鼠丼

神の言葉を鼠が語る

<776> マタイ福音書第〇〇節を思い出して

2022-06-29 19:22:40 | 短編小説

 とある教会で修行している若い神父。戒律の厳しい教会、有名な司祭の元で彼は幼いころから育てられた。

 司祭の言いつけで大きな森を越えた隣の町まで車で出かけた若い神父だったが、用事が長引いてすっかり遅くなってしまい、あたりが暗くなってから教会への道を急いでいる。
 真っ暗な森の中、前方に人が歩いているのに気づく。車のライトに照らし出されたのは若い尼僧であった。
 車を止めて彼女に声をかけると、彼の修行している教会に用があって行くところだと言う。道を間違え遠回りしているうちに夜になってしまったらしく、車に乗るように勧めるとたいそう喜んで乗り込んできた。尼僧は美しい顔立ちをしており、車の中は彼女の香りで包まれる。彼は軽く眩暈を覚えた。

 若い神父ははじめ横目でチラチラと彼女を盗み見するだけで我慢していた。ところが普段男ばかりの環境で日々を送っていることもあって、尼僧と二人きりでせまい車に揺られているうちに彼はムラムラしてきてしまい、自分を制することが難しくなっていた。
 しかし彼は司祭の顔を思い出して「司祭様すみません。まだまだ修行が足りないようです。」と心の中で自らを叱咤した。
 やがて若い神父はどうにもこうにも我慢できなくなる。ついにハンドルを握っている片方の手を放し尼僧の膝に手を置いてしまった。

 尼僧は少し驚いたようすだったが、彼の手の上に自分の手を置き穏やかな声で、「若き神父様。マタイ福音書第〇〇節の教えを思い出してください。」と言った。
 彼はあわてて手を引っ込めて「申し訳ありませんでした!」と彼女に謝り、自らを恥じた。「ああ、神様、私をお許しください!私はふしだらな事をしてしまいました。」そうして運転に集中しようとする。

 しばらくして雨が降り出した。はじめは小降りだった雨は豪雨となってあたりに雷鳴が轟く。
 尼僧がおびえて「きゃあ!」と声を上げる。前方の道、ライトが照らす道だけに集中していた若い神父だったが、また我慢できなくなってしまった。再びハンドルを握っていた手を放し、今度は膝よりもさらに上のほう、尼僧の太ももに手を置いた。すると尼僧は若い神父の手を掴み、少しいらいらしたような声で「若き神父様。マタイ福音書第〇〇節の教えを思い出してください!」と先ほどと同じように言った。

 若い神父はまた慌てて手を引っ込めて「すみませんでした!二度としません!」と両の手でハンドルを握りなおした。「ああ、私は神に仕える身なのに、なんという馬鹿な事をしてしまったのだ!神様、お許しください!」

 いつしか雨も止んだ。気まずい雰囲気の中、二人の乗った車は教会に到着する。若い神父は尼僧をそのまま車の中に置き去りにして車から降りると、逃げるように自分の宿舎に走って戻った。彼は夕食も食べずに布団に潜り込むと、祈りの言葉を何度も繰り返した。


 翌朝、若い神父の姿が懺悔室にあった。後悔の念から彼は昨晩ほとんど眠れずに朝を迎えた。彼は懺悔室の壁越しに司祭に向かって昨日の事を語り、許しを乞う。
 懺悔室の壁の向こう側から若い神父の話を黙って聞いていた司祭だったが、やがて穏やかに神父に語りかけた。「そうか、それは大変だったな。ちなみにお前はマタイ福音書第〇〇節の教えを知っとるかいの?」若い神父は「すみません、勉強不足です。どのような教えでしょうか?」と聞いた。

 涙を流しながら懺悔する若い神父に対して司祭は、「簡単に言うとじゃな。」とにこやかに答えた。

「汝、さらに高き所を探しなさい。されば真理にたどり着く。」じゃよ。


<775> フランス人は10着しか服を持たないらしいので

2022-06-27 18:55:53 | 日記

 毎度、ねずみだ。

 まだ6月だというのに暑くてなんともやりきれない。もともと出不精な上に暑さに弱いので暑い休日の日は
出かけるのがおっくうである。6月で35度を超えるのであれば8月には45度を軽く超えるかも。通勤時に自然発火するに違いないアッチッチ。

 通勤に使っている革靴が買い替えの時期になったので、革靴を買いに出かけるんだけども奥さんや一緒に行こうかそうか行くかいじゃあ出かけよう、と妻と二人で新宿のデパートに出かけた。
 目測をつけて買いに出かけたのだが、欲しかった靴は実際に見ると色がどうも思っていたのと違う。店員に
思っていたより色が良くないから今日は買わないで帰るよ、と伝える。
 60歳近いと思われるその女性店員はあわてて色んな靴を持ってきて、これはどうでしょうちょうどこれは今安くなっておりますだとか、これはどうでしょう新しいシリーズが出ているので少し古くなりますがこれでしたらさらに安くしますよ、だとかなんとかまくしたてる。

 4足ほど並べさせて試しに履いてみたところ、しっくりくる一足が見つかった。中にメイドインチャイナとある。リーガルブランドだから品質は大丈夫だと言うので本当か嘘だろうとスマホで検索して確認した後、その一足を購入。なんだリーガルってメイドインジャパンじゃないのか、ともう一度聞くといえいえ、リーガルが傘下に入れてなんたらかんたら、とごにょごにょ言っている。中国人の作った靴なのであまり期待せずに、それでも履き心地は悪くないので持ち帰ることに。15分ほどで買い物終了。

 妻にどうだい夏服でも見ていくかいと聞くと「ううん、要らない」というので、そっか、じゃあ昼飯でも買って帰ろうとエスカレータに乗って地下の駐車場に向かおうとする。
 ところが途中の階、婦人服のフロアで降りて別の用事を済ませると「やっぱり見ていく」と言い出す。結局それから1時間ほど見て回ることに。夏物のパンツとブラウスを吟味し始めてこのパンツにこのブラウス合うかしらと始めた。想定内である。

 どこぞでフランス人は10着しか服を持たない、と聞いた事がある。いくらなんでもそんな話はあり得ないと思うのだが、ウチの妻はフランス人では無いので服が沢山必要らしい。何十人というフランス人の分の服を持っているがそれでもまだ足りないと見える。
 もともと私の買い物が目的で来たのだが、妻の服選びは延々と続く。まあ良しとするか。

 服と言えば。

 うちの母はフランス人では無いのだが、周りに比べて持っている服の数は驚くほど少ない。少女時代貧乏な家の5人姉妹の末娘として育ったので、服はいつも姉のおさがりだったらしい。家族で撮った写真のお袋は同じ服を着て写っていることが多い。流行おくれになってしまった服でも10年くらい来ていると流行が一回りしてくる
ようで、あまり違和感がないね、などとよくお袋は言っていた。毎回不憫に思っていた。
 それもあって給料をもらえるようになってから、よく母親を連れ出して服を買ってあげると喜んだ。それでも世間一般の女性に比べると、彼女の持っている服の数は悲しくなるほど少ないのである。自分の事はいつも後回しにして、親父や兄貴や私の事を優先にしていた。

 妻が熱心に服を選んでいるのを離れてボーっと見ながらそんな事を思い出した。
 妻にはそんなみじめな思いはさせたくない。

 彼女は私の思いをよそに嬉々として服選びを続ける。まあ大丈夫のようだ。

 じゃ、また。

<774> 55歳になってはみたものの

2022-06-09 18:27:19 | 日記

 毎度!ねずみだ。

 ついに55歳になってしまった。おかげ様でなんとか生きてはいるものの、子供のころに「こんな大人には絶対になりたくない!」というような種類のおっさんになっているのがなんとも歯がゆい。「もっと素晴らしい人生を謳歌しているはずじゃないのか、お前の人生はその程度のものか!」と少年時代の私が問いかける。
 この「神の言葉を鼠が語る」サイトを見ていただいている方はどうなのだろう。子供の頃に夢描いた以上の人生を送っている方は何人いるのか。それとも私同様子供の頃の自分に問い詰められているのだろうか。

 子供の頃、山のかなたのさらに遥か向こうからやって来ると信じていたバラ色の人生は、いつまで経っても一向にやって来なかった。なんの確証もなく自分もきらびやかな人生を送れるとぼんやり思っていたのに、いざ人生という大海に漕ぎだしてみると思い通りにはいかず、周りの皆が自分を追い越していくような、そんな焦燥感と絶望に満ち溢れている。

 そう、人生は不公平と不条理に満ちているのだ。立ち止まろうにも「動く歩道」のように自分の足元がじわじわと前に向かって動いているので、相対的に見れば前に進んでいる。つまり年老いていく。
 行く先にあるのは濁流が流れ落ちる滝であり、誰しもが深い滝つぼへと落ちていくのみである。いつ滝つぼに飲み込まれるか自分では分からない。
 神様は(もし居るのであれば)なぜ周囲の人ばかり幸せにするのだろう。なぜ自分ばかりが上手く生きられないのだろう。もしかして自分の存在は彼の目が届かないほど隅に追いやられてしまっているのだろうか。だから神様は気づいてくれないのだろうか。そんな事をぼんやり考えながら暗い流れに押し流されていく。

 それでも「全体から見ればまだまだ自分はマシなほうだよね。」と自分に言い聞かせて布団に潜り込む。そして「もしかしたら明日は今日よりも少しは良いことがあるかも。」と眠りにつく。
 昔は「人生、3割悪いことが起きても7割が上手く切り抜けられたら良しとしよう。」なんて明るく考えていた。最近は「49%ダメでも51%が良ければまあまあ、勝ち越しだよね。」と控えめに考えるように。やがて「イチローだって4割打てなかったんだから7割ダメでも3割で満足しよう。」とさらにネガティブになるかも。

 自分の周り、至る所に転がっている酷く不公平で不条理なニュースを聞くことが多くなった昨今。(ネガティブなニュースがより耳に届くようになったのかも。)せめて自分と自分をとりまくほんのささやかな世界では「良くないことが起きないように」と願うばかりだ。

 あまり欲しがっても手のひらに載る以上の幸せは掴めない。

 皆様にあってもあまり欲張らず、手のひらに載るだけの幸せを掴んでほしい。なんだか暗くなってしまったなあ。

 じゃ、また次回。