「安部公房全集029 1990.01-1993.01」 2000新潮社(2007年2刷)
安部公房が気持ち悪いのは言葉で力を使うからだろう。だが、それだけに素直に読めば(洗脳されれば)気持ちよいのかもしれない。
安部公房は作品作りについて嘘をついている。すべて計算ずくで、その中に本音があるとすればあまのじゃくなところだろう。読者なんかに理解されてたまるかというわけで、インタビューや対談での話もそうして作り上げられた虚構の中から引き出しているに違いない。
すべてが計算づくだ。
029の「贋月報」にも嘘があるかもしれない。安部公房の最期はどこだったか。誰とだったか。
晩年の数年は何度か体調を崩していたか。
作品ノート29にはどこで亡くなったのか書いていない。『1993年1月20日入院。1月22日早朝、心不全のため死去』
未完成の「飛ぶ男」は何度も作り直した「スプーンを曲げる少年」をタイトル変更。次に完成させようとしていた作品。
そして次は「アメリカ論」(親無し文化)だったのだそうだ。
「カンガルー・ノート」はカフカや「アリス」をやりたかったのだな。しかし、親父臭が出過ぎて、公房氏の大嫌いなテレビのお笑いドタバタのようだ。作品だけを読んでいたならば、それなりの楽しめたと思うのだが、安部公房を考えながら読むと非常につまらない。まあ、入院体験からの思い付きだから、こんなものだろう。
公房の最期まで見てから補遺を読むと、時代が遡って「この若者たちは何と戦っているのだろう」と不思議な気持ちになる。それがまた気持ち悪かったりする。こいつら、どれだけ自信家なんだ。と。
政治的な様子を見ると、現在の安倍右翼内閣は、まるで60年前にタイムスリップしたように見える。何も進歩していない政治。いいように受け取れば一貫しているとなるのか。わはは。