夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

日本語の変な言葉、変な言い方に妥協はするな

2008年07月03日 | Weblog
 インターネットで、「持論を持つ」は「持つ」が重複しているのではないか、別の言い方は無いか、との質問があった。辞書を見れば用例として別の言い方が出ているのでは、と思って調べたら、何と、四冊の内、用例のあったのはわずかに一冊のみ。岩波国語辞典で「持論を展開する」である。そして四冊の説明はほとんど同じと言えるくらいによく似ている。岩波の説明は「その人がいつも主張する説・議論。持説」である。「説・議論」が辞書により「説・意見」となったりするくらいの違いである。
 問題は「持」の意味にある。「持論」が漢語である以上、漢字としての「持」の意味を検討するのが筋である。『常用字解』では「保有し、その状態を持続する(保ち続ける)」である。
 一方、日本語としては、
1 手に取る
2 所有する
3 保つ
などの意味になる。そして「持論」の場合は「保つ」だろう。
 だから、「意見を保ち続ける」と「保つ」は重複する。

 しかし、この質問に対する解答の半分は、重言ではない、であった。
 例えば「犯罪を犯す」「歌を歌う」などは普通に通用する、と言うのがその理由である。
 「犯罪を犯す」については、『問題な日本語』でも重言ではない、と言い切っている。そして同じく「歌を歌う」はおかしくない、と言う。だが、「歌を歌う」と「犯罪を犯す」は言葉の性質が違うはずである。前者はどちらも和語だが、後者は漢語と和語の組み合わせである。「はんざい」と「おかす」。明確に違う。だから「犯罪=つみをおかす」との意識は薄く、「犯罪=はんざい」と言う一つの言葉として成立している。ここには「おかす」の意識は無いはずである。だからこそ、「犯罪を犯す」は成り立つのである。
 ところが「歌を歌う」は明らかに違う。私は名詞と動詞のどちらが先に出来たのかは知らない。岩波古語辞典では、「うた+あふ」つまり「歌+合ふ」の約が「うたふ」で、元は唱和する意味か、と説明している。と言う事は、「歌」と言う名詞が元になっているとの考えである。
 従って、「歌を歌う」は「歌を歌合う」であって、もともと、重言になる。「歌を歌う」は、古典に用例があるから通用すると言う人がいるのだが、一つとか二つの用例だけで、そのように断じる事は出来ないと思う。いくら古典と言っても、作者の間違いと言う事だってある。そして、これを肯定する人は英語のsing a songを挙げるのだが、これと同じとは言えないだろう。
 singもsongも、どちらも1音節の言葉である。そして重要なのが母音iとaの違いである。これは明確に違う。だから一つは名詞で、一つは動詞として成立しているのではないのか。これと同じような事を日本語でするなら、「歌を唄う」あるいはその反対の「唄を歌う」のようになるのではないか。
 日本語は初期の段階で漢字と言う優れた文化と出会ってしまった。始めは困難だが、漢字を習得すれば、様々な事が漢字で表現出来る。そこで和語を磨く事よりも、漢字及び漢語に習熟する道を選んだ。だから同音異義語でも表記が違うとの理由で許されて来た。「うたをうたう」はその延長線上にある、と私は考えている。だから、「うた」を「詩」とか「唄」などと書きたがるのである。

 「犯罪を犯す」「遺産を遺す」は使い慣れているからOKだ、との考え方も分かるが、それでは、間違いでも使い慣れればそれで通用するのか、と言いたい。使い慣れればOKと言う人は、その理由に「山茶花=さざんか」もあるではないか、と言う。
 これは「さんざか」の語順が間違ってしまった例である。「だらしない」は「しだらない」をわざとひっくり返した言い方である。それを今さらとやかく言う必要は無いが、だからと言って「遺産を遺す」で良い、とするのはあまりにも考えが短絡的である。
 使い慣れて通用しているから、との理由で何でもOKにしてしまう風潮を私はとんでもない事だと思っている。水は低きに流れるのである。フランスではフランス語に国が目を光らせて、正しいフランス語を守ろうとしていると聞く。自分の国の言葉を大事にしない国が栄えるはずが無い。何でもカタカナ語、それも圧倒的に英語が多い日本語は、日本人が日本語を大切にしていない明らかな証拠である。
 日本はアメリカの51番目の州であると言った評論家がいるが、現実には本当にそうなりつつあるのではないのか。政府主脳がアメリカに尻尾を振り、国民もまた尻尾を振っているなら、本当にいつかはアメリカの州の一つになってしまう。大和魂は一体どこに消えてしまったのか。