鼠丼

神の言葉を鼠が語る

<807> 240520 忘れない事と忘れる事の差は

2024-05-20 18:38:53 | 日記

 毎度!ねずみだ。

 今回はメモリーの話。 

 パソコンのメモリー。CPUが演算処理する間、一時的にデータを記憶する装置でギガバイトやテラバイトという単位であらわされる。

 今会社で使用しているデスクトップのメモリーは8ギガバイト。20年前に使っていた会社のでかい筐体のPCは256メガバイトだった。1ギガバイトは1,024メガバイトだから、当時の32倍である。どうりでどんなでかいデータを扱ってもサクサク動くはずだ。
 昔,でかいエクセルのデータを扱ってしょっちゅうPCが止まってしまうので、仕事をほとんどしない上司のPC(512メガバイト)を開け、メモリーをこっそり1枚引っこ抜いて勝手に自分のPCに増設したことがあったっけ。仕事なんかほとんどしていない上司だからばれないだろうと高を括っていたら「なんか最近パソコンがしょっちゅう止まるんだけど・・・。」とシステムの連中に電話しやがった。
 社内のシステム屋がPCを確認して、「512MB仕様だったのにメモリーが減ってますよ!」と騒ぎになり真っ先に私が疑われた。懐かしい。

 さて。

 最近の大容量パソコンとは違い、人間のメモリーは悲しいほどに少ない。特に私はメモリーが少ないうえにCPUの処理スピードも遅い。恐らくどこぞの基盤が傷んでいるに違いない。
 もうすぐ人生57週目に入るのだが、すでにメモリーカードが満杯になっており、新しい事を憶えようとするとどこかで古い事が押し出され忘却の彼方に消えてしまう事が多くなった。もしかしたらメモリーの容量自体がさらに少なくなっていくのかもしれない。全部で2バイトくらいしかないのか。

 強烈な刺激を伴ってメモリーに書き込まれた案件であれば記憶しておけるのは当たり前だが、子供の頃に体験した、どうでも良いような事を数十年経ても憶えているのはどういう仕組みだろうか。ほんの数秒みただけの夢の内容まで憶えているのはさらに不思議である。

 子供の頃、しょっちゅう熱を出す子供だった私は、水枕に頭を乗せよく同じ夢を見た。
 夏の夕暮れ時に、古い町並みの間を抜ける細い道を歩いている。足の下はアスファルトではなく乾いた土で、歩くたびに土ぼこりを上げてザッザッと音がしている。左側は白く長い土壁がどこまでも続いており私の足音以外全く音がしない。
 どれだけ歩いても誰にも出会わない。ただ長い影をひきずってトボトボを歩いている。ようやく土塀が切れたところで左に曲がると誰かの家の軒先が見えるが人の気配がない。庭の切れ目まで行くとはるか下に細い川が流れているのが見える。私はあきらめてもと来た細い道にもどり、
また延々と歩き続ける。そんな夢だ。
 キリコの絵を初めて見た時、自分の見た夢に似ている事に驚いた事がある。誰もいない町でタガ回しをしている女の子と町の向こう側の影だけが見える、有名なアレである。見ているものを不安にさせる。

 文字にしてしまうとなんていう事も無い夢だが、夢の中の私はただただ不安である。不安は子供の私にとって恐怖と同じであった。目が覚めるとひどく汗をかいていて、ああ夢で良かった、と独り言ちる。
 こんなくだらない夢を憶えているよりも、もっと他に憶えておくことがあるだろうと思うのだが、私の少ないメモリーの中でこの記憶はいつまでも居座っている。

 できれば楽しい記憶だけ憶えておきたいものである。亡くなった両親に関してもそうだが、毎日の生活の中に時々起きる、ささやかだが幸せに感じる瞬間だけを大切にメモリーに刻み付けておきたい。
 いつかさらにメモリーの容量が少なくなったり、CPUの処理スピードが遅くなってしまう事は避けられない。その時に嫌な記憶は全て無くなっていて、幸せな記憶だけに包まれていれば、どんなに幸せだろう。 

 そんな事を考えて、自分の脳みそに保管できない言葉たちを鼠丼の外付けハードディスクに収めている。

 じゃ、また。


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