い忙しい身体だし家族の事もあるので、なかなか時間を共有する事はできないのが実態だが、ギターが共通の趣味である。(なんでも電子ピアノを購入したらしい。)
 引退したら、ギターを担いでそのへんの公園で再会して「歌本(歌詞とコード進行だけの簡単な譜面のようなもの)」を手に懐かしのフォークソングや歌謡曲をハモってみたい。

 その後でそのあたりの居酒屋で再会を祝すのだ。

 話す内容はあの頃と同じレベル。
 くだらない話と、下ネタと、サークルの女の子の話と、中学生レベルのダジャレ。そしてまたくだらない話。

 誰も仕事や家族の話なんか一切しないのだ。普段の生活にぶら下がったヘビーな話は必要ない。

 それが、ただの友達。

 じゃ、また。


<802> 240123 「好き」と「愛してる」と「ありがとう」と

2024-01-23 19:20:48 | 日記

 毎度!ねずみだ。

 今回の話は「好き」と「愛してる」と「ありがとう」。愛しさと切なさと心強さと、ではない。

 「好き」はものすごく自分勝手な独占欲から出てくる言葉、だと思う。
 相手の事情を一切考慮しないで自分の都合から発せられる言葉のような気がする。
 往々にして若い男性・女性が他人のアイデンティティを独占したい時に相手に伝える。かく言う私も何千回も言った記憶がある。

 「愛してる」は一方的な感情が趣くままに発せられた「好き」とは異なり、自分と相手の全てに責任を持つ覚悟が出来て初めて使える。
 両親にご飯を食べさせてもらっている上杉達也が「浅倉南を愛しています」、というのは間違った使い方。高校生の分際で相手の全てを受け止め、その人生に責任など取れるわけがないのだ。彼女の人生を受け止められるようになったら出直してこい!と思ったらいつか結婚するらしい。
 脇道に逸れたが、「愛してる」なんて言葉は「結婚」という契約(またはそれに準ずるものでも良い)がなされるまでおいそれと使ってはいけないのだ。

 さて、「ありがとう」。「好き」「愛してる」に比べていささか拍子抜けする感があるが、一番難しい言葉ではないか。なんだか気恥ずかしくて、面と向かっては言いにくい。
 だが、長年連れ添った妻に対する最もふさわしい言葉は「ありがとう」という感謝の言葉ではないか、と思うようになっている。
 恐らく私の汚れた下着を洗濯機で洗ってくれるのは世界中でお袋と妻だけだと思う。お袋が亡くなった今、彼女だけである。会社から戻ると料理をしてくれているのも彼女だけだ。(その分洗い物など後始末は率先してやっているし、出来る時は料理だってしている、念のため。)

 やはりふさわしい言葉は「ありがとう」だと思う。互いにありがとうが沢山言える夫婦は、全く言えない夫婦に比べると、上手く言えないがなんだか良い。何がどう良いのか分からないが、とにかく良いのだ。
 日本人の男はシャイなのか、奥さんが色々してくれるのを当たり前だと思っているのか、私がこういう話をすると一様に驚く。普段奥さんに対して「ありがとう」などと言わないらしい。全くもって可哀そうな連中だ。

 私はこういった連中と話をする機会があると、必ず同じ話をする。

 もし、今日あなたが呑気に酒を飲んで酔っ払っている瞬間に、奥さんが買い物途中に車にはねられて亡くなってたら、その時あなたはきっと後悔するだろう、もっと「ありがとう」という感謝の言葉を言っておけばよかった、と必ず思うだろう、と。
 ちなみに私は奥さんにたくさん「ありがとう」と言うようにしている。それでも感謝の気持ちの全ては伝わりきっていないように思う。

 もっと感謝の気持ちが伝えられる言葉があれば良いのに。

 じゃ、また。


<801> 240115 古い枕を持ち帰った話

2024-01-15 19:37:42 | 日記
 毎度!ねずみだ。

 私は家での睡眠時、10代の頃から今に至るまでずっと同じ蕎麦殻枕を使っている。自分の思い通りの形にできるので重宝しているが、さすがに40年以上も使っているとあちこちほつれ蕎麦殻が外にぽろぽろとこぼれてきて辟易していた。なにしろ掃除が大変である。

 そこで実家から古い枕を持ってくる事に。住む者もいない家の中でひんやりと冷やされた枕を車に積み込み持って帰る。シミだらけの古い枕を見て、妻が眉をひそめるが、「以前使っていた枕だから大丈夫」と訳の分からない言い訳をして使おうとする。「せめて一日太陽にあててちょうだい。」と妻に怒られる。

 干し柿のように一日冬の太陽と寒風にさらされて、枕はさらに冷たくなった。今使っている枕カバーをかぶせて早速その夜から使う事に。

 夜中にふと目が覚める。定かではないが目が覚めたような気がする。
 すぐ隣で人の息というか気配というか、そんなものが感じられる。気配を感じたから目が覚めたのか、目が覚めて気配を感じたのかはよく分からない。
 とにかくそんなものの気配が寝ている左の耳越しに感じられたのだ。まあとなりで妻が寝ているのだから当然だと思いなおすが、どうも人の気配は妻の他にもう一人いるような感じがしてならない。

 さらに。

 妻は私の右側で寝ているのだ。

 私の布団の左側、妻の布団と反対側には本棚があるのだが、気配はどうも本棚の隣あたりの空間から感じられる。ちょうど誰かが枕元に座って私の顔をじっと見ているような、そんな感じである。眠さのせいだろうか、不思議と恐怖は感じなかった。
 私は目を開けてそちらを見るが当然誰もおらず、いつもの壁と本棚が見える。右側からは妻の寝息が聞こえるばかりである。妻の方を見やると、うすぼんやりと彼女が布団にくるまって寝息をたてているのが見える。もう一度左を見ると、もう気配はなかった。しばらく起きていたが、いつの間にか再び寝入ってしまったようで次に目を覚ましたのは朝だった。

 久しぶりに枕を変えたので不思議な夢を見たのだろうか。本当は全て夢の中の出来事で、夜中に目など覚ましていないのだろうか。

 妻には言っていないが、実はこの枕はお袋が実家で長い間使用していたものであった。亡くなる間際までお袋の頭を支えていた枕である。枕についているシミは私が付けたものではなく、お袋が付けたよだれなのかこぼした薬か何かの類によるものなのだ。
 
 お袋が亡くなって一年が経つが、もしかしたら自分で使っていた枕を息子が使い始めたので、懐かしくなってあの世から会いに来たのだろうか、と考えてみたりする。枕元に座って息子が自分の枕で寝ているのを見に来たのかもしれない。
 妻にこの話をしようかどうか逡巡したが、どうせ信じてはくれないのでやめておく。お袋が亡くなって一年経つが、私は相変わらず両親の夢をよく見る。これからはさらにその頻度が増えるかもしれない。

 お袋はゆっくりと死に至る途中、施設のベッドの上、浅い眠りの中で息子の夢を何度も見ただろうか。

 じゃ、また。