(これは2017年8月22日の記事です)
Amazonプライムで映画「わたしを離さないで」を見た。
わたしを離さないで (マーク・ロマネク監督 2010年公開 イギリス映画)
カズオイシグロの同名小説を映画化したもので、すでに2回見たし、小説も2回読んでいる。大好きな作品である。
(なお日本のテレビドラマの方は見ていない)
俳優陣が、キャリー・マリガン(華麗なギャッツビー)、アンドリュー・ガーフィールド(スパイダーマン)、キーラ・ナイトレイ(パイレーツオブカリビアン)、そしてシャーロット・ランプリング(まぼろし)など何気に豪華キャスト。
もちろん小説の方がはるかにいいのだが、映画もよくできている。見るたびにいろんなことを思うのだが、今回は特に、
最後のシーンがずしりと来た。(以下ネタバレ)
キャシーとトミーが絵を携えてかつてのヘールシャムの先生を訪ね「二人が本当の恋人なら提供を猶予される」という噂が事実かどうか、また事実だとしたらヘールシャムで絵を描かせたのは、彼らの魂を探り、二人が本当の恋人になりうるかどうか測るためだったのではないかと問いかけ、二人は本当の恋人同士なので提供を猶予してほしいと願い出る場面。
厳格なエミリ先生は二人にこう告げる。
「絵を描かせたのは、魂を探るためではなく、あなたたちに魂があるかを知るためだった」
つまり、彼らが人間であるかどうか調べてみたかったというわけ。まるで実験動物を見るような冷たい目でエミリ先生はそう言い放つ。 あなたたちは人間とは違う生き物なのだと突きつけるのだ。
それがどれほど残酷なことか、エミリ先生は想像しない。なぜなら、彼女は恐れているから。
姿形は同じでも、ヘールシャムの子どもたちはエミリ先生たちの側が自分たちの都合に合わせて作り上げたいわば実験動物。その彼らに心があり魂があるとしたら、臓器提供そのものが立ち行かなくなる。それを何より恐れているのだ。
差別は恐れから生まれる。
恐れるから線を引き、自分たちとは違う生き物であると断定する。
自分たちとは違う生き物なので倫理は適用されない。生かすも殺すも自由。それは倫理上の問題にならない。
エイリアン映画、ゾンビ映画がこの論法で成り立っている。相手はエイリアン、ゾンビなので惨殺しても構わない。なぜなら彼らは自分たちの世界を侵す侵略者だから。実際の戦争もまたしかり。
恐れは過剰反応を引き出し、境界線を強固なものにして防護壁を高く築き上げる。そして、いくら高くしても十分ではないと彼らは思い始める。
それがエミリ先生とマダムの態度に現れている。
でも、キャシーたちが望んだのは、普通の人たちと同じになることではなく、ただ少しの猶予をもらえないだろうかということだったのに。
それがこの物語の核心である。
魂があるかどうか疑わしいのは、エミリ先生たちの側なのだが。
最後にキャシーは自分に問いかける。
「私たちと私たちが救った人たちに違いがあるのか。皆『終了』する。
『生』を理解することなく、命は尽きるのだ・・」
ここは
「生まれ生まれ生まれ生まれて生のはじめに暗く
死に死に死に死んで死の終わりに冥し」
という空海の言葉を彷彿とさせる。
カズオ・イシグロはやはり日本人なのだなあと思う。
そして、
この問題はいずれ人工知能の問題として再び浮上してくるだろうという気がする。
人工知能が感情を持ち始めた時、人間の側はどこで線を引き、彼らにどう対応するのか。
その一例を描いたのが「エクス・マキナ」で、この映画も非常に興味深く面白かった。
(旧ないない島通信より「エクス・マキナ」について)
http://blog.goo.ne.jp/neko-pin/e/6795bbe64214a7a49d8baaabfc69c5fb
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