夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

メールと顔文字が文章力と感情表現を駄目にする

2008年07月04日 | Weblog
 友人からメールでの顔文字をどう思うか、と聞かれた。今までそのような事を考えた事が無かった。そこで考えてみた。自分の範疇には無い事を考える機会など滅多にある事ではない。これは貴重な機会なのである。
 メールを確実に連絡を取りたい時に使うのではなく、日常の会話の代わりにしている事自体が、私には信じられない。電話とは違って相手の都合おかまいなし、ではないから、失礼ではない。で、そうした場合のメールは日常の会話の代わりなのだから、複雑な事を言う必要はない。単なる挨拶程度でも一向に構わない。
 だが、会話なら顔も見えるし言葉のニュアンスも分かる。それがメールでは出来ない。だから顔文字を使う。そうやって自分の気持を伝えようとしている。それは携帯でのメールだからこそ成り立つのだろうと私は思っている。言い替えれば、携帯でのメールにはそれだけの機能しか無いと言う事にもなる。
 最新の携帯は2ストローク入力も出来るし、私もそれを持っている。でも携帯でメールを日常的にしたいとも、しようとも思わない。携帯で文章を入力するのはとても大変な事だと思う。私には体験が無いから何とも言えないが、似たような体験はしている。

 パソコンでのローマ字入力である。私は昔、英文タイプライターを使わなければ書類が出来ないような仕事をしていた事がある。だから英文タイプは打てる。しかし、日本語のローマ字入力は至難なのである。指が英文のようには動かない。英語で the world と打とうと思うと、自然に指がそのキーに行く。ところが、日本語で「たかい」と打とうと思っても、いちいち「た=ta」「か=ka」と頭の中で翻訳をしないと駄目なのである。つまり、指がローマ字を覚えていない。更には普段ローマ字で読み書きなどしていない。だから文章などなかなか思うようには出来ない。文章を考える以前にキー入力に頭を取られてしまうからである。
 しかし私は富士通が開発した親指シフトキーボードと言うのをマックでもウインドウズでも使っている。ローマ字と同じキーの数で日本語のすべてが入力出来る。だから無理が無い。こちらの方は頭ではキーを覚えていなくても、指が完全に覚えている。だから、キーボードは全く見ずに入力が出来る。だからどんどん文章が出来上がる。我々は普段、漢字仮名混じりで物事を考えているのだ。「東京」は「とうきょう」で考えてはいないにしても、絶対にTOUKYOUではない。考えるとするなら、TOKYOである。だから仮名キーで入力するのはごく自然なのである。
 そうやって比べてみると、ローマ字入力では思ったような文章にはなかなかならないのである。何よりも、考えが自然に流れない。
 ずっと昔、ある作家が当時はやり始めたワープロで書いた原稿はすぐに分かる、と言っていた。それは文章がつたないからなのである。彼は自分がワープロの入力が不得手だから、それがはっきりと分かるのである。

 そうした事から、携帯のメールで思いのたけを語るのはとても難しいはずである。その上、現在の若者は文章力が無い。それはある調査研究が明確に答を出している。即ち、筋の通った、言い替えれば論理的な考えが出来ない。長文で気持を伝える事が難しい。だからともすれば情緒に頼った文章になる。しかもそれは短い文章の組み合わせでしかない。そしてそれを補うのが、各種の顔文字になる。
 でも、と私は思う。顔文字だって単純な気持しか表現出来ない。だから顔文字で表現出来るような気持なら、文章でも十分に表現出来て当然である。即ち、顔文字は不要である。
 だが、先日息子と話していて、メールの文章で「。」があるのと無いのとでは伝わる気持が違うと言うのを聞いて驚いた。どのように違うのかまでは聞けなかったが、聞いても私が納得出来るとは思えない。
 文章でも、(笑)などとする事がある。それは苦笑であったり、自嘲的な笑いであったり、様々なのだが、「と、自嘲しております」などと書くよりもずっと簡単に気持の表現が出来る。だから時たま使う事で効果がある。のべつ幕無しでは単に鼻につくだけだし、効果はどんどん薄くなって行く。それにこうした(笑)などが使える場合は限られている。

 顔文字で気持を表現出来るのは、限られた場合のみである。親しい間柄であり、しかも砕けた会話の場合だけである。だから正式な文章には使えるはずがない。しかしこうした顔文字での表現に慣れ切って、文章では表現出来なくなってしまうと、社会でのきちんとした文章はとうてい書けそうもない。それが恐ろしい。
 製品の発注のお願いの文書で、最後に、拝んでいるような顔文字があったら、多分、相手は腰を抜かしてしまうだろう。そんな所とは取引は出来ない、と思うかも知れない。
 文章でさえ、気持を伝えるのは至難の技である。だからこそ、手紙の書き方、とか、依頼の文書の書き方、などと言う本が出ている。私自身、そうした本を何冊か作った事があるから、文章がどんなに難しいのかはよく分かるつもりである。
 そして困難な事には、読む側にも書いた側と同じような理解力が必要になる。どのように書こうとも、読む側に読み取る能力が無ければ、何にもならない。

 そして今の日本では、残念ながら、そのどちらもが欠けている。新聞にどんなに分からない、筋の通らない記事があろうとも、読者からクレームは付かないらしい。実際、私は分からない記事の事で新聞社に問い合わせた事がある。しかしながら、一つの社は、そうした事にはお答え出来ない事になっております、との答しか返って来なかった。一つの社は、なるほど、分かりませんねえ、担当に伝えておきます、で終わり。
 つまり、書く方、読む方、双方共に文章の能力が欠けている。これは新聞には限らない。書籍でもそうした情況になっている。
 先に、最近の若者が論理的な考えが出来ない、との調査報告があったと述べた。実は、論理的な考えが出来ないのは何も若者には限らないのである。大の大人が出来ていない。大人が出来ておらず、でもそれで世の中が成り立っている。そうした大人の背中を見て、子供達は育つのである。若者の姿を見て、大人は自らを反省すべきなのである。しかし、そうではなく、子供に文章を書かせる訓練をして論理的な考え方を鍛えようなどと考えているのである。何の反省も無い。そうした人々が識者として様々な発信をしている。
 そうした人々に私は問いたい。ではあなたは、論理的な考え方が出来ているとお思いか、と。

 『問題な日本語』と言う本の中には、説明に関連した幾つかの漫画がある。そして驚く事には、その漫画が、書かれている文章よりもずっと的確に事の本質を伝えているのである。私は同書の学者の考え方にはほとんどと言えるくらいの疑問があり、とうてい納得は出来ないのだが、この漫画にはひどく同感してしまう。それだけの説得力のある事を伝えている。作者の能力の高さゆえではあるが、文章にも限界がある。そうした場合に、本質を突いた絵は実に有効な働きをする。
 だが、顔文字にそのような力があるはずもない。それで気持が伝わると言う、その単純極まる考え方が私には恐ろしく思える。多分、遊びのつもりだろうから、それで良いが、それが本気になってしまう事が恐ろしいのである。
 インターネットの書き込みに逃げ場を求めた青年が居た。同じような事が顔文字のメールの世界にももしあるとしたら、こんな怖い事は無いではないか。

 「ことば」は元々は「事端」だったと言う。「事」は物事の本質で、「端」は半端との事だ。口から出た音声では物事の本質は伝えられない、と言う訳だ。古代の人々の本質を見抜く能力には恐れ入る。古代には言葉が未熟だったから、本質を伝えられない、と言う事も考えられるが、言葉は今もそれほど発達してはいない、とも考えられる。と言うのは、複雑な考え方が出来るようになったその割には言葉は進歩していないとも言えるからだ。 だから今だって「ことば」は「事の端」でもある。では、本質、つまり本当の気持を伝える手段は何か。それは顔や態度に現れる。
 7月2日のブログで、日本語が言葉に頼らない言語であるとの考えを私は批判した。同じ人間である以上、言葉に頼る割合は日本人も欧米人も変わらないと思っている。単一言語の日本人は言葉が通じる安心感から言葉を粗末にし、様々な言語環境を持たざるを得ない欧米人は言葉を大切にしているだけの違いだと思っている。
 だから彼等は日に何度も「愛している」と言わないといけないと思い、同時にそうした言葉を口に出すと言う行為を通じて、愛の表現をしているのではないのか。顔や態度に現れる、とはそうした事だと思う。「愛してる」と言う以上、顔だって愛している顔になる。愛してると言おうと思う気持がそもそもは大事なのである。それを口に出さずに愛している顔つきをしろったって、無理な話である。

 日本人だって言葉に頼らなければならないのである。それなのに、それが携帯のメールになり、足りない表現を補うのが顔文字になる。嬉しい顔を送ったから、気持も伝わるなどと考えているとしたら、それは単なる気持の出し惜しみでしかない。顔文字を使う事で、喜怒哀楽の気持を表す事がどんどん下手になるのでは、と私は思う。極端な言い方だが、ゲームだってバーチャルの世界である。そこにはまってしまうと、例えば、人が死んでも簡単に生き返ると思ってしまう危険性がある。ペットが死んだら、どこかの工場へ持って行けば、簡単に直してもらえると信じている子供が現実に存在する。
 メールも顔文字も単なるデータに過ぎない。ちょっとした事で簡単に消失してしまうようなそんな頼り無い事柄に頼っている事を私は非常に恐ろしい事だと思っている。