新しいPCを導入するにあたり、データの整理をしています。
そこで見つけた古いブログの記事(もうネット検索かけても見つからないと思う)がけっこう面白いのではと思ったので、ここにアップしてみます。よかったら読んでやってください。
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<以下、2006年7月のブログ(くりくり日記)より>
今日は、TVで見た「ハウルの動く城」についてちょっと書いてみたいと思う。
劇場公開されたのは2年前。友人と見に行ってすごくガッカリして帰ってきたのを覚えている。
何あれ? ジブリ? 宮崎駿も歳なのか? 私たちはたくさんの???を抱え、腑に落ちない気分で帰ってきたのだった。
原作を読んでいたのであれはないだろうという感じがした。
で、昨日2回目を見た。よかった。
2回見てようやくわかる映画もある。
そこで私的ハウルの読解をちょっと書いてみようと思う。
これは、強力な女たちに取り囲まれて育ち、苦労して大人になろうとしている少年の話です。
背景に戦争があるので、戦争の悲劇を描いているとか言われてるけど、それは全然違う。
あれは、いってみれば、ハウルとサリマン(少年と母親)の戦いなのですね。
戦火がだんだん酷くなるのを見てもわかるし、戦争の唐突な終わりもそれを示唆している。
ハウルは幼い頃から強力な魔力を持った母親に恐れを抱いて育った。そこで、ある日、流れ星を捕まえて飲み込み、
自分の心臓をカルシファーに託すという方法で安全策をとった。
でも、心臓を託した彼はだんだん魔物になっていく。
ハウルは家を飛び出すのだけど、魔法の力もまだ未熟で、荒地の魔女(娼婦)につかまってしまう。
キーワードは「心臓」
ハウルが若い娘の心臓を取って食べると噂されてるし、荒地の魔女もハウルの心臓を狙っている。
心臓というのは、愛のありか、生きていることの肝心要の部分。それがないと、人間ではなくなる。
ハウルはようやくソフィーを見つけだすのだけど、荒地の魔女により(嫉妬され)90歳の老婆の姿に。
これは、男が女に求める二面性を物語ってもいる。ハウルはソフィーに18歳の少女でいてほしいと思いつつ、
同時に90歳の世話焼き婆さんでもいてほしいわけだ。都合よくね。
そんなハウルにソフィーは恋をして、何とかしてハウルを助けたいと思う。
でも、ソフィーにできるのは掃除をすることくらい。
掃除をして、家を居心地よくし、おいしい食べ物を食べさせる。
(つまりは、サリマンがしてくれなかった母親的なことをソフィーがしてあげる)
「僕にもようやく守るべきものができた」なんておバカなことをいって飛び立つハウル。
でも、守るべき相手に助けられるというお粗末さ。ここでも女が絶大な力を発揮するというわけ。
ハウルは実際、呪われているのね。魔法ではなく、女たちに。
最後はハウルとソフィーがラブラブになるシーンが出てくるけど、いずれソフィーが実権を握り、ハウルはまた逃げ出すかもしれない。
ハウルの「動く城」はハウルの心臓そのもの。
愛に飢えて、奇怪な姿になっている。だからこそ、壊されねばならなかった。
ソフィーが時々若い顔に戻るのも、魔法というのはそうしたものだから。
無防備に眠っている間は魔法の力も消えている。しっかりしなくちゃと起き上がった時、魔法は効力を発揮する。
ソフィーにかけられた魔法はソフィー自身が解かないといけないということ。
だからこそ、ソフィーは荒地の魔女をも取り込むことにより、自分の魔法から解き放たれていったのだ。
荒地の魔女はいかにも恐ろしげだけど、本当に恐ろしいのは冷酷な(母親でもある)サリマンのような女性。
荒地の・・という言葉からもわかるとおり、魔女は都市から追い出された漂泊の民。
だからこそ、サリマンの息子(ハウル)を狙ったのかもしれない。
まあ、こんな風に解釈してしまうと、なんかつまらない感じもするけど、でも、別の解釈もいくらでも成り立つ面白い映画だということは確か。
宮崎駿監督の一つの到達点でもあると思う。
ただ、やはり、もう少しわかりやすく説明してほしかったなあというのはあるけどね。
皆さんも、いろいろ解釈してみてね。
面白い発見があるかもしれないよ。
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以上、古い記事でした。
ついでに言えば、女はみんな魔女なのよ。男たちよ、気をつけて。
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