夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

情報を正しく理解するには正しい文章が必要だ

2008年07月27日 | Weblog
 集合ポストに各戸の防災設備の点検のお知らせが入っていた。7月26日土曜日の午後1時から4時30分とある。
 大分経って、一階のホールの掲示板に同じお知らせが出た。内容は既に知っている。タイトルも同じである。日時も同じだ。だから中は読まなくても分かる。そして一番下に、「御訪問するお宅には事前に御連絡を致します」と書いてある。
 この文言を見て、そうか今回は点検する家としない家があるのだ、と思った。「御訪問するお宅には」と書いてある以上、そう思うのが当然である。そして我が家にはその事前連絡は無かった。今回はパスらしい。
 そうしたら、26日の午後、突然に玄関のチャイムが鳴り、設備の点検に来たと言う。おいおい、待ってくれよ。うちには何の連絡も無かったから何の準備もしていないぞ。当然ながら、点検はすべての部屋に入る。きちんと片付けていない部屋だってある。
 部屋の整理をするまで、どこか他を先にしてくれ、とお願いして、私は慌てて部屋を整理した。

 ホールに貼ってある掲示を見に行った。そこには確かに一番下に先ほどの文言が書いてある。だが、そのすぐ上に「全戸が対象です」と書いてあったのである。その部分を私は見落としていた。
 しかし全戸が対象なら、日時だって分かっているのだから、何も「事前に御連絡する」必要など無い。いつだって、何時何分頃などと連絡がある訳ではない。午後1時から始まり、最上階から始まるから、階数に応じて、大体の時刻が分かる。
 だから「全戸が対象」なら、掲示の文言はそれだけで十分である。何も「御訪問するお宅には事前に御連絡を致します」などと書く必要は無い。そんな事が書かれているから、訪問する家としない家とがあると思ってしまうではないか。「御訪問するお宅には」の言い方は、「御訪問しないお宅」もあるとの前提である。
 点検の業者に聞いてみたら、事前に御連絡する、とは先のチラシの事らしい。しかしちらしは掲示板のお知らせよりずっと前に入っているのである。そんなのが事前の連絡になると言うのか。順序がおかしいではないか。ちらしがそうなのなら、「御訪問するお宅には既に連絡を差し上げてあります」と書くべきなのである。
 掲示板のお知らせがあって、その後に各戸のポストにお知らせが入っているのが筋だろう。それが「事前の御連絡」になる。

 その事を管理人に言った。このお知らせは建物の管理会社がしているのであって、管理人には関係が無い。しかし掲示板に貼ったのは管理人である。管理人は建物の管理会社の従業員でもある。だが、管理人はこの文言に何の疑問も持たなかった。ほかの各家の人達も疑問を持たなかったらしい。私のように解釈した人間は居ないらしいのだ。
 注意不足だよ、と言われても仕方が無い。「全戸が対象」とすぐ前に書いてあるのだから。だが、繰り返すが、それなら「御訪問するお宅には事前に御連絡致します」もくそも無いではないか。それに、連絡はこの掲示板のお知らせで済んでいる。そのお知らせに「事前に云々」が書かれているのである。連絡などしなくても、この掲示板のお知らせで十分用は足りている。この掲示板を見ない人には、「事前に云々」の文言は何の意味も持たない。
 だから「御訪問する云々」があれば、誰だって私のように考えるのではないのか。私の考え過ぎなのだろうか。世間の人は、「全戸が対象」と「御訪問するお宅には」の二つの文言を何も疑問を持たないのだろうか。この二つの文言は絶対に違う事を言っていると私は思う。同じだと言うのなら、「御訪問する前に御連絡致します」と書くべきだと思う。そしてその「御連絡」は当然に掲示板のお知らせの後にするべきである。
 もっとも、二つの文言が矛盾していると分かれば、おかしいではないか、と考えるのが普通ではある。それで、この両方を見た人は、一体、どのように考えたと言うのだろうか。私は最後の文言しか見なかったから、矛盾とも思わなかったのである。

 なぜこんな事を言っているのかと言うと、もしもこの私の考えが通用しないのであれば、私はプログの発信を考え直す必要があるからだ。そして書いている様々な原稿も根本から見直さなくてはならない。上のような考え方で私は世の中の事を見て、そして考えているのである。
 幾つかの原稿を送っているある出版社の編集者は、「何か文句ばかり言っているように思えます」と言うのである。確かに私の言っている事は小さな事だ。だが、大きな事を言ったから、どうだと言うのか。名も無い人間が大きな事を言っても、たとえ、それが真実であっても、多分、聞く耳を持たないはずだ。
 それに我々が実際に出来るのは、小さな事しか無い。小さな一つ一つを積み上げてこそ、大きな事も達成出来る。今、小さいからと見逃されているいい加減な事がたくさんある。それを放っておいて、大きな事を言ったって何の意味も無いではないか。
 掲示板の二つの文言を私が見ていたなら、ははあ、世の中には訳の分からない事を書く人がいるものだ、と呆れるだけで済んだ事だろう。このような文章を平気で書く人は驚くほど大勢居るのを私は知っている。そしてそうした事を批判すると、「つまらない文句を付けている」と思われてしまうのである。

 ここで、我が意を得たりと、しゃしゃり出て来るのが、日本語は言葉に頼らない言語である、との考え方である。言葉に頼らず、気持に頼るのだ、と言いたいらしい。それは反面正しい事でもあるが、だからと言って言葉をいい加減にして良い訳が無い。見ず知らずの人間同士が意思を疎通させるには言葉しか無いのである。性格も何も知らない人間の気持をどうやって汲み取れると言うのだろうか。