夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

どなたか合理的なDTPの仕事を下さい

2008年07月28日 | Weblog
 私はDTPの仕事もしているが、印刷会社の下請けの仕事は本当に間尺に合わない。なぜなら、クライアントの言うがままだからである。どんな無理難題を言われても、ごもっともと、その問題を解決しなければいけない。印刷会社がそれを承知で引き受けた仕事だからである。近年は素人でも、製本を除けば、印刷会社にひけをとらないような印刷が出来る。従って、印刷会社は競争が激しい。少しでも仕事が欲しいのである。だから無理を承知で引き受ける。
 そうではなくても、クライアントが非常にわがままである。昔は印刷会社に発注するのは編集者だった。クライアントの意向を受けて編集作業をし、完全な原稿を印刷所に入れる。だから無理な注文などはそもそも存在しない。
 しかし現在はそうではない。簡単に文書が作れるソフトがあり、素人でも簡単に編集作業が出来る。ただ、悲しい事に、編集のしっかりとしたノウハウが無い。そこでとんでもない物を作り、それをそのまま印刷会社に渡す。印刷会社はその中途半端な作業の結果を下請けにそのまま流してしまう。

 受けた側はさあ大変。用字用語はなっていないし、文章だって下手くそだ。使っているパソコンだけでしか通用しない文字なども平気で使っているし、そのソフトだけでしか働かない機能もふんだんに使っている。これを「汚いデータ」と呼ぶ。そのままではどうにも使えないデータだとの意味である。
 それを直し、更には用字用語を統一し、変な文章や間違いを直してどうにか一人前のデータになる。これを一体、幾らに見てくれるのか。見てなどくれない。ただ同然なのである。
 更には、何度でも様々な直しが出て来る。もともとしっかりと仕上げた原稿ではないから、ぼろぼろと出て来る。パソコン上では簡単に直せるから何の遠慮もしない。当然のように言って来る。
 その直したるや、本当に情けなくなるような直しなのだ。「……は」を「……が」に直すよう指示が来た。そこで直す。すると今度は「……が」を「……は」にせよ、と言うのである。これに類する直しが本当に多いのである。一括して一度とか二度の直しならそれでも仕方がないが、それを何度でも繰り返す。
 要するに、自分達でしなければいけない作業を他人にやらせているのである。当人達は当然にそうした作業も料金の内に入っていると思っている。だが違うのだ。そのほとんどを下請けが泣きの涙でただ同然にやっているのである。

 手を入れるのは電子記録のデータである。紙の上にきちんと固定して存在するデータではない。そこに思わぬ落とし穴がある。
 一箇所直したために、1行増えてしまう事は多々ある。そうなると、そのページの体裁が変わって来る場合がある。私の最近の仕事では、囲みの中の行が増えて、囲みの大きさも変わった。普通は単に囲み罫の大きさを変えれば良い。しかし私はそこにイラストレーターで作った影を付けていた。つまり、その影の大きさも変わってしまう。たまたま作ってなかった大きさの影だから、新たに作って取り替えた。
 するとまたもや、別の直しで元の大きさに戻ってしまった。こうした事を繰り返していると、直しの無い所にまで影響が及び、下手をすると、1行消えてしまったりもする。固定していない電子記録だからこうした怖さがある。
 だから、一度作成したデータは出来るだけいじりたくないのである。いじるなら、組版の段階ではなく、下書きの段階ですべきなのである。ところが、クライアントはそれが出来ない。きちんと出来上がった姿が想像出来ない。そこで一度出来上がらせて、それからやおら直しに掛かるのである。自分に能力が無いから他人に依頼する。それはいい。しかしそれには金が掛かるのだ。

 昔、写植で組版をしていた時代、私は編集側で発注する立場だった。その時の我々の基本的な事は、完全原稿で印刷所に入れる事、直しは出来るだけ少なくする事だった。なぜなら、直す度に訂正代を取られるからである。何文字直して幾ら、だった。だから直したくても我慢もした。
 当然である。それだけ手間ひまが掛かっているのだ。ただで済む事ではない。だが、DTPではそれがただなのだ。印刷会社は自分の所でそれをしていた時には、相手に当然のように料金を請求した。しかし下請けに出してしまえば、料金の請求はしなくて済む。請求が出来なければ、総額からそれを捻り出す必要がある。それだけ利益は減る。
 それをしたくない。クライアントに請求すれば、次に仕事は来なくなるだろう。かと言って利益を損なう事も嫌だ。そこで下請けを泣かして済ませてしまう。下請けは文句を言えば、次から仕事は来ない。
 組版のノウハウを持っている印刷所なのだから、当然、クライアントにそうした説明をして協力を求めるべきなのに、自分が損を蒙らないからと、知らん顔を決め込んでいる。

 DTPとは、単に決まった体裁に文字を流し込む仕事ではない。そこには様々な創意工夫が必要とされる。特に日本語の組版に十分適応していないソフトなどで取り組んでいる場合、本当に技でねじ伏せなければならない場面がある。
 そして時には編集者も校正者も及ばないような力を発揮する事だってあるのだ。だが、そのような事は認めてもらえない。なぜなら、下請けに出す側にそれだけの力と知識が無いから、どれほど素晴らしい仕事をしているかが分からないのである。
 その上、金銭的に見ても、DTPは設備に金が掛かっている。まずはパソコンが要る。DTPソフトが要る。これは非常に高い。そして少なくない数のフォントが要る。これまた高価である。高性能のプリンターも要る。スキャナーも要る。その他周辺機器も必要だ。
 そうした必需品の使用料も出ない。

 ある時、校正の仕事と比べてみた。どちらも知識やノウハウはあるとの前提である。校正では、設備は要らない。普通には国語辞典と用字用語辞典がそれぞれ一冊ずつあれば、最低限の事は出来る。一般的にはそれほど高度な事は求められていない。 
 もっとも、私は出来るだけ多くの各種事典類を総動員して校正をしているが。
 単純に時間計算をすると、校正の方が遥かに効率が良いのである。しかも設備費が掛からない。変な話、DTPでは一通りの校正までもしているのである。
 私はDTPを個人的な仕事として請け負っているからこれで何とかやっているが、もし会社として受けたら、とてもじゃないが、人件費を払う事すら覚束ない。
 そんな犠牲を払ってまで印刷会社を支える必要は無い。